目覚める狐
新連載です。不定期投稿です
体の芯まで冷えてしまうほどの寒さを肌に感じて、彼は目を開ける。そこは、白く何もない空間だった。
起き上がろうと意識し、体を動かす前に視点が動いた。目線を下げると、そこにあるはずの自分の体が存在しない。自分は何かを持って景色を見ているはずなのだが、体も頭も、何も自分を構成するパーツがそこに存在していない。
だが、どうにも落ち着いている。全く焦るような感覚はなく、悲しいとか、苦しいとかもない。まるで喜怒哀楽を失ってしまったような思考で、自分に何があったのかを思い出す。
いつものように彼は会社からの帰路についていた。家までのちょっと長い距離を歩いて帰ることは、歩くことが好きな彼には数少ない落ち着ける時間であった。
そうして横断歩道で待っていた彼は、ふと背後から何者かに押し出される。何の気配もなく押された彼は、何の抵抗もできぬままに、車両が行きかう道路の上に投げ出される。
彼が最後に見たのは、自らに向かってくる眩しい光。殴られるなんて表現では生ぬるい衝撃を体に感じ、気が付いたら彼はこの空間に立っていた。
誰が押したのか、気になるところではあるけれど、喜怒哀楽を失った今の自分では、その誰かに対して特に何も抱くことはなかった。なんとなく、僅かな好奇心だけが犯人への興味を生み出していた。そこに憎悪の感情は微塵も介在しない。
悟りを開くとはこういうことを言うのだろうか。死ぬことによって思考がクリアになり、感情を抜きにして物事を考えられるようなったのだ。
死して悟りを開くというのは、非常に遅いと言わざるをえない。生きているうちに悟りを開くことができれば、様々な問題を解決することができるだろうに。
『人間よ』
ふと、頭の上から声がした。彼は思考を中断し、その視線を頭上へと移動させた。だが、その音源を見つけることはできなかった。
『不慮に、幸を』
またもや声がする。どうやら、この声は空間自体に響いているようで、正確な音源というものは存在しないようだった。
その声は、今の彼のように感情がなく、まるで機械のような印象を受ける。
死んだことは間違いない。そして、死んだあとに話しかけてくるような人物なんて……神様というのは、本当に存在したのだろうか。
『継ぎ、生きよ』
その声と同時に、空間の白が発光するかのように強くなり、上下も左右も分からないほどに、視界が白で埋め尽くされる。
目を瞑ることもできず、存在しない網膜を焼かれるような感覚に陥っていると、意識はぷつりと途切れた。
……
一匹の狐が、眠りから目が覚める。寝る前にあった無邪気さは、眠っている間に消えてしまった。
親狐がその狐に近付き、一度だけ体を舐めると、元の位置に戻り伏せる。まだ狐は、自分の状況がよくわかっていないようで、周囲をキョロキョロと見渡している。
周囲には鬱蒼とした森が広がり、そこが街なんかではなく大自然の中であるということを強く印象付ける。狐の意識では、突然森の中に放り出されたような感覚であったが、しかし焦りを見せる様子はない。
彼を舐めた親狐の大きさは、優に五メートルは超えている。鏡がないため分からないだろうが、子狐の彼も、体長は一メートル近くの大きさを有していた。
親狐の周囲には、三匹の茶色の毛の兄弟が寝ていた。親狐が一度移動したはずだが、それに気づいた様子もなく、ふわふわの毛を上下させながら眠り続けていた。
子狐がフラフラしながらも、立ち上がった。そして、小さく鳴き声をあげる。
「キュウン!」
群れの中で唯一の、白い狐が、その目を覚ました。




