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「行こう、アーテル!」

「おん!」

 勢いよく駆け出し、踏み切り、跳んだ。黒く光る毛並みの大きな獣がぴったりと付き従う。

 スピードに乗って小柄な身体が中空を舞う。その背中に翼が生え、宙にふわりと浮いているかのように見えた。陽光を浴びて輪郭がきらきらとぼやけた。

 刹那、輝きが翼となって、重力から解き放たれ、自由を彼に与えた。





 慌てて教室に駆け込むと、朝の伝達事項はすでに終わっていた。今日はまだ一限目に間に合っただけ、良い方だ。


「おー、今日も遅かったな」

 パンを頬張ったせいで不明瞭な声を掛けてきたのは、麦わら色の髪、紺色の目をしたそばかすのルキーノだ。やせっぽっちなのにいつも腹ペコで、バルドと共にしょっちゅう「腹が減ったぁ」とぼやいている。きっと、あのパンを食べきった瞬間に言うだろう。


「入学当初から遅刻常習者ってやべえよな」

 大柄なバルドが上半身を机にべったりとくっつけて、顔だけ上げて言う。その顔はわりに整っているが、今はにやにやしているので、形無しである。茶色の髪と目をしていて、モテる。やはり、身体の大きさのおかげなのか。リエトはきゅむっと唇をひん曲げた。


「お疲れ」

 よくいっしょにいる少年たちの最後のひとり、アルフォンソの言葉に、リエトは無言でうなずいた。たすき掛けにしていた鞄の紐を外していたので声が出なかったのだ。

 アルフォンソはブルネットに青い瞳で無口だからかちょっと怖そうに見えるが、ぼんやりしているだけだと今は分かる。学院に入学して間もないが、四人でずっとつるんでいたから慣れてきた。今も、バルドの言葉にリエトが唇を尖らせたのを、不名誉な称号を与えられた不満だと受け取って労ってくれたのだ。


「リエトん家って裕福な伯爵家だろう? だったら、リュケイオンじゃなくてアカデメイアに入学しそうなものなのになあ」

 ルキーノはもったいないとか贅沢だとか、ましてやばかばかしい理由でとかいった悪感情ではなく、単純に疑問に思ったことをそのまま口にしている。その口に、パンの最後のひと欠片を放り込んで「ああ、腹減ったなあ」と、切なげに腹をさする。


 ここリュケイオンは貴族だけでなく、庶民も通う学院だ。だからか、わりに下位貴族の子弟が多い。アカデメイアは庶民の入学は許可されていないからか、高位貴族の子らが多く通う。ルキーノの言うとおり、リエトの兄や姉たちはこの学院に通った。


「バルドはなんでキュノサルゲスに行かなかったの?」

 この国にある主要な三学院のうちの残るひとつ、キュノサルゲスは体育会系寄りだ。身体が大きく運動神経の良いバルドには適している。


「寮に入りたかったから」

「俺も! 寮でたらふく飯を食いたかったから!」

 バルドの返事に、ルキーノが「はいはーい」と片腕を上げる。当てられても答えることができない授業では絶対にしない仕草だ。ルキーノは教師の目を避けて縮こまり、バルドに至っては堂々と睡眠学習をしている。入学早々問題児なのはふたりも同じなのだ。

「それそれ」

 頷くバルドは下級貴族の子息で、ルキーノは庶民だ。どちらの家もあまり裕福ではなく、いつだって腹ペコなのでお代わりし放題の寮に入るのを楽しみにしていたのだそうだ。


「俺も、家を離れたかったから」

 ぽつんと言ったアルフォンソは実は侯爵家の子息である。高位貴族ではあるが、庶子であると聞く。あまり踏み込まないようにしているが、やはり家は居心地が悪いのだろうか。


「リエトは寮に入っていないってことは家が近いんだ? タウンハウスつったっけ」

 ルキーノはリエトが入寮していないことは覚えていたらしい。

「いっそ、寮に入った方が毎日遅刻しないで済んだんじゃねえの?」

「そうかもしれないけれど、無理だよ」

 口々に言うルキーノとバルドにリエトは上目遣いになる。小柄なリエトはどうしたって同級生を見上げる形になる。ミルクティ色のふわふわの髪、うすい緑の大きな目と相まって、「可愛い」と言われたことがあっても「格好良い」からは程遠いところにいる。

 由々しき問題だ。

 これではいつまで経っても女の子と縁遠い。


 リエトは小さいころ身体が弱くて箱入り息子で、この学院に入学したことでようやく社会に出たから、「年上のお姉さんに可愛がられる」というパターンを知らなかった。知ればカルチャーショックを受けたに違いない。年下の可愛い男子を好きなお姉さま方からしたら、リエトなど打ってつけの逸材である。


