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SF短編小説

ゾンビライク・パンデミック

作者: 白古賀

ゾンビライク・パンデミック

 ――目が覚めたら街中にゾンビが蔓延していた。

 

「……これは、まいったな」

 寝ぼけた頭でコーヒーを飲みながら何気なくつけたニュースを見て、酉島啓(とりしまけい)は呟いた。まるで最近流行っている三流の漫画のような展開だが、どうも事実らしい。

 ニュースによると、ゾンビ化のパンデミックが起きているのは日本全国……というわけではなく、関東の一部地域――街一つ分といったところか。そしてその地域の中に、自分の居場所はしっかりと入っている。

「さて、困ったな……」

 幸か不幸か、この日、啓は自宅ではなく勤務先の大学で寝泊まりしていた。金曜の夜まで泊まり込みで研究し、そのまま寝て朝起きて、休日もそのまま研究を続けようと思っていた矢先のことだ。

 休日の大学ゆえ、人は少ない。が、誰も居ないわけではないし、外側からも出入りできるようになっている。それらが全てゾンビになっていたとしたら……

「まずは状況確認と安全確保か」

 方針を決めると、啓は立ち上がった。


 * * *


 まず啓が行ったのは、大学の敷地から出入りできる門を全て施錠することだった。外からゾンビが入るのを防ぐためである。幸い、なぜか敷地の近くにはゾンビらしき人影はほとんど居なかったため、容易に門を施錠することができた。一方で門に居たはずの警備員は姿が見えなかった。

 全ての門の施錠を終えた啓は、敷地内を歩き回りながら状況を確認する。するとポツリポツリと歩いている人影があったが、やはり様子がおかしい。おそらく「ゾンビ」になっているようだ。

 「ゾンビ」の特徴、その一つは非常にゆっくりと、かつフラフラと歩いていることだ。そしてもう一つは、なぜか腕を前に突き出していること。手首から先がだらりと垂れ下がっているのがさらに不気味だが、イメージ通りの「ゾンビ」ともいえる。どうしてこのような挙動になるのか……と啓は考えかけたが、さすがにこの状況で思考に没頭するのは危ないと思い、すぐに意識を戻した。

 幸いにも「ゾンビ」はかなり近くにまで接近しないとこちらの存在に気づかないようだった。遠巻きに見ているぶんには、対して脅威にならない。それはかなりの僥倖だった。

 少しの間ゾンビの観察を終えた啓は、ひとまず自室に帰る。その途中、ふと横を見ると、研究棟の側をうろうろと歩いている、少女のゾンビを見つけた。

(あの子、かわいいな……)

 気付けば啓はそんな風に思っていたが、すぐに頭を振り正気に戻る。

(いかんいかん、相手はゾンビだ。余計なことを考えてる場合じゃない……)

 未練を断ち切るように自身の研究室に戻る啓。用心深く扉を施錠してから、彼は自室の椅子にどっかりと座り込んだ。

「さて、これからどうするか……」

 口に出した言葉とは裏腹に、脳裏に浮かぶのは先ほどの少女の姿。

(あの子はゾンビなんだよな……そう、ゾンビだからこそ……)

 彼の悪い部分が出ていた。実は、彼には特殊な性癖があった。それは腐敗した肉体の女性に欲情するというものだ。ある意味で死体愛好家(ネクロフィリア)に近いものかもしれない。もちろん、この性癖は世間から白目視されることは分かっていたから誰にも言っていなかったし、実際に自分の欲望を実現できるとも思っていなかった。ところが、どんな偶然か欲望を満たすチャンスが降って湧いたのである。

(どっちみちゾンビだしな……)

 生きた人間なら強制性交など許されるはずもないが、相手はゾンビである。そして放置しても結局駆除対象となってしまう。であるならば、今なら誰にもばれないうちに自分の欲望を満たすこともできるのではないか……?

「いや待て待て待て……」

 と、ここで彼は冷静になった。

 欲望に流されて妄想を広げたはいいが、いざ実行に移すとなると、倫理的な部分を抜きにしてもあまりにも高いリスクがあった。そう、感染である。

(ニュースではゾンビに噛まれたらゾンビになるとか、接触感染の恐れがあるとか言っていたな。実際そのくらいじゃないと、いきなりこんな全員ゾンビになるなんてことにはならないはずだ。だとすれば……)

 性行為など一発でアウトだ。

(……いや、本当にそうか?)

