檻を超える
やはり、こういった行動は夜に限る。
そう思いながら、ハクとエスノアはこっそりと身支度を終えて壁の近くまで来ていた。物見櫓がなかったのは幸いである。
刑務所のようだったので、夜間の見回りくらいいるかと思ったが、わざわざ区画内を見回る理由はないと思っているのか、道中誰一人として出会うことはなかった。
流石に門のところには門番が立っていたが、それだけだ。こういった途中の壁を乗り越えれば、なんなら誰にもバレずに行動することができるかもしれない。
深呼吸。もし何かミスをしたら、命がなくなってしまう可能性すらもあるので、心を落ち着かせる。
「エスノア、行くぞ」
「はい」
決意が込められたハクの一言に、エスノアは力強い言葉と共に尻尾を掴む。
それに対して、ハクは一言。
「いや、尻尾を掴まれると困る」
「えっ、あ、すみません」
エスノアは、ここからハクが高く跳び上がると思っている。そのため、尻尾に掴まって一緒に跳び上がろうとしたのだ。
実際その考えには間違いはないのだけど、しかし、ハクはまだ人間の姿だ。ある程度常人よりも高い身体能力があるとはいえ、ここを登ることはできない。やはり、本来の姿に戻らなければ、野生の力というのは使えないのである。
ハクが一瞬、唱える。それと同時に、若干白い霧のようなものが舞ったかと思えば、ハクの姿が変わる。
霧が晴れたあとそこに立っていたのは、二メートルほどの大きさがある狐。親から引き継がれることがなかった、特異的な真っ白な毛並みを持つ狐であった。
ハクの狐姿を一度も見ていなかったエスノアは、声を上げそうになる。
「えええむぐ」
尻尾でエスノアの口を塞ぐハク。まだハクは念話の魔法を習得していないので、狐姿だとエスノアと意思疎通することができないのだ。
大きな尻尾を振って、エスノアに背中に乗ることを促す。エスノアは恐る恐るといった感じでハクの背中にまたがった。毛並みがとてもモフモフしていて、夜ということも相まってエスノアに眠気が襲い掛かる。
だが、その眠気は一瞬で弾けることとなる。
「っっっ~~~!」
急加速。
その大きな爪を立てて木の壁を登るハクは、獰猛そのもの。途中でずり落ちそうになりつつも、とうとう木の壁を飛び越えて、向こう側に降り立つ。
「キュン!」
一鳴き、更に加速。
バイクと同等の速度で走るハクに、エスノアは声も上げれずにしがみつくことしかできない。エスノアの脳裏には、もしハクから落ちてしまったときのことが浮かんでいた。
ハクは、生まれの広大な森を抜けるために何日も走り続けた過去がある。そのせいで、他の狐に比べても圧倒的な脚力と体力を手に入れていたのであった。
あの森と比べて木々の背が高いので、なんと走りやすいことか。ハクはぐんぐんと速度を上げて、森の中を駆けていく。いかに方向音痴であろうとも、月の位置を確認しながら常に同じ方向に走り続ければ、いつかは森を抜けることができるだろう。
そうして走ること数分、周囲の木々の上からガサガサと音がしたと思えば、ハクの目の前に矢が飛んできた。これには流石のハクも足を止めるしかない。
急速な速度低下にエスノアはたまらずハクの上から転げ落ちてしまう。しかし、それでも声をあげることができない。周囲から圧倒的な殺気を向けられているからだ。
「……まさか魔法使い、貴様が召喚士だとはな」
木の上から聞こえた声は、エルベス。そのまま、弓を構えたまま地面に降りてきた。
エルベスは、この白い狐をエスノアが召喚したものだと思っている。実際、魔法使いの中には大きな獣を召喚して使いこなすことができる者がいるからだ。
この世界において、獣が人の姿になるのは一般的ではない。
「いや、私だよ」
いつの間にか、ハクが人の姿へと変化していた。一番最初は時間がかかった変化ではあるが、今では瞬時に姿を使い分けることができるようになっている。
ここまで鍛えてくれたプイには感謝せねばならないだろう。
「な、貴様、どうやって」
「ただ普通に、こうして変化しただけだよ」
ハクは日頃から変化魔法を使いこなし、愛用している。種族適正らしい氷の魔法よりも使っているので、熟練度は止まることを知らない。
