39話
その夜,佐藤の連絡を受けた阿部俊介は,憤怒と恐怖に顔を引きつらせながら,人目を避けて「黄昏文庫」を訪れた. 昼間の賑わいが嘘のように静まり返った商店街の片隅で,阿部は周囲を執拗に警戒しながら,錆びついた扉を叩きつけるようにして開けた.店内に立ち込める古い紙の匂いと防虫剤の香りが,彼の焦燥をさらに激しく煽り立てる.電球の弱々しい光の下で待っていたのは,感情を一切排した瞳を持つ男,佐藤悠馬であった.
阿部は佐藤を見るなり声を荒げた.「貴様,一体何のつもりだ! あの記録をどこで手に入れた!」 その声は震え,エリート政治家としてのメッキは完全に剥がれ落ちていた.額には脂汗が浮かび,瞳の奥には,これまで築き上げてきた地位が一瞬にして灰になることへの剥き出しの恐怖が張り付いていた.彼は机を激しく叩き,目の前の古本屋を威圧しようと試みたが,佐藤の表情は一向に変わることはなかった.
佐藤は,微動だにせず,静かに机の上の分厚いファイルを指し示した.「鈴木さんから託されました.20年前,あなたが『フロンティア企画』で主導し,頓挫した『ニュー・オリエント・シティ構想』の全てがここにあります」 佐藤の声は低く,夜の静寂に深く溶け込むようであった.しかし,その言葉には逃れようのない真実の重みが込められており,阿部はその一言一言に打ちのめされるような感覚に陥った.
突きつけられた代償
阿部は顔面蒼白になった.「それを公表すれば…,私の政治生命は終わる! それが狙いか,この薄汚い古本屋が!」 彼は荒い息を吐きながら,佐藤を激しく睨みつけた.成功者としての虚像,再開発による功績,将来の約束された椅子.それらすべてが,このカビ臭い部屋に置かれた一束の紙によって消滅しようとしている事実に,阿部は猛烈な眩暈を覚えた.
佐藤は冷徹な視線を阿部に向けた.「私の狙いは,あなたの破滅ではない.私は,ただこのビルの『歴史』を守りたいだけだ」 佐藤は椅子に深く腰掛け,まるで一冊の歴史書を読み上げるかのような静かなトーンで続けた.誰かを破壊することではなく,積み重ねられた時間を正当に扱うこと.それが一人の記録者としての彼の矜持であった.彼は,過去の過ちを葬るのではなく,それを現在を救うための楔として使うことを決めていた.
彼は,阿部の呼吸が整うのを待って,静かに「取引」を持ちかけた.
「私はこの記録を,永久に公表しないことを約束します.ただし,一つだけ条件がある.オリエント・スクエアの住民に対し,再開発の期限を半年間延期し,十分な移転準備期間を与えること.そして,このビルに対する全ての嫌がらせと圧力を即刻停止すること」 佐藤の言葉は,阿部の逃げ場を完全に塞ぐための精密な包囲網であった.半年という猶予は,阿部にとっては大きな足踏みとなるが,破滅的な結末を回避するためには,飲まざるを得ない絶妙な譲歩案でもあった.
阿部は激しく動揺した.出世欲に燃える彼にとって,半年の延期は手痛い痛手であったが,過去の醜悪な失敗が公になることに比べれば,それは遥かに軽い代償に他ならなかった. 彼は荒い息を吐きながら,必死に損得を計算した.沈黙が支配する店内で,古時計の刻む音だけが阿部の焦りを執拗に増幅させていく.やがて,彼は屈辱に耐えかねたように顔を歪め,声を絞り出した.
「わかった…。その条件を呑もう.だが,そのファイルを今すぐここで処分しろ」阿部は震える声で言った. 彼は必死に手を伸ばし,過去の証拠を自らの手で灰にしようとした.しかし,佐藤はその動きを制するように,ファイルを静かに手元へ引き寄せた.
「ファイルは私が保管します.私が生きている限り,あなたの過去は世に出ることはありません.ただし,約束を破ればすぐに公表します」佐藤は言い放った.