 要するに、ゾンビの接触しなければ良いのである。そして、確実に接触を避ける手段を、彼は思いついた。彼は自室を出ると研究等の一角にある倉庫から防護服を取り出す。それを着用して自室に戻ると、部屋の隅に立てかけてあった姿見を覗き込んだ。

「くくく……我ながら完全な不審者だ……! 俺の方がゾンビよりも恐ろしいかもな……!」

 それから彼は幾つかの準備を行い、意気揚々と自室を後にした。


 * * *


 防護服を着て敷地内に繰り出した啓は、しばらく探して先ほどの少女を見つけると、こっそり後ろから忍び寄る。そして、素早く腕を掴むと両腕を予め用意した針金で拘束する。

 それから一旦距離を取り様子を見るが、抵抗する様子は弱弱しい。状況もよくわかっていないようだ。これはいける、と踏んだ彼はそのまま少女の身体を後ろから羽交い絞めにして自室の方まで引きずっていく。

 少女は身を捩り抵抗したが、その力は思ったほど強くなく、時間をかければ思い通りの方向に引きずっていくことができた。

(ゾンビといっても一体だけならそんなに脅威じゃないな……。ゾンビの力は元の肉体のまま……いやもっと弱いか? 動きも反応も鈍い。二次感染さえ防げば意外となんとかなるのでは?)

 そんなことを考えながら、少女を自室まで移動させ、用意したベッドに横たえると改めてベッドに四肢を拘束する。

「これで良し……と」

 改めて自分がしていることの絵面を見てみれば、相当とんでもないことになっている。ベッドにゾンビとはいえ少女を拘束する全身防護服の男……異様な光景だ。

 これが映画なら自分がラスボスか、あるいは中盤に死ぬ噛ませ犬だろうか。

「くくく……さあお楽しみの時間だ」

 彼は呟くと、自身の持ち物からコンドームを取り出した。ゾンビと直接接触すれば感染する恐れがある。なら、()()接触しなければいいだけなのだ。

「そういえば昔付き合っていた彼女が言っていたな。0.02mmの壁がどうのこうの、とか……」

 やや精神的に難のあった彼女のことを思い出す。結局彼女とは半年経たずに別れてしまった。依存気質の強い彼女と自由人の彼とでは、性格が致命的に合わなかったのである。

 パッケージから中身を取り出し、使用可能な状態であることを確認する。こともあろうか、彼はこの薄いゴムを頼りに、本番まで致そうと企んでいるのだ。

「今の俺にとっては、この0.02mmの壁が命綱ってわけだ。なんてクレイジーなギャンブルだ……! クックック……! クックックックック……!」

 自分がしていることの危険性を改めて確認し、そのことに興奮して笑う。

 彼はひとしきり笑ったあと、ふと静かになってベッドに拘束したままのゾンビの少女を見た。

「しかし焦ることはない。千載一遇のチャンスなんだ。まずはゆっくりと前戯からだな……」

 彼はベッドにゆっくりと近づき、拘束した少女に覆いかぶさるようにまたがると、ゆっくりと少女を観察した。

「表面の皮膚が少し壊死しているようだが、血液はしっかりと巡っているじゃないか……。呼吸もちゃんとあるし、筋肉もそれほど変な硬直はしていない。素晴らしいな……」

 彼は少女の首筋に手を当てた。

「ふむ、柔らかい……そして脈拍は正常……70~80程度か……。いや、異常かな? さすがに普通の人間ならこの状況、脈拍は100を超えて然るべきだろうしな……!」

 彼の手は、今度は少女の顔に移動する。乱れた前髪を、額からそっとのける。

「いや……綺麗な顔立ちだ。この表情……表情が抜け落ちたままのこの状態が、一番良い……」

 彼は少女の顔をしばらく眺め、

「さあいよいよお楽しみだ。まずは上からゆっくりと……」

 服を脱がしていこう。そう思ったが、ふと違和感を覚えた。

(……なんだ? 俺は今、何にひっかかった?)

 違和感の正体を探ろうと、記憶を辿る。

(彼女の顔を見ていた時だ。……顔?)

