第二話 突然の裏切り
僕が何故、小説家を目指すことになったのか。それはどうしても書いておく必要があったからです。
誰しもが簡単にフランチャイズに参画できる入り口。しかし、そこに待ち受ける罠など知る由もない。
このエッセイは書籍化し、フランチャイズの恐ろしさを知ってもらうために書いたものです。何かあった時、そこに助けてくれるものは誰一人いない。それがフランチャイズの法の整備されていない闇の世界。
僕が加盟した塾のフランチャイズは、想像以上に順調な滑り出しを見せました。
それは自分でも驚くほどで、入塾希望の生徒や保護者が面談に列をなすほど。教室は受験生であふれかえり、もはや一教室ではとても収まりきらない状況になっていました。
フランチャイズ本部もご満悦で、頻繁に「教室見学」と称して足を運んでは、これから加盟を検討している人たちへの“成功事例”として、僕の教室を紹介していました。
そのたびに本部の担当者は、こう口にするのです。
「教室、増やしませんか?」
「あのエリア、別の加盟希望者がいますが、本当はあなたにやってほしい」
「あなたのような実直な人柄の方にお願いしたいんです。傲慢な人には任せたくないので」
ここまで言われて断る人間なんて、いるだろうか。
僕はすっかりその気になり、まだ初期投資すら回収していない状態にもかかわらず、次々に新しい教室を開校していきました。
国民金融公庫も、銀行も、僕の数字を見て「問題なし」と判断してくれました。
そもそもフランチャイズ経営というのは、金融機関にとっても失敗リスクが少なく、融資を受けやすい――。本部が言っていたとおり、資金調達に苦労することはほとんどなかったのです。
――これが、夢にまで見た「経営者」ってやつなのか。
こんなに簡単に、銀行ってお金を貸してくれるものなのか。
思い切って独立して、本当に良かった。
苦労してきて良かった。
人に頭を下げ続けてきて、本当に良かった。
そして、ここの塾は――本物だ。
この人たちを信じて、本当に正解だった。
僕は、加盟校の中でも群を抜いて成果を出し続けていきました。
怒鳴られれば落ち込むけれど、褒められれば意気に感じて燃える――僕は、そんな単純で、でも真っ直ぐなタイプです。
教室の拡大にともなって、社員や学生講師を合わせると、雇用する従業員は50名を超えることもありました。
それはもう、“会社経営”と呼んでも差し支えのない規模でした。
家族も、そんな僕の姿を見て喜んでくれました。
昔から僕を知る友人たちも、心から祝福してくれました。
「苦労した甲斐があったな」
そう言って、肩を叩いてくれる友人の言葉が、胸に沁みました。
もう、僕にはかつてのような悩みはありませんでした。
癒着も談合もない。誰かの顔色をうかがう必要もない。
ただまっすぐに、受験生を志望校へと導く。
勉強に苦しむ生徒のそばに立ち、寄り添い、背中を押す。
そのためなら、時間もお金も惜しまない。
信頼を、決して裏切らない。
僕は、ただ僕自身の“正しさ”に従って、行動を続けていました。
おかしな根回しも、談合も、癒着も——
あんなものに振り回されなくて済むようになった。
世の中は、そういうことを「情報」と呼んでいた。
でも、僕から言わせれば、それはただの不正でしかない。
なのに、誰もそれを気にしようとしない。
そんな社会から抜け出せたことが、僕には何よりも嬉しかった。
サラリーマン時代、上司によく言われた言葉がある。
「世の中を白か黒かで分けようとするな。
大事なのはその間の“グレー”だ。
皆その中で戦ってる。
綺麗ごとばかりじゃ契約は取れない。
もっと相手に入り込め。
懐に飛び込み、水面下でひっくり返して来い」
たしかに、それが“現実”なのかもしれない。
競合が多い世界では、誰かが汚れ役を引き受けなければ、仕事は回らない。
でも、僕にはそれができなかった。
もしかしたら、それはスポーツに打ち込んでいたからかもしれない。
スポーツにはルールがある。勝ち負けは明確で、誤魔化しが効かない。
不正も忖度もない。あるのは、実力と時の運だけ。
ルールの中で、正々堂々と戦う。
それが僕にとって、当たり前だった。
けれど現実は、そんな綺麗ごとで通用する世界ばかりじゃない。
それは、僕だって身をもって知っている。
特に、裏側を担う部署にはルールなんて存在しないに等しかった。
法律ギリギリのグレーゾーンどころか、完全に“アウト”な橋を渡ることもあった。
それでも——
「契約を取れれば、それが正義だ」と言われた。
僕は、そんな考えがどうしても嫌で、サラリーマンを辞めた。
もし僕に、それができたなら——
あの人たちのように、部長にも専務にもなれたかもしれない。
けれど、僕にはどうしても出来なかった。
出来レースに参加することも、それを仕組むことも。
だって、それを知らないのは、契約者だけなんだ。
それは、契約者を裏切る行為に他ならない。
ある日、僕はこの思いを、信頼している友人に打ち明けた。
すると彼は、静かに、でもどこか痛みを滲ませながらこう言った。
「お前は力があるから、そんなことが言えるんだよ。
でもな、世の中には、力のない奴だって山ほどいる。
そんな奴らが、どうやって強い奴と戦う?