だが、世間一般では変化魔法というのはマイナーな魔法だ。それに、使えたとして姿を変えることはできない。せいぜい、物体のサイズをちょっと変える程度なのである。
「まあいい。貴様ら、何を考えている」
「それはこっちのセリフだよ。まったく、放置して」
ハクとて、この行為が褒められたものではないことを理解している。そのうえ、強硬手段として脱出をしたのである。
まさかエルフに追いつかれるとは思わなかったが、それは森の中でのエルフの俊敏性を低く見積もっていたハクの落ち度だ。
「私は隊長だ。忙しい。もう少し待ってくれたら迎えに行っていたのだがな」
「こっちだって財産があるからね、我慢できないこともあるということだよ」
ハクの脳裏には、辞職しようとしたときにもう少しで昇進だったのにとチラつかせてくる元上司の姿が浮かんでいた。エルベスが今言ったことが、あの時の上司と全く同じなのである。その言葉に対するハクの感想は一言、信用ならん、である。
「今後エルフ国に入れなくなるぞ」
「客人に対してあんな扱いをしているなら、もう来ることはないだろうね」
エルフ国が他国との関係についてうまくいっていないのであれば、国際指名手配なんてことにもならないはずだと、ハクはこの数日の間で理解していた。
今のエルフ国に、そこまでの権力はない。
ハクは、またもや恐怖で震えているエスノアの腕を掴んで立ち上がらせる。それと同時に、エスノアの手を指でトントンと叩いた。
「そういうわけで、私たちはこの国を去らせてもらうよ」
「私としてはそれでもいいんだが、犯罪なのでな!」
そう言ってエルベスが弓を引き、周囲のエルフからも殺気が膨れ上がる。そして、矢が一斉に放たれようとしたその時、ハクとエスノアを囲うように、壁が出現した。
エスノアの土魔法である。先ほどエスノアを立ち上がらせたときに、ハクが合図したのだ。
「魔法か!」
壁に少しだけ穴が開き、そこから狐姿に戻ったハクとそれにしがみついたエスノアが飛び出してきた。
エルフたちがまたもや弓を構えようとした瞬間、その標準がブレる。
「なにっ、がっ」
エルベスが地面を見る。そこには、地面に反射する自分の顔が。
ハッとして周囲を見渡すと、そこはまるで氷河期のように氷で覆われた森の姿があった。細い枝の上にいたエルフたちは、突如凍った枝に足を滑らせ地面に落ちる。
地面に立っていたエルベスも、足でしっかりと構えることも、追いかけることもできずその場で座り込む。
エルベスの視線の先には、既に遠くまで走り去ったハクとエスノアの姿があった。白い毛並みが、まるで白い風のように遠くなっていく。
「くっ……やるじゃないか」
ハクとエスノアは、こうしてエルフの国から脱出することに成功したのだ。
……
「早く立て直せ!……それにしても、一射目は仕留めるつもりで撃ったのだが、私が外した?空中で曲がったようにも見えたが……」
……
しばらく走り続けて、とうとうハクたちは森を抜けた。エルフが追ってきていないことを確認したのち、ハクは体を人間のものに戻した。
唯一、ハクを咎めるような視線がいつの間にか増えていたが、これは安心できる視線なのでそのままにしておく。
やっと落ち着いて呼吸ができるとあって、エスノアは大きく息を吐いた。ハクにしがみついている間、ずっと肺の中に溜めていた空気であり、あと数分疾走が続けばエスノアは窒息していただろう。
「はぁぁぁぁ……怖かったです」
「まさか見つかるとは思わなかった。だが、私の氷がうまくいったようだね」
氷河期のように氷を生み出したのはエスノアではなく、ハクだ。森に慣れているエルフを撒くには、完全に行動不能にする必要があったので、動きづらくなるように氷を広範囲に広げたのだ。
その分氷はいつもよりも薄いので、昼になれば勝手に溶けてしまうだろう。森を攻撃するつもりはなかったので、ずっと凍っていてもハクの望むところではない。
「というか!ハクさん、あの狐姿はっ!」
「ん?ああ、そういえば見せたことがなかったね」
そうして、森から離れつつ、二人は歩き出した。ひとまず、今晩眠れる場所を探して。