 彼は改めて少女の顔を見る。整った顔立ちは、無表情のまま、焦点の定まらないうつろな目でこちらを――いや。

 その目――彼女の目が、動いていた。

 最初それは不規則で意味のない動きだと思っていた。ゾンビ化した際の副作用で、何かランダムな筋肉の収縮が引き起こす動きだと思っていた。

 しかし――よく見ると、それは規則的だった。

(――ちょっと待て)

 彼の意識に、何か既視感のようなものが走った。

「……どこかで見たことがある。この挙動……」

 眼球は左右に動いていた。左右に、規則的に。この動きは、

 

「――筋萎縮性側索硬化症(ALS)だ」

 

 彼はこの大学で研究者として働くようになる前、製薬会社の研究者として筋萎縮性側索硬化症(ALS)の治療に関わったことがあった。

 筋萎縮性側索硬化症(ALS)とは手足、のど、舌の筋肉や呼吸に必要な筋肉がだんだんやせて力がなくなっていく病気だ。しかし、この病気で異常が生じているのは筋肉そのものではなく、筋肉を動かす神経――すなわち運動ニューロン――の方に問題が生じているのだ。その結果全身の筋肉が動かなくなり、筋肉自体も痩せ衰えていく。

 だがこのALSという病気、比較的最後まで動く筋肉がある。その一つが眼球運動に必要な筋肉だ。そこで、この性質を利用して全身が動かなくなったALSの患者の眼球運動を専用のデバイスで読み取って意思疎通を行う、そういう方法があるのだ。

 啓は昔の職場で、このALSの患者が眼球運動で実際に意思疎通を行っているのを見たことがあった。

 今、目の前にいるゾンビの――いや、ゾンビに見える少女が()()と同じことをしようとしているのなら――

 (だとしたら……これはメッセージなのか?)

 改めて眼球の動きを注意深く観察する。ぎこちなく揺すられる体とは全く別に、眼球はあくまで規則的に、主に左右に動かされている。左、右、左、右、左、右、左――右、左――右、左――右、左、右、左……

(――モールスか!?)

 わかってみると、規則性は単純だった。左をオン、右をオフと仮定すると、目の動きが示す信号は、・・・―― ―― ――・・・……SOSだ。

(助けてくれ、ということか……それを俺は……)

 一気に頭が冷えた。数分前まで意識を支配していた欲望が吹き飛び、代わりに理性と人間としての良識が戻ってくる。

 ゾンビだと思っていた目の前の少女は、紛れもなく人間だ。見た目がゾンビで、身体の自由が全く効かなくなっていたとしても、人間としての理性を残しているのだ――

「無理やり拘束して悪かった……SOSだな? 俺の声は聞こえるか?」

 啓は試しに話しかけてみるが、少女の様子――その眼球の動きに変化はない。

(もしかして、声は聞こえていない……?)

 声を大きくして話しかけてみたが、結果は同じ。

「なら……」

 啓は一旦少女から離れ、机に放置していた小さなホワイトボードに文字を書き込むと、それを少女に向けて掲げて見せた。

 ――この文字が読めますか? 読めたら、眼球の動きを止めてください。

 すると、少女の目の動きがピタリと止まった。

「よし、やっぱり目は見えるんだな」

 これで意思疎通が可能なことは確認できた。

 ――あなたは人間としての意識を残しているが、全身を自分の意思で動かせない。正しいですか?

 ――正しければ、目を左に2回、間違っていれば1回、動かしてください

 すると、少女の目が左に二回、動く。

(やっぱりそうだ……彼女には正常な意識がある。少なくともこうして意思疎通ができる程度には)

「だったら、ここで状況把握させてもらうぞ」

 それから啓は、ホワイトボードを使ってさらに質問を繰り返した。


 * * *


「なるほどな……だいたいわかってきた」

 啓はあらかたの質問を終えると、少女をそのままにして自室の椅子に深く腰をかけ、背中を預けて息を吐いた。さすがに眼球の動きを観察しながらホワイトボードで長時間意思疎通を行うのは、疲労の溜まる行為だった。