「そうだろうな。リエトは毎朝登校の引き留めにあっているくらいなんだから」

 アルフォンソの言葉に、ルキーノはきょとんとし、バルドはにやにや笑いを再開する。ルキーノは忘れているなと思っていたが、バルドは分かっていて言っているのだ。


 リエトは毎朝、登校するのにひと苦労もふた苦労もする。いつもいっしょにいたアーテルが離れたくないと主張する。黒く光る毛並みの立派な体躯のイヌ科の動物を思い出して、リエトはため息をついた。


 登校準備を済ませたリエトに、「自分を置いて行くのか?!」とばかりに、きゅぅん、きゅぅんと鳴いて引き留める。なんなら、リエトの足にまとわりついて登校の邪魔をしようとする。

 それはもう、この世の終わりか今生のわかれか、というほどの切なげな鳴き声、悲壮な顔つきで見上げて来る。

 それが毎朝だ。


 リエトとて対策をしている。ちゃんと目を合わせて言い含めた。アーテルも「分かった」と頷く。でも、いざ登校しようとすれば、寂しさが先立ち、引き留めにかかるのだ。

 一昨日よりも昨日、昨日よりも今日、毎日ちょっとずつ登校準備を済ませる時間を早めている。アーテルに時間感覚があるのかどうかは不明だが、時間を早めてもその分、粘られるのが長くなるだけなのだ。

 繰り返しになるが、毎朝のことである。


 リエトとしてもアーテルとずっといっしょだったから、別れるのはつらい。大好きなアーテルの願いをかなえてやりたい。しかし、世の中にはどうしようもないことがあるのだ。

 よわい十三にして、リエトはようやく知った。幼いころは身体が弱く、外へ出ることもままならなかったリエトは家族から大事にされてきた。物心ついたときにはアーテルと常にいっしょだった。アーテルはリエトのお守りであり、守護獣でもあったので、家族もそれを許していた。アーテルの献身のお陰か、リエトは長じるにつれ丈夫になった。


 アーテルとともに笑い声を上げてはしゃいで駆けまわる姿に、家族も使用人もこっそりまなじりをそっと拭った。なんなら、ずびびっと鼻をかむ。

 リエトの小柄な体躯や、可愛らしい容姿とも相まって「病弱な伯爵家のぼっちゃま」「ようやく元気になられた坊ちゃん」「愛らしくて天真爛漫な伯爵家ご子息」といった価値観が根付いていた。それらは「この無邪気な笑顔を守りたい」という考え方にシフトしていた。


 事業や領地経営は順調で社交界でもまずまずの地位を得ているライネーリ伯爵家だ。タウンハウスも広い。カントリーハウスから通学のために移って来たリエトとアーテルのために、隣地を買い取って庭を広くした。これでアーテルも元気いっぱい駆けまわることができるだろう、というどこまでも息子とその守護獣に甘い伯爵家である。


 そんなわけで、家族も使用人も強硬策に出るわけにはいかず、リエトはどうしたってアーテルの引き留め合戦に引きずり込まれ、「遅刻常習者」の不名誉な境遇に甘んじている。


 リエトとて、ずっといっしょだったアーテルが傍にいない状況というのは、強い違和感がある。しかし、学院に登校してしまえば、仲良くなった同年代の友だちがいる。授業にいっしょうけんめいついていこうと頭を使う。

 今も、アーテルはタウンハウスに取り残され、しょんぼりと頭や尾を下げているかと思うと、胸がきゅっと締め付けられる。


「そこで無理って言いきっちゃうんだもんなあ」

「いっそ、———その犬、なんてったっけ」

「アーテル」

 ルキーノに答えたのはアルフォンソだ。

「そうそう、アーテル。そのアーテルをさ、連れて来たら?」

「学院に?」

 ルキーノの言葉にリエトは目を丸くする。

「許可下りんのか?」

「さあ? 知らねえ」

 バルドの問いにルキーノはあっけらかんと言う。

「知らないのかよ」

「うん。君、知っている?」

「俺が知っているわけないだろう」

「だよな」

 言ってルキーノが笑い出し、バルドもいっしょになって腹を抱える。

「スプーンが転がっても笑うお歳頃」

 アルフォンソがぼそりと言う。ふだん無口なのに、たまに放つひと言がなぜかツボに入る。クセになるってやつかな、と思いながら、リエトは吹き出す。

「んん? スプーンなんてそうそう転がるか?」

「ばっか、だから笑うんだろう?」

 バルドの突っ込みに、「なるほど!」とルキーノが納得する。それがまた、リエトの笑いを加速させる。

 アルフォンソはアルフォンソで、友人を笑わせることができて満足げだ。


 まるっきりお馬鹿なやり取りばかりだが、このくらいの緩さ加減が心地よく、リエトは初めての他人との交流に肩の力を抜くことができる。

 家とは別の居場所を得ることができたのだ。




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