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「これはこれは、大聖教司さま」
人垣から姿を現した初老の男性に、教師たちがうやうやしく頭を下げる。生徒たちがざわめく。
「だ、大聖教司?!」
「それって、神殿のいちばん上の人だろう?」
「そういやあ、今日、偉い人が視察に来るって言っていたな」
「どこの神殿?」
「さあ?」
「アビス神殿だって」
「アビス神殿の大聖教司さま」
リュケイオンにはカランドラ国内だけでなく国外からも学生が集まって来る。だから、カランドラでは現在主流となっているアビス神を敬仰しない者も一定数いる。
リエトたちは生まれたときからアビス神を敬仰しているからその場で膝をつき、頭を下げる。他の生徒や教師も同じように最上級の敬意を払う礼を取る。
学院では宗教を祀る集団活動を禁じてはいるが、個人の信仰に対しては制限を設けていない。アビス神を敬う者たちが神殿でも最も徳が高いとされる聖職者に恭しく振る舞うのも当然のことだった。
意外だったのは、その大聖教司がアーテルに向けて敬意を払ったことだ。
「わたしが保証します。こちらの方は尊い御身です」
「なあ、アビス神ってイヌ科の眷属が坐していたよなあ」
「ううん?」
バルドの言葉にルキーノが揃って首をひねる。
アビスは冥界の神で聖地の主、山に坐す者だ。そして、イヌ科の眷属を持つ。
「ああ、それで、狼を敬うのか」
「しかも、アーテル、喋るもんなあ」
アルフォンソに、ルキーノがバルドが言わんとすることを理解する。
「君らは正気か?」
それで納得するのか、とシストが目を剥く。
リエトからしてみれば、国内だけでなく、諸外国にも広く布教し、多くの信者を抱える神殿のトップが保証したことから教師たちの追及が止んだことがなによりのことである。
病弱だったリエトはいつのころか紛れ込んできた大きな犬(だとリエトは思った獣)に怯えて泣いた。困り切った犬は、良いことを思いついた、とばかりに明るい表情となった。その顔を、リエトは今でも覚えている。なのに、次の瞬間、可愛い黒い子犬に変じたということを忘れていた。みるみるうちに縮んで小さなリエトがなんとか抱えることができるくらいの大きさになった。
その黒いうつくしい毛並みから「アーテル」と名付けた。
アーテルの尾がぶんぶん振られているのが、「遊ぼう遊ぼう」というように思われ、父に頼み込んで飼う許可を得た。
「そうだった。はじめアーテルは子犬じゃなかった。大きな犬だった。黒くて大きくて、怖くて泣き出したんだ。そうしたら、するすると縮んで子犬になって。そっと触ってみたら温かくて。アーテルが舐めるものだから、涙かよだれかわからないべちょべちょな顔になったんだっけ」
なんで忘れていたのだ。
成犬が子犬の大きさに縮むなんて、あり得ない。怖がって泣くリエトにアーテルが合わせたのだ。いつだって、アーテルはリエトの傍にいるために力を尽くす。
アーテルを散歩させるために、リエトはどんどん活動的になった。身体を動かしたら腹も減って食欲が出て来た。それまで食が細かった息子が、弟が元気になったと家族は喜んだ。家族だけでなく、使用人たちも歓迎した。
幼いころ、体力に乏しいリエトがアーテルと散歩に行って、途中で体力が尽きて動けなくなったのを、アーテルが背に乗せて帰ってきた。
やっぱり、子犬ではない。
家族はアーテルは普通の犬ではないと気づいて引き離そうとしたが、リエトもアーテルも抵抗した。泣いて喚いていやがった。泣きすぎて熱が出たリエトに家族が折れた。
そうだ、アーテルはしゃべるだけではなく、身体の大きさを自在に変えられる。
そして、蘇った記憶はほかの記憶も連鎖して引き寄せる。
『主さま!』
アーテルの主さまのことを思い出していると、アビス神殿の偉い人がにこやかに話しかけてきた。
「先日から、なんとなくこの街に来た方が良いような気がしていたのです。そして、なんとなく、この学院を訪れたいと思った。きっと、呼ばれたのですね」