 既に防護服も脱いでいる。接触していなければおそらく感染の心配はないと踏んだからだ。

「現状で分かったことは……」

 啓は頭の整理をしながら、スマートフォンのメモ帳に質問で分かった情報をメモしていく。

 現状で分かったことを纏めるとこうだ。

 ・事前の予想通り、彼女の意識はあるが、肉体の制御は一切できない。

 ・肉体の感覚もほとんど消失している。五感のうち視覚のみが残っており、後の感覚も一切喪失している。音も聞こえないし匂いもわからない。

 ・記憶障害などはなく意識は明瞭、それゆえに視覚しかなく身体の動きが乗っ取られている状態はひどく苦痛

 ・ゾンビ化直前の最後の記憶は昨日の夜。ゾンビ化直後の最初の記憶は今朝。両方とも自宅の自室

 ・ゾンビ化前に心当たりのある異常はなかった。

 ・ゾンビ化後、彷徨い歩いてここまで来た

 ・ゾンビ化後、家族の行方は不明。家には居なかった

「まあこんなところか……。本当はもっと色々確認したいが、意思疎通に時間がかかるからな……」

 この情報によると、やはり今朝にはゾンビ化していたようだ。となると、ゾンビ化が起こったのは夜中か、それとも早朝か……。

 どちらにせよ、とんでもないことだ。もしゾンビに見える全員が彼女のように意識を残していたとするならば……。

(いや、まだ決めつけるのは早計だ。彼女だけが特殊な可能性もある)

 啓は思い直し、

「確認してみるか……まだ他にもサンプルは居る」

 彼は防護服を着直し、針金とホワイトボードを持つと、ホワイトボードで少女に「一旦外に出る、しばらくしたら戻る」と伝え、自室を飛び出した。


 * * *


 やることは最初に少女を捕まえた時と同じだった。背後から忍び寄り、腕を縛り拘束する。それから手近な場所に縛りつけ、ホワイトボードに質問を書いて眼球での意思疎通を試みた。最初の少女ほど円滑にはできなかったが、根気強く意思疎通を試み、無理なら別の「ゾンビ」を試した。

 それらを繰り返した結果、やはりどの「ゾンビ」にも意思疎通が可能な理性がありそうだということ、やはり五感は視覚だけしか残っていなくて身体の制御は眼球以外完全に失われていることが分かった。

 しかし、意思疎通に苦労することも多く、人間としての意識が残っていてもその精神状態は正常とは言い難いかもしれないようだった。だが置かれた状況を考えて見ればそれも当たり前で、表に出すことはできないが発狂するほどの恐怖や混乱を感じているのが普通かもしれない。そう考えると、自分が襲われる直前まで根気強く眼球でモールスを送り続けたあの少女の精神力が異常なのかもしれない、と啓は思った。

「さて……」

 再び自室に戻った啓は、椅子に座り込み改めて考えを整理する。

 テレビやラジオの報道では一部地域で街ごとゾンビが蔓延するパンデミックになった。しかし、その「ゾンビ」の実態は、何かの要因で身体の制御を乗っ取られた「人間」で、その意識は残っているようだった。ここから少なくとも脳は損傷されていない――されていたとしても意思疎通の機能を失わない程度に軽微である、と言える。

 では、肉体の制御が奪われた要因とは何なのか? そしてなぜ街の住民が一夜にして一斉にこのような状態になってしまったのか?

「とにかくこの『肉体のゾンビ化』のメカニズムを知らなければ……」

 それがわかれば自己防衛もできるはずである。なんだかんだで今の自分だけがゾンビになっていない状況に不安があった。とにかく現状を正確に把握すること、それが一番重要だ。

(意識と肉体が切り離されている……なら中枢神経系に異常があるのか?)

 フィクションのイメージではゾンビというのはウイルスや細菌によって発生するものだと相場が決まっている。だが、現状から中枢神経系に異常があると仮定するなら、果たしてウイルスや細菌でそんな状況になるのか。空気感染はなさそうたというのも気になるところだ。

「解剖……すればわかるか?」

 啓はベッドに拘束したままの少女をチラッと見る。だが、彼女は論外だ。一番意思疎通ができる検体(サンプル)を手放すわけにはいかない。敷地内にいる他のゾンビも……中の意識が「生きている」のなら、解剖してしまうことには抵抗を感じる。自分以外にはわからなくとも、それは殺人と変わらない。

 であれば、

「ゾンビの死体があればな……」

 そう呟いたが、そうそう都合よく死体が手に入るとも思えない。それにもちろん、解剖して何かわかる保証もないのだが……

(とはいえ他にできることもないしな……)

 この状況で安易に敷地外に出ていくことは危険だった。助けを呼ぼうにも、携帯電話も電波が不通。おそらく電波塔が機能を喪失しているのだろう。とにかく安全を確保しながら座して待つしかないが、ただ待っているのも性に合わなかった。