ルールを無視してでも、水面下の騙し合いに身を置くしかないんだよ。
自信のない人間の方が多いし、劣等感を抱えてる人間の方がずっと多い。
“これはできない”“それはルール違反”なんて、正義を振りかざせるお前が羨ましいよ。
恋愛も、仕事も、同じ。
元々備わってる人間には、この泥水をすすってでも生きる理由なんて、きっと分からない。
……でも別に、分からなくていいさ。
お前は、そんなことしなくても、生きていけるんだから」
僕は、その言葉に強く胸を打たれた。
彼は、トップセールスマンだ。
一方の僕は、いつも予算ギリギリ、吹けば飛ぶような数字をかき集めているだけのサラリーマンだった。
何が違うのか——ずっと考えていた。
彼は、きっと数え切れないほどの“危ない橋”を渡ってきた。
でも、それを語ることはなかった。
武勇伝を聞かせてほしいと思ったこともある。だが、彼はいつも黙っていた。
今なら分かる。
彼の“成約”は、武勇伝なんかじゃない。
契約者が気づかぬうちに、じわじわと包囲網を敷く。
競合の悪評を流し込み、逃げ場を奪う。
そして、ある日突然、契約へと追い込む。
そこまでは、一切の気配を見せず、静かに、目立たず、影のように存在を消す。
契約者が“選んだ”と思ったその瞬間、もう、逃げ場はどこにもなかった。
これが、彼の“勝ち方”だった。
そこまでは、全く悟られないように息をひそめ、存在を隠し、オーラを消し去る。
目立たないように振舞う。
契約者は網逃れられない。
これが突然の契約を勝ち取る方法と言える。
そして、その考えは、契約の時だけではない。
解約のときも、何の前触れもなく、突如として訪れた。
……いや、もうおわかりだろう。
解約もまた、時間をかけ、水面下で緻密に罠が仕掛けられていたのだ。
気配を消し、周到な準備をし、知らぬ間に包囲網は完成していた。
知らなかったのは——僕だけだ。
「突然の裏切り」なんてものは、存在しない。
裏切られたと感じるのは、いつだって“裏切られた者”だけだ。
本部は、僕を表向きには称賛していた。
だがその裏で、僕の教室すべてを無償で手に入れることを、冷酷に、計画していたのだ。
その罠は、僕が違約金を請求される——およそ1年前から、静かに動き出していた。
僕は、理由なき契約違反として、違約金1億円を請求されることになる。
何の話し合いもなく、唐突に届いた内容証明。
そこには、ただ「違約金一億円」とだけ記されていた。
きっと誰しもが、こう問うだろう。
——何が違反だったのか?
それは、数ある受講コースの中の、たった1つのコース料金だった。
その1つだけが、突如として「2倍以上」に改定されていた。
あとのコースは、すべて1.1倍の上昇。
ただその1つだけ、僕の教室が受験生に推奨していたそのコースだけが、2倍以上。
それを知った時、僕は何かの間違いかと思った。
どう考えても、狙い撃ちとしか思えない。
僕は、その不自然な値上げに納得できず、監査が入る直前の2ヶ月間だけ、価格改定に応じなかった。
そして——違反が成立した。
「突然の裏切り」なんてものは、幻想だ。
それは、裏切られた者だけが感じる“突然”でしかない。
違反を掴んだ本部は、すぐさま監査を開始した。
現れたのは、顔も名前も知らない本部の新人。
彼は淡々と書類をめくり、淡々と記録をとった。
その視線に、僕への敬意は一切なかった。
——すべては、最初から決まっていた。