そして、居合わせた者の一部がするように、地面に膝をつき、両手を組み合わせ、頭を下げる。アビス神敬仰者が神殿の大聖教司に取った恭しい礼と同じように。
「拝謁が叶い、恐悦至極に存じます」
「え、あの、」
バルドやルキーノとは異なり、リエトにはシストの危惧が分かる。どうしたものかと、先程とは違った意味で心臓の鼓動が速くなる。
『リエト、どうしたの? なにが不安なの? おれ、ここにいるよ! リエトといっしょ!』
「そうなのですね。そちらのリエト様といっしょに在ることがお望みなのですね」
『うん、そう! おれ、リエトといっしょ!』
リエトが上手い言葉を探すうちに、アーテルが大聖教司に答えてしまう。誰もが「喋る犬」に強い関心を惹かれつつも、直接話しかけるのは躊躇していたのだが、リエトのほか、大聖教司だけは嬉々として会話した。
「かしこまりました。最大限の配慮をしていただけますよう、わたしの方からも力を尽くします」
こうして、アーテルはリエトについて学院に出入りする許可をもぎ取った。もちろん、神殿の偉い人が学院にゴリ押ししたのだ。
「すっげえ! 権力を使ったのを目の当たりにした!」
「アーテル、これからよろしくな!」
「おん!」
毎朝の攻防がなくなり、よって遅刻することもなくなったリエトは、まあ、いいかなと思うのだった。
まあ、いいかな、で済まなかったのは周囲で、その際たるものが行動を共にすることが多いアルフォンソであり、リエトに恩を感じているシストである。
しかし、ふたりも次第にリエトに常に寄り添い、『リエト、大好き!』を身体全体で表すアーテルにほだされていった。結局彼らも、「あんなに慕っているのだし、まあ、いいかな」となったのである。
事件があった日、魔装通信機のやり取りで、リエトから迎えの馬車を断られたライネーリ伯爵家では大慌てですぐさま馬車を学院に走らせた。だが、魔獣侵入の騒ぎで馬車止めに向かうことすらできなかった。ようやく騒ぎが落ち着いたころ、リエトとアーテルの姿を見た家人は大いに安堵した。
ライネーリ伯爵家はむかしは病弱だった末っ子が元気になって通えるとあって、感激しきりで学院に多額の寄付をしている。「食の細い末っ子のために、カフェテリアの食事の質を上げてほしい」なんてつぶやいたものだから、寄付金の一部の使い道は決まった。
富裕な伯爵の厚情を知ったバルドが、入学当初、「ライネーリ伯爵の子息って、君か?」と話しかけてきたのが友だちとなったきっかけだ。それを近くで聞いていたルキーノも加わって、ふたりはリエトに祈りをささげたのだ。正確に言えば、リエトの保護者たる伯爵にだ。
「「美味しい食事をありがとう」」
「え、いや、ちょっと、やめてよ!」
「どうしたんだ?」
シストがすわ揉め事かと駆けつけ、バルドとひと悶着があった。たまたますぐ傍にいたアルフォンソにルキーノが事情を語って、シストが呆れ顔をし、そんな彼にバルドがカタブツ君というあだ名を進呈した。「受け取り拒否する!」「もうあげましたー!」
そして、今回の一件で、アーテルがリエトといっしょに通えるようになり、ライネーリ伯爵家は、また多額の寄付をした。息子から学院のあれこれを聞き、「昼食のお代わり制限がされないように、その分に充ててくれ」と言ってよこした。「みんなもりもり食べているから、ついつい僕もいっぱい食べちゃうんだ」という食が細い末っ子の無邪気な笑顔に、「うん、うん」「そうか、そうか」「いっぱいお食べ」というやりとりがあったことは想像に難くない。
これには腹ペコ学院生が喜んだ。
「俺、伯爵さまに入信する」
「俺も」
「いや、お父さ―――父上は神とかそういう存在じゃないからね?」
「「俺たちにとっては神のような存在だ」」
キリッと言い切った。こういうときは一言一句きっちり揃えて来るバルドとルキーノである。
ともあれ、今日もリエトはアーテルとともに元気にリュケイオンに通っている。
「行こう、アーテル」
「おん!」