 とにかく少しでも情報を集めたい、そう思うのは啓の性格ゆえのこととも言える。

「少し頭を冷やすかな……」

 啓は一旦自室を出て研究棟の屋上に向かった。

 吹きさらしの屋上からは晴れた青空が見え、日差しが少し眩しい。こんなに良い天気なのに、街中はゾンビ――に見える人間まみれだ。

 啓は屋上の端に行き、ポケットからタバコを一本取り出すとそれをゆっくりと吸った。

 ニコチンが頭に回り、ぐるぐると高速で巡っていた様々な思考が、少し落ち着きを取り戻す。友人や同僚から「どんな状況でも滅多に動じないサイコパス」と言われていた啓だが、さすがにあまりに非日常的な状況で、知らずのうちに焦りがあったのかもしれない。

「うん、こういう時こと落ち着くことは大事だな。せっかく天気も良いわけだし」

 セロトニンが分泌されそうな日差しを浴びながらゆっくりとタバコを吸い、ぼんやりと周りを見ていた啓だったが、ふと大学の敷地外の道路に倒れている人影を見つけた。

(――これはチャンスかもしれない)

 その瞬間、啓の脳裏に閃くものがあった。

 もし、その人間が生きているなら、情報収集のチャンス。そして、死んだ「ゾンビ」なら――

「……行ってみるか」

 啓はタバコの火を消すと、素早く踵を返して屋上を後にした。


 * * *


 結果として、彼が見つけた人影は「死んだゾンビ」だった。いや、正確には普通に人間の死体だったのだが、おそらくはゾンビになってから死んだであろうと推定され流ものだった。

 その死体は腹部に大きな外傷があり、おびただしい出血の跡があった。また近くには血の付いた鉈が落ちており、おそらくはこの鉈で切り付けられたのだろうと思われた。正常な人間がゾンビに襲われることから身を守る為に切りつけたのかもしれない。

 幸運だったのは、その死体が門の近くにあったことだった。付近にゾンビが居ないタイミングを狙って啓は門からゾンビを敷地内に運び込み、そのまま近くの医療棟まで引きずっていった。

「さて……解剖は専門ではないんだが……外科医の真似事でもしてみるか」

 啓は死体を医療棟の手術室に運び込むと、手術衣を着込み、手近な手術道具の準備をする。彼は医学部出身で医師免許は持っているが、医者ではない。そのため、大学の研修以外でメスを握った経験はなく、準備は見よう見まねで適当だ。本職が見れば死ぬほどどやされそうなやり方かもしれないが、今回は手術ではなく解剖だから、とにかくそれらしいことができればいい。

「さて、何かわかると良いが……」

 見たところ、死体はまだ死んでからさほど時間は経っておらず「新鮮」だ。何か手掛かりが掴めるかもしれない。

 啓は死体をうつ伏せでベッドの寝かせ、メスを握ると首の後ろからゆっくりと縦に切開していった。

(俺の推測が正しければ、この「ゾンビ化」の手がかりは中枢神経系にあるはずだ。脳か脊髄に痕跡があれば良いが……)

 脳を調べる方法はわからないので、ひとまず首から切開することにしたのだ。

 メスに切られ、脊椎があらわになる。とはいえこれもダメ元の行為で、そう簡単に手がかりが得られるとも思っていなかった。だが……

「は?! おいおい……おいおいおいマジかよ……」

 そこで彼が見たものは。

 ――脊椎にびっしりと絡みつく、白い紐のような物体だった。

 それはまるで、木に絡みつく蔦のようだ。

 紐状のそれは、少なくとも開いた部分では上から下まで続いている。物体はどこか有機質で、よくみると僅かに動いていた。

(もしかして寄生虫……!? どこまであるんだ!?)

 啓は脊椎に沿ってまっすぐ下に切開を続ける。尻の部分まで到達すると、今度は上側に、脳に向けてさらに切る。

 その結果分かったことは――

(寄生虫だ……これは。脊髄と同じ長さの寄生虫で、人間の脊髄にびっしりと絡みついて、骨の内部……おそらくは脊髄にまで食い込んでいる)

 上の方……脳の頭蓋骨のある部分は切開できていないが、おそらくそこにまで寄生虫は伸びている。つまり、啓の想像通りこの寄生虫は中枢神経に食い込んでおり、その制御を乗っ取っているのだ。

(ということは、肉体の制御はこの寄生虫が乗っ取っているのか……おそらくは視覚以外の五感も……)

(逆に人間の理性と眼球の制御が寄生虫の影響を逃れているなら……そこだけが寄生虫の制御外で独立して動いている?)

