第9話
翌朝。
ユーリアは、いつもより早く目を覚ました。
胸の奥に、引っかかるものがあったからだ。
昨夜見つけた、変質した保存液。
紅星花のための配合を見つける際、配合比率を変えたものをたくさん試作したもの。
捨てるに捨てられずそのまま瓶に入れて保管していたのだが。
変質が偶然だとは、どうしても思えなかった。
(……もう一度、ちゃんと確認しよう)
身支度を整え、まだ静かな朝、自室の作業スペースへ向かう。
朝の空気は澄んでいるのに、気分は落ち着かない。
◇ ◇ ◇
乾燥棚の前で足を止め、小瓶を一本、手に取った。
透明なガラス越しに見える液体は、一見すると問題ない。
けれど、指先に伝わる重さが、微妙に違う。
(……やっぱり少し軽い)
蓋を開け、慎重に匂いを確かめる。
鼻先をかすめたのは、昨日確認した時にはなかった、酸味だった。
次の瓶も、その次も同じ匂いがする。
三本目を確認したところで、はっきりと確信した。
(……採取された上、何か入れられてる)
このまま使えば、確実に失敗するだろう。
保存花の工程は繊細だ。
ほんの少しの配合ズレが、花弁の崩れにつながる。
(狙いは、私が“失敗する”こと、か)
ユーリアの信用を落とす。
あまりに分かりやすい手口だが、大切な花を預かるという性質上、有効な手口でもある。
胸の奥が、ひやりと冷えた。
◇ ◇ ◇
(・・・廃棄しよう)
もったいないという感情が、一瞬頭をよぎる。
だが、ユーリアは次々に瓶を捨てていった。
(信用を築くためには仕方ない)
次に、材料棚を確認する。
異界蜜樹の樹液。精製酒精。乾燥用の薬草。
量は、ほぼ変わっていない。
――ようにみえたが。
よく見れば、ほんのわずかに減っている。
(……手際がいいわね)
全部を壊さず、嫌がらせ程度に削る。
そして失敗すれば、「危険な技術だった」と。
(そう簡単に思い通りには、させない)
ユーリアは、静かに拳を握った。
◇ ◇ ◇
人の少ない回廊で、ユーリアはコーデリアを呼び止めた。
「コーデリア。少し、相談が」
声色で察したのだろう。
コーデリアの表情が、すっと引き締まる。
「……動きがあったのね」
「ええ」
ユーリアは、起きたことを簡潔に説明した。
変質した保存液に盗まれた材料。
話を聞き終えたコーデリアは、小さく息を吐く。
「偶然じゃないわね」
一瞬の沈黙。
「誰がやったか手がかりは?」
「なかった、と思う」
コーデリアは顎に指を当て、考え込む。
「でも、動きは見えるはずよ」
「どういうこと?」
「材料の納入先よ。私の花束を保存してくれた時に、材料の仕入れを依頼した業者がね、
今朝、急に“在庫切れ”になったって連絡してきたのよ」
胸の奥が、きゅっと締まった。
これは個人の嫌がらせじゃない。
明らかに、組織的だ。
◇ ◇ ◇
昼休み。
生徒会経由でコーデリアから連絡があった。
「ユーリア。アレクサンドラ様が、あなたに会いたいそうよ」
◇ ◇ ◇
学院の一室で、アレクサンドラはユーリアの話を黙って聞いていた。
口を挟まず、表情もほとんど変わらない。
すべてを聞き終えたあとで、静かに言った。
「失敗する前に捨てた。正しい対応です」
ユーリアは、少しだけ目を瞬かせる。
「……怒らないんですね」
「怒るのは感情の仕事よ」
アレクサンドラは、穏やかに微笑む。
「今、必要なのは対処ですもの」
「もちろんこれはただの自然現象ではありません。
あなたを囲えなかった相手が、次の展開を望んだのよ」
ユーリアは、ゆっくりと拳を握る。
「……どうすれば、いいでしょうか」
「二つ、提案します」
アレクサンドラは指を立てた。
「一つ。作業環境を変えなさい」
「変える……?」
「ええ、高いセキュリティをもつ場所へ移動させましょう」
アレクサンドラの2本の細い指がたつ。
「二つ目は――」
一瞬、間を置く。
「見せつけるのよ」
静かな声だった。
「奪われても、壊されても、それでも変わらず作れると」
言葉の重みが、胸に落ちる。
◇ ◇ ◇
夜。
ユーリアは自室にいた。
(妨害前提、ね)
これは試練だ。技術者として身を立てる上での。
そして、この試練を越えたとき。
彼女はもう、囲われる側ですらいられなくなるのかもしれない。
夜は静かに更けた。だが、その静けさが長く続かないことを、
ユーリアは本能的に理解していた。




