5話
埃っぽい倉庫から、季節外れのニットを抱えて戻った美咲は、重い足取りで従業員用のロッカーに向かった。鍵を開けようとした彼女の目に飛び込んできたのは、扉の隙間に無造作に差し込まれた一枚のチラシだった。
『オリエント・スクエアの歴史を語る会』
主催者の名には、このビルの地主であり、大家でもある鈴木宗一郎の名が記されている。開催場所は、一階で小川葵が営むカフェ「リセッタ」。
美咲は、少し湿った紙の感触を指先に感じながら、そのチラシを強く握りしめた。 (歴史を語る……? そんなの、老人たちの感傷に浸るだけの集まりじゃない) 鼻で笑い飛ばそうとしたが、彼女の脳裏には打算的な考えがよぎる。鈴木は、このビルの行く末、つまり再開発の鍵を握る最重要人物だ。彼が何を考え、どう動こうとしているのか。それを知ることは、自分の未来を勝ち取るためのヒントになるかもしれない。
彼女はすぐさま、このビルの情報通であり、良き相談相手でもある葵に会いに行こうと心に決めた。再開発という抗えない運命を前にして、オリエント・スクエアに住まう人々は、それぞれの胸に秘めた「過去」と「未来」の断片を、隠しきれずに露呈させ始めていた。
追憶の朝:カフェ「リセッタ」にて
オリエント・スクエアの大家、鈴木宗一郎は、再開発の合意書にサインをした張本人でありながら、誰よりもこの剥げかけた壁や軋む階段を愛していた。彼の朝は、数十年間変わることなく、小川葵のカフェ「リセッタ」の止まり木で始まる。
湯気が立ち上るカウンターの隅。鈴木は、昔ながらの深い苦味が特徴のブレンドコーヒーを啜り、添えられたモーニングトーストをゆっくりとちぎっていた。彼の目の前には、美咲がロッカーで見つけたものと同じ、手作り感の漂う告知チラシが広げられている。
「鈴木さん、この『語る会』……本当に開催するんですか?」
葵が二杯目のお冷やを運びながら、控えめに声をかけた。鈴木はカップを置き、深い皺の刻まれた顔を上げて、重々しいため息をついた。
「ああ、やるさ。このビルが瓦礫の山に変わる前に、壁に染み付いた埃の一粒一粒、そしてここで生きた人々の声を、ちゃんと言葉にして残しておかんといかん。そうしないと、この場所は誰にも弔われずに、ただ消えてしまうからな」
弔いという名の決別
「弔い……ですか。なんだか、寂しい響きですね」
葵の言葉に、鈴木は自嘲気味な笑みを浮かべた。 「取り壊しに判を押したのは、他でもないワシじゃ。ビルは老朽化し、ワシ個人の貯えでは修繕費をまかないきれん。市の補助金という名の劇薬なしでは、このまま静かに崩壊を待つだけじゃった。だから、未来のために『仕方なく』諦めたんじゃよ」
そこまで一気に語ると、鈴木の眼差しに鋭い怒りの色が混じった。 「だが、あの阿部議員のやり方だけは、どうしても虫唾が走る」
地元の有力政治家、阿部俊介は、再開発の旗振り役として強引に立ち退きを進めようとしていた。阿部は鈴木に対し、新しく建設される複合モールの一等地に「記念碑的」な特別区画を用意すると持ちかけてきたが、鈴木はそれを即座に撥ねつけた。彼の望みは金銭的な補償でも、形ばかりの栄誉でもない。ただ、このビルが刻んできた「正しい歴史」が、人々の記憶に刻まれることだけだった。
「葵ちゃん。君の父親は、このビルが一番輝き、活気に満ち溢れていた時代を知っている。あの頃の熱量を、少しでも皆に思い出してほしいんだよ」
鈴木の濁った瞳の奥には、セピア色の古い映画を眺めているような、優しくも切ない光が宿っていた。




