36話
フリーマーケットの成功から数日後。小川葵は、カフェ「リセッタ」にいつものように朝食を摂りに来ない鈴木宗一郎の不在に、強い不安を覚えた。
あの日、あんなに多くの笑顔に包まれ、ビルの再生を確信したはずなのに、窓から差し込む朝の光はどこか頼りなく、店内の静寂を際立たせていた。いつもなら開店と同時に扉を開け、「おはよう、葵ちゃん」と穏やかに微笑むはずの老人の姿がないだけで、カウンター越しの風景はぽっかりと穴が開いたような違和感に満ちている。
「鈴木さん、今日まだ来てないですね。フリマの準備で無理をさせてしまったんでしょうか……」
葵は、仕込みの手を止めて高橋美咲に尋ねた。美咲もまた、心ここにあらずといった様子で、並べられたティーカップを意味もなく磨き直している。
「そうですね。あの日は本当に嬉しそうに走り回っていらしたから。少し疲れが出たのかもしれませんね」
美咲が不安げに視線を落とした、そのときだった。
裏口の重い鉄扉が乱暴に開け放たれ、慌てた様子のテナント仲間が肩で息をしながら飛び込んできた。その顔は青ざめ、額からは嫌な汗が流れている。
「大変だ! 大家の鈴木さんが、自宅で倒れて病院に運ばれたって! 今さっき、管理会社から連絡があったんだ!」
「えっ……嘘でしょう?」
葵の手からトングが滑り落ち、乾いた音を立てて床に転がった。胸が締め付けられるような激しい鼓動が鳴り響く。このオリエント・スクエアという巨大な船の「心臓」とも言える鈴木宗一郎が倒れたことは、再開発に対する住民の抵抗を一気に弱めてしまう、あまりに決定的で残酷な出来事になりかねない。彼という支柱を失えば、このビルの均衡は容易く崩れ去ってしまう。
葵と美咲は、エプロンを脱ぎ捨てるのももどかしく、すぐに指定された病院へ駆けつけた。
消毒液の匂いが鼻を突く白い廊下を、祈るような思いで走り抜ける。ICUではなく一般病棟の個室だと聞かされたとき、ようやく肺の奥まで空気が届いた心地がした。病室を訪ねると、鈴木は幸いにも意識を取り戻しており、命に別状はないとのことであった。しかし、横たわる彼の体は、昨日までよりも一回りも二回りも小さく、脆いものに見えた。立ち会った医師の説明によれば、今回の件は慢性的な睡眠不足と、極度の疲労、そして何より大きな心労が重なったことによる虚脱状態だという。
カーテン越しに差し込む午後の光が、病室のベッドを白く照らしていた。鈴木は、部屋に入ってきた葵たちの姿に気づくと、弱々しくも、いつもの穏やかさを失わない笑みを浮かべた。
「心配かけてすまないね、葵ちゃん。美咲ちゃんも、仕事中だったろうに。ワシは大丈夫だよ、少しばかり横になっていれば、すぐにまたあの店で珈琲を飲めるようになる」
その言葉とは裏腹に、布団から出た彼の手は、枯れ木のように細く震えていた。鈴木は窓の外に広がる、この街の空を遠く見つめるような目をして、独白するように続けた。
「ただ、ふとした瞬間にね、考えてしまうんだよ。このビルがなくなることが、まるでわしの人生そのものの終わりみたいに感じてしまって……。そう思ったら、急に足元から力が抜けてしまったんだな」
彼は、表向きには再開発に合意するという苦渋の決断を下しながらも、その心の深層では、誰よりもこのビルとの「別れ」を恐れ、悲しんでいたのだ。大家としてではなく、一人の人間としてこの場所を愛し、共に生きてきた彼の、あまりに切実で純粋な愛着が、葵の胸に強く響いた。
次のステップとして、私にできること
鈴木宗一郎という精神的支柱を欠いた中で、阿部議員がさらに攻勢を強めてくることが予想されます。
佐藤悠馬が病院を訪れ、手に入れた過去の記録を鈴木に見せるシーンを執筆しましょうか。
あるいは、大家不在を好機と見た阿部議員が、強引に最終合意書への捺印を迫るために病室へ現れるシーンに繋げましょうか。
ご希望を教えてください。