 そこで、啓は敷地内で目にしたゾンビの動きを思い出した。

 少し猫背でバランスが悪くふらふらと歩くゾンビたち。彼ら(彼女ら)は腕をだらりと前に伸ばしていたが、もしかするとあの姿勢は……

「そうか、寄生虫に視覚が無いからか!」

 啓は叫んだ。

(あの腕は視覚を使えない寄生虫が周囲の状況を把握するためのものなんだな。脳と眼球だけは制御外なのか)

 これで「ゾンビ化」の正体は分かった。だが、その正体がわかると余計に不可解なのが、感染原因だ。

 こんな大きな寄生虫が、一体どこから入ってきたのか。しかも街全体の人間が一斉にゾンビ化したということは、一斉にそれだけの数の人間に寄生虫が入ったということで……

(そんなことあり得るのか……?)

 どうも荒唐無稽な話に思える。もしかして別の要因があるのではないか……

 考えてもわからなかったため、啓は検証用に解剖した死体と寄生虫の写真を何枚か撮ると、死体を放置して一旦着替え、自室に戻った。

 

 * * *


 再び自室に戻った啓は、改めて情報収集のためにテレビをつける。

(しかし……そもそも接触感染なんて本当か? 寄生虫だぞ? テレビで言っていたことも本当かどうか怪しいな……)

 そんなことを考えながらテレビを見ていると、

 

『――本日正午、池野官房長官は感染地域に対して3日後、大規模掃討作戦を開始すると発表しました』


(……は?)

『なお、感染地域にて現時点で生存者は確認されていません。掃討作戦はさらなる感染防止のための自衛隊による市外地域の浄化作戦が予定されていますが、同時に生存者が居た場合の救出も行うとしています。池野官房長官によりますと――』

(生存者は居ない? 浄化作戦?)

 啓は混乱し、テレビ画面に向き直る。

 ニュースによると、ゾンビが蔓延した街は既に封鎖され、中の住人は全てゾンビになっており、現時点で生き残りは確認できないとのことだった。そして今後も周辺地域への感染を防止するために封鎖を続行し、三日後に自衛隊によるゾンビの「浄化作戦」を実行するという。

 浄化作戦というのは、もちろんゾンビの掃討――つまり殺害だ。

 だが、啓はそのゾンビ――に見える人間が、少なくとも中の意識は「生きている」と知ってしまった。

(おいおい、だとすると掃討作戦というのな、生きている人間を大量に殺すってことじゃ……)

(何とかしてここから脱出して、解剖の結果を政府に伝えるか? するとどうなる? 寄生虫に侵された大量の住民を……どう収集をつける? 寄生虫の生態を解明して一人一人手術し、寄生虫を取り出すのか? 住人全員分を?)

 それは、とても非現実的で荒唐無稽に思えた。

 仮に寄生虫を引き剥がす有効な術式が確立されたとして、実際にそれができるのか? あんな大量の住民全員に対して? 中枢神経にびっしりと絡みついたあの大きな寄生虫を?

(無理だ。どう考えても医療リソースが足りない)

 啓は高速で思考を巡らせる。

(だとしたら、政府の現実的な対応は――真実を隠蔽すること)

(いや、そもそも最初から政府が嘘をついている可能性は? 政府とメディアの発表そのものが嘘である可能性は?)

 少なくとも「ゾンビ」の中の人間は生きていたし、「感染」などと言われていたがその正体は寄生虫だった。噛まれたら感染するとか接触感染するとかも嘘くさい。

 (だが、俺にはどうすることもできない。この浄化作戦の実態が政府の大量虐殺だったとしても――おそらくは、止められない)

(俺は……どうする?)

 そこで、ふと啓はベッドに拘束したままの少女を見た。

「お前は……運が良いかもしれないな」

 啓は呟いた。

「俺は、お前を連れていくよ。生きたサンプルとしてな」

 彼はいくつかの準備をすると、ホワイトボードに今後の計画を書いて少女に見せる。少女の眼球から返答を確認すると、少女をベッドから拘束を解き、弱々しく暴れる身体を後ろから押さえつけた。

「さぁ……良い子にしてろよ。ちょっと二人でドライブしよう」

 そうして二人は、部屋を後にして歩き出した。

 

 ――そして彼の研究室には、二度と誰も戻らなかった。

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