3話
阿部議員と佐藤悠馬の間に生じた張り詰めた空気は、結局のところ、自然に解けることはなかった。
葵が半ば強引に阿部の腕を取り、店の奥へと引きずり込むことで、ようやく場は収まったのだ。
重たい木製の扉が閉まると、表の喧騒は途切れ、バックヤード特有の狭さと静けさが二人を包んだ。
古い冷蔵庫の低いうなり声と、壁に掛けられた時計の秒針の音だけが、やけに大きく聞こえる。
阿部は腕を振りほどき、整えたスーツの袖を払いながら、苛立ちを隠そうともしなかった。
「まったく……」
そして、間髪入れずに切り出す。
「君のお父さんの築いた信頼を、君が壊すのか?」
その言葉は、刃物のように正確だった。
阿部は、葵の弱い場所をよく知っている。
「若い君が、この街の未来を切り開くんだ。
さっさと同意書にサインして、新しい場所で立派な店を再建すべきだ」
再建。
未来。
希望。
どれも正しい言葉に聞こえるからこそ、葵は反論できずにいた。
「新しい場所……」
思わず、声に出る。
自分の店を持つこと。
それは、ずっと胸の奥に抱いてきた夢だった。
だが、夢はいつの間にか、行動を縛る鎖にもなっていた。
父が病に倒れ、長年続けてきた喫茶店を閉めた日から、葵の中には「失敗への恐れ」が根を張っている。
もし新しい場所で失敗すれば、今度こそ、この街に居場所はなくなる。
この古びたオリエント・スクエアの片隅。
ここは、彼女にとって店であり、同時に「逃げ場」でもあった。
「移転先は、どこでもいいんです」
葵は、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「ただ、このビルじゃない場所で、自分の力で店を続けられるかどうか……それが問題なんです」
阿部は答えなかった。
代わりに、薄く笑い、封筒をカウンターの上に置いた。
結局、葵はオファーを保留したまま、阿部を帰した。
扉が閉まり、足音が遠ざかると、ようやく肩の力が抜ける。
だが、安堵は長く続かなかった。
手の中には、阿部が置いていった再開発計画のパンフレットが、湿っぽく残っている。
紙は、雨の日特有の重さを帯びていた。
ページをめくると、そこには再開発後の「モダンなショッピングモール」のCG画像。
ガラス張りの通路、白く均一な照明、整然と並ぶテナント。
リセッタの、年季の入った木製カウンターとは、あまりにもかけ離れていた。
阿部議員が去った後、佐藤悠馬は、何も言わずに自分の古書店「黄昏文庫」へと戻っていった。
ビル一階の隅。
薄暗い廊下の突き当たりに、その店はひっそりと存在する。
店内は、天井まで届く本棚と、古書特有の埃っぽい匂いで満たされていた。
本の背表紙は日焼けし、文字はかすれて、判読しがたいものが多い。
佐藤は店に入ると、さきほどまで読んでいた『都市と不在』を、元あった棚に戻した。
そして、埃を払うように、静かに手を二度叩く。
「余計なことをしたな」
誰に聞かせるでもない独り言だった。
彼が阿部に反発したのは、単なる義憤からではない。
阿部の口にした「片付ける」という言葉が、佐藤の過去の傷を、正確に抉ったからだ。
それは、彼自身がかつて、
“片付けられた側”だった記憶に、直結している。




