理争戦想
緑あふれ、ピクニックをするのに丁度いい平原が、今は赤く染まっていた。
数多の犠牲の上に、その場には、理想を追いかけんとする情熱を宿した少年と、現実に屈し理想を捨てた老兵の二人が立っていた。
「いい加減諦めろ。この世界は変わらない、いや変われない。どれだけ大層な理想をお前が掲げようが、世界はそれを否定してくる。お前から何かを奪う形でだ。」
少年を前に、淡々と話すのは、かつて国を救った英雄アリル。その強靭な肉体には、確かな歴戦の痕跡と、それを経て辿り着いたアリルなりのこの世に対する答えを感じさせる哀愁があった。彼と対峙し、膝をつきながらも、彼をにらみ続ける少年ムドリは息を切らしながら、アリルに想いを吐露した。
「やっぱり俺には理解できない!...俺は貴方に憧れて剣士になった。貴方の掲げる理想に夢を見て...それを叶えようとした。...なのに、どうして諦めてしまったんですか!俺は今でも叶うって信じてます!...誰も無意味な血を流さなくて済む世界は作れるって。」
ムドリは信じていたのだ。自身の原点となった人物が掲げた理想を、たとえ掲げた本人がそれを諦めていたとしても。震える膝を押さえつけ何とか立ち上がると、今一度剣を向けた。地面を蹴り上げたその刹那、切っ先はアリルの胴体に届く位置まで来ていた。しかし、数多の戦地を駆け抜けたアリルが、その一撃に対応できないわけがない。自身の背丈と同じくらいの両手剣を軽々振るい、受け止めるどころか、ムドリを吹き飛ばした。
地面に叩きつけられたムドリは、すぐさま姿勢を戻し、再度、懐に潜り込もうと地を蹴り上げた。単純な作戦であることくらいムドリが一番理解している。しかし、体格、力量、経験の全てにおいてアリルに劣っている以上、唯一優っていると言える俊敏力で勝負するしかないのだ。何とか懐に潜り込んで、決定打とある一撃を叩き込む。これしかないのだ。突っ込むタイミング、速度、剣の振り方、あらゆる点を変えながら何度も何度も試したが、悉くアリルには無意味であった。
それでも、ムドリは剣を振り続けた。正義の味方のように世界を守りたいという理由ではない。
むしろ、ムドリ自身からしても今の世界がどうなろうが知ったことではない。ただ、ずっと一人で戦い続けたアリルをこれ以上一人にしたくない、それだけだった。今のアリルを生み出したのは、紛れもなくこの世界である。昔の理想をひたすら追いかけ続けていたアリルから全てを奪い否定した。ムドリも嫌というほど経験してきたことだ。理想を語れば、どうせ無理だと決めつけられ、理想を叶えようと努力すれば妨害される。それも、理想を掲げる者が少数派であるという一点だけ行われ、本人の人柄や想いなんて気にも留めない。
しかし、それが、ムドリが理想を捨てる理由になりえなかった。
確かに、歩んでいる道は、険しく辛いかもしれない。それでも、理想を叶えた先に、今よりちょっとだけマシな世界があるはずだと信じていた。
「昔の貴方に戻ってくださいと言いません。ですが、貴方が信じた、貴方自身の理想を思い出してください!」
その言葉を聞いたアリルは、今までの火の粉を払うような動きから一変し、明らかに怒りを露わにした表情で、大剣の柄を、ムドリの腹部にぶつけた。またもや地面に蹲ってしまったムドリに対して、荒々しい口調で語り始めた。
「調子に乗るなクソガキ!テメエに言われなくても、俺は自分の理想を忘れたことなんて一秒だってねえ!でも、追いかけ続ける限り、俺は何かを失い続けなきゃならねえ!そんなん、耐えられねえんだよ...」
怒りを露わにした表情は、いつの間にか涙を浮かべ、誰かに詫びるような後悔の念を感じさせるようになっていた。
「昔、廃墟に捨てられてたガキ拾ってな。超綺麗な緑色の眼してたから、グラスって名付けたんだ。初めの方こそ、飯は食べてくれねえし、常に怯えてるしで、どうしようもなかったんだけどな。根気強く接してたら、ある日俺の名前を呼んでくれたんだ。アリルさんって。それがなんか異様に嬉しくてよ、何回も呼ばせてたんだ。そっから、一緒に飯食べたり、寝たり、風呂入ったりして、親子っぽいことしてたんだ。今思えば、この時だったかもな。理想を掲げるようになったの。グラスみたいなガキどもに、今の世界を託しちゃいけねえって。」
語るうちにアリルの声は震え始め、言葉に詰まるようになっていた。
「でも、そんな幸せの時間は一瞬で消えちまった。...グラスが...殺されたんだ。...俺が戦争中に殺した奴の...家族にな。...そんとき、思い知ったんだよ。俺が掲げた理想は、綺麗事にすぎない、これが叶うほど世の中うまくできちゃいねえって。」
ムドリは言葉が出てこなかった。アリルにかけるべき言葉がではない。自分が掲げた理想が、ただの綺麗事ではないと、確信を持てなかったのだ。誰も無意味な血を流さなくて済む世界。そんなものは存在しないのではないか、自分が追いかけているものは、ただの幻想に過ぎないのではないか。そんな思考が、一時的にムドリの脳内を埋め尽くした。
「確かに......理想はただの綺麗事かもしれない。...それでも、今の世界に妥協して...生きたくない!」
ムドリは、今一度思い出した。自分の原点である、あの日を。アリルが理想を掲げた姿をこの眼で見た日を。今にも崩れそうな体を何とか奮い立たせ、再びアリルに剣を向けた。このときアリルは驚愕した。ムドリの闘志を宿した眼に、かつての自分が重なったからだ。何度、負けようとも理想のために命を懸けていた自分に。
アリルは、迷っていたのだ。自分がこの世界を諦めたら、これから先も、自分のように世界に奪われる者が増えてしまうのではと。綺麗事を吐くことしか出来ない自分が、あの頃のように理想を追いかけていいのだろうかと。
「その眼、懐かしいな......」
アリルは大剣を投げ捨て、ムドリに向かって歩き始めた。
そして、その手でムドリの持つ剣の刀身を持ち上げると、おもむろに自身の心臓に突き刺した。
あまりの出来事にムドリは、困惑することしか出来ず、言葉にもならないような声を出し続けた。
自ら、心臓を貫いたのは、気が狂ったわけでも、自殺を志願していたからでもない。
この若者に、自分の理想を託してみたい。そう思ったにすぎなかった。明るい未来を創るのは若者たちだ。その未来に自分のような老兵がいると、理想から遠ざかってしまうような気がしたのだ。
そんなことを考えていると、涙で顔がぐちゃぐちゃになったムドリが駆け寄ってきた。最後に、自分を憧れだと言ってくれた若者に送る言葉を考えていた。しかし、朦朧とする意識の中でいい言葉を思いつくわけもなく、満面の笑みで、出てきたのは......
「ありがとうな」
***
数日経ったある日、ムドリは、あの平原に足を運んだ。
しばらく立ち尽くしたのち、文字が掘られた大きな石に対し、一礼をしてその場を後にした。
また、その背中には、自身の背丈より長い大剣が携えられていた。