9 侍女キャシー
伯爵家の朝食は、たくさんの皿が並んで豪華だった。
昨夜は疲れと緊張で何を食べたかも覚えていないが、今朝のアビーは心に多少の余裕がある。
今は(さすがは伯爵家の食事ね)と感心している。
座っているだけで美味しい朝食が出てくる。パンもふわふわ、卵もクリームとバターを使ってあり、とろけるような柔らかさ。
アビーとギルバートは、普通の夫婦のように向かい合わせで無言で食事をしている。
給仕をしているのはオルトで、部屋には三人だけ。
唐突にギルバートがアビーに話しかけてきた。
「夜中にベランダに出ていたな」
「はい。目が覚めてしまいまして」
「ベランダに出る時はガウンを羽織れ」
「はい。心配してくださり、ありがとうございます」
それ以外は二人とも無言で食べた。
静まり返った食堂で、オルトが甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。
ギルバートは食事を終えると「私は書斎にいる」と言って出て行った。オルトが気を利かせて、一人残されたアビーに食後のお茶と少しの甘い菓子を運んでくれた。
「奥様、ギルバート様は愛想は悪いのですが、あれが通常ですので。どうかお気を悪くなさらないでください」
「ええ、わかってます。オルト、質問があるのだけど」
「なんでございましょう」
「オルトは、この結婚のこと、どこまで知ってるの?」
オルトはアビーから視線を外して答えない。
(きっとどう答えたものか考えてるのね)と思い、言葉を重ねた。
「身近にいるオルトがどこまで知ってるのかもわからないと、私、ずっと神経を張り詰めてなくちゃならないでしょう?」
「そういうことでしたか。それでしたら」
オルトは一度言葉を切ってドアを見て、それから話を続けた。
「全て存じております」
「期間も?」
「はい」
「そう。それを聞いてホッとしたわ。あなたのことまで騙すとしたら、とても大変だもの」
「他の使用人には秘密にしてくださいませ」
「わかったわ。それとオルト。私、使用人のいない家で育ったの。だからお風呂は一人で入りたい。そこは譲れないわ」
「承知しました。侍女たちに伝えておきます」
「それからね、いくつもお願いをして申し訳ないのだけど、テッドの行方がわかったら教えてもらえますか? あの人と私は姉弟のようにして育ったんです。心配で心配で。どうかお願いします」
「ギルバート様の許可をいただいてからでよろしいでしょうか?」
「ええ、もちろんよ」
そう答えるしかない、自分には何の権限もないのだから、とアビーは笑顔を作った。
※・・・※・・・※
アビーのために新しく雇われた少女は、キャシーという名前だった。十八歳だという。
「奥様、キャシーと申します。精一杯勤めますので、どうぞよろしくお願いいたします」
「キャシーはここの前はどちらに?」
「キリム子爵家で働いておりました。代替わりで使用人の入れ替えがありまして」
「そう。私は男爵家で貴族とはいえないような気楽な生活をしていたの。きっとキャシーのほうが、貴族の暮らしに詳しいわ。いろいろ教えてちょうだいね」
「はい。よろしくお願いいたします」
キャシーはとてもよく気がつく働き者だった。
アビーは(気を許せそうな人でよかった)と喜んだ。
※・・・※・・・※
今は社交の季節。
『あのイーガン伯爵が結婚した』というニュースはあっという間に広がったらしく、イーガン家には次々とお茶会や夜会の招待状が届くようになった。しかし。
「行かなくていい。そもそも包帯がとれないうちは外出も控えろ」
「はい、旦那様」
「包帯が取れても、私が選んだもの以外は行かなくていい」
「はい、旦那様」
会話はそれで終わった。
雇われたばかりのキャシーがギルバートの口調に驚いているのに気がつき、アビーは夫の不愛想な態度を笑顔で補う。
「大丈夫よ、キャシー。旦那様は私が不慣れだから心配してくださっているの」
「はい。承知しております」
「そう? ならよかったわ」
「使用人にそこまで気を使う必要はない」
「はい、旦那様」
苦笑するアビー。
オルトは無表情だが、(あーあー)と内心では主の不愛想っぷりを残念がっている。
キャシーはギルバートを怖がっているらしく、引きつった顔だ。
そのキャシーを誘って、アビーは自室でお茶を飲んだ。
「私は自分の両親しか知らないから、夫婦はもっと親密なものだと思っていたの。だから最初は驚いたけれど、旦那様は本当はお優しい方なのよ」
「はい、奥様」
「だから、外の人に旦那様のことを悪く言わないでもらいたいの」
「もちろんでございます、奥様」
「それならよかった。キャシー、これからよろしくね」
「はいっ!」
キャシーを下がらせ、アビーはゆっくりとお茶とお菓子を楽しんだ。
今日の午後は貴族のマナーの授業がある。それもありがたい配慮だ。お金をいただきながら学べるなんて、と感謝した。
ギルバートの妻を務めることは賃金が発生する『仕事』だ。仕事ならば伯爵のそっけない態度など、なんということもない。
テッドの家ではテッドもテッドの母親も、それはそれは苦労して生活していた。
「それに比べたら、そっけなくされることくらいなんてことないわ」
立派なお屋敷、高価な衣類、清潔なベッド。
妻としての務めは外出したときだけ。それもほとんどない。
「文句をいったら罰が当たるような優良なお仕事よ。この二年を無駄にはしないわ」
立ち上がり、窓の外を見る。深い森を思わせる絶妙な庭の造り方に感心する。
きっちりと与えられた仕事を成し遂げる。そして二年の間になんとかしてテッドを救わなくては。