1話
小川葵が経営するカフェ「リセッタ」のガラス窓は、今日も薄く曇っていた。外は五月だというのに、妙に冷えた雨が降っている。窓ガラスに頬を押し付け、街路灯の光を滲ませながら眺めているのは、向かいの古書店「黄昏文庫」の店主、佐藤悠馬だった。
佐藤は珈琲を頼まず、隅の席でハードカバーを広げ、何時間も動かない。まるでビルの「壁」の一部になったかのように。
「佐藤さん、珈琲のおかわり、どうですか?」
葵はエスプレッソマシンを拭きながら声をかけた。店の奥にある古いトースターからは、焦げ付きそうなほど香ばしいパンの匂いが漂っている。
佐藤は顔を上げず、本の頁をめくる手の動きだけを止めた。
「結構です、小川さん。集中が途切れる」
いつもの塩対応だ。葵は苦笑し、彼が読んでいる本のタイトルを盗み見る。『都市と不在』――。なんとも今の状況に皮肉めいたタイトルだった。
リセッタが入っているこのビル「オリエント・スクエア」は、築50年のレトロな複合商業ビルだ。この街で一番古いエスカレーターがあり、テナントは皆、時代の波に乗り切れなかった老舗か、葵のカフェのように、安価な家賃に惹かれて集まった小さな夢追い人ばかり。
そして、その「不在」が、もうすぐ現実のものとなる。
「小川さーん、ごめん、ちょっといい?」
慌てた声とともに、細身の女子がバックヤードから飛び出してきた。衣料品店「メルティ」でアルバイトをする高橋美咲だ。彼女の指先には、スマホから放たれたまぶしい光が集まっていた。
「ニュース見た? やっぱり正式に発表されたって」美咲は声を潜める。
葵は、今朝届いた市の「再開発計画最終合意」と書かれた封筒を思い出していた。内容は分かっていたはずなのに、身体の奥が冷たくなる。
「ええ、知ってる。あと半年で立ち退き、一年の猶予期間…」
「一年なんてあっという間だよ! 私、大学の資金貯めて早くこの街出たいのに、メルティ閉店したらどうしよう。新しいバイト、都会で探すの? それとも…」美咲は言葉を濁し、外の雨を見つめる。都会への憧れと、この街にいる病気の祖母への葛藤が、彼女の顔に影を落としていた。
その時、リセッタの重い木製の扉が、乱暴に開けられた。雨粒を払うこともなく入ってきたのは、スーツ姿の中年男性。市議会議員であり、再開発推進派の急先鋒、阿部俊介だった。




