2話
「小川くん、話がある。奥へどうぞ」
阿部俊介は、店内の空気など最初から存在しないかのように、よく通る高圧的な声を張り上げた。
雨音と古いジャズが溶け合っていたカフェの静けさが、その一言で乱暴に引き裂かれる。
数人いた客が、無意識に視線を伏せる。
関わり合いになりたくない――そんな沈黙が、店内に広がった。
「お店の営業時間中です、阿部議員」
葵は、カウンターの中から一歩も動かずに答えた。
声は落ち着いていたが、胸の奥では心臓が早鐘を打っている。
「要件があるなら、ここで結構です」
阿部は鼻で笑った。
「そうはいかない」
スーツの内ポケットから、白い封筒を取り出す。
その仕草は、まるで勝敗がすでに決まっている将棋を指し直すような余裕に満ちていた。
「立ち退き費用と、移転先の『特別なオファー』だ。
君が素直に応じてくれれば、他のテナントも一気に片付く」
――片付く。
その言葉が、葵の耳に引っかかった。
「君のお父さんの旧知の仲だろう? 無下にはしないつもりだ」
恩着せがましい口調。
父の名を出されるたびに、葵は自分の居場所が少しずつ削られていく気がした。
そのときだった。
チリン。
入口のベルが、小さく鳴った。
音の主は、扉ではない。
佐藤悠馬が、静かに席を立ったのだ。
テーブルの上には、飲まれないまま冷えきった珈琲と、開かれたハードカバー。
頁の途中で時間が止まったかのようだった。
佐藤は、阿部の正面に立つと、まっすぐにその顔を見据えた。
視線を逸らさない。その態度だけで、十分すぎるほどの意思表示だった。
「議員さん」
声は低く、しかし不思議なほどよく通った。
「あなたは、いつも『片付ける』という言葉を使いますね」
阿部の眉が、わずかに動く。
「ここにあるのは、ゴミですか?」
佐藤は続ける。
「人の人生を片付けるのは、ずいぶん簡単なようですね」
その言葉は、怒鳴り声ではなかった。
だからこそ、重く、深く、店内に沈んでいった。
空気が一気に張り詰める。
雨音すら、遠くなった気がした。
阿部は、舌打ちをひとつ鳴らし、佐藤をねめつけた。
「あなたのような時代遅れの古本屋が、口を出すべきことではない」
吐き捨てるように言う。
「ここは発展するんだ。未来のために、過去は退くべきだ」
佐藤は、一歩も退かなかった。
「未来?」
静かに問い返す。
「それは、あなた個人の出世のことでは?」
背後の壁一面には、彼が長年守り続けてきた無数の本が並んでいる。
時代に置き去りにされた言葉たちが、無言のまま立ち並び、佐藤を支えているようだった。
葵は、その二人の間に割って入ることができなかった。
いや、できなかったのではない。
してはいけない気がしたのだ。
視線を落とし、濡れた木製の扉と、ガラス越しの冷たい雨を見つめる。
この場所が、もう「安全な日常」ではなくなったことを、はっきりと理解してしまった。
再開発という言葉が、現実の重さをもって迫ってくる。
この「オリエント・スクエア」の終わりは、
人々の間にあった静かな対立を、
一気に「衝突」へと変えようとしていた。
取り壊しまでの日数は、あと365日。




