8 アビーの秘密
「あれはどういうつもりだ」
「あれ、とは?」
アビーは本当になんのことかわからなかった。
「俺が『大変熱心に私の妻になってほしい、妻にするのはお前を置いて他にいない』と繰り返したなどと」
「いけなかったでしょうか。急な結婚でしたので、そのくらい言ったほうが真実味が出るかと思ったのですが」
「面倒な質問をされたら俺が止める、と言ったはずだ」
「次からは気をつけます。申し訳ありませんでした。それと、」
「なんだ」
「王妃様が私を睨んでました。私が何かされるようでしたら守っていただけるのでしょうか。私は自分の幼なじみのためになら命を張りますが、ギルバート様への焼きもちのために死ぬつもりはありません。そこを確認させてください」
「その件は心配するな。彼女は自分で納得して王妃の座についたんだ」
ここで反論しても意味はない、と判断してアビーは口を閉じていたが、内心では(本当に大丈夫なのかしら? 男性はあの手の美人に弱いから)と思う。
その夜は当然のごとく別々の寝室ですごした。
昼間の緊張で疲れていたアビーはふわふわのベッドに倒れ込みながら、「私、二年もやっていけるかな」と自信がなくなりかけた。
だがすぐに弱気な自分を戒る。
「ううん、何が何でもやっていかなくちゃ。テッドのためよ」
就寝前の湯あみの準備ができた、と侍女が報告に来た。アビーは「湯あみはひとりで」と言い張って侍女を退けた。
浴室に前の脱衣所には姿見が置いてあり、全裸になったアビーは自分の背中を確認する。
肩を出すドレスを着ても人に見られないウエストの背後。くびれた部分の少し下。そこには、黒々と焼き印が押してある。直径四センチほどの二つの輪が横に半分重なる図案。
古来から「奴隷」を意味する印だ。本当なら腕の見える場所に押されるものだ、
奴隷制度は三十年以上前に禁止されているが、これを焼きつけられたのはたった九年前。アビーが十五歳の時だった。
「これは絶対に見られたくない。見られるわけにも知られるわけにもいかない」
※・・・※・・・※
ベッドの中でアビーはその時のことを思い出している。
仕上げた刺繍を納めた帰りに街を歩いていた。
服装は誘拐されたりしないように、あえて平民風だった。
王都の平民街を歩いていたら「田舎から出てきたからこの住所がどこかわからない。案内してほしい」と初老の男に頼まれた。
案内している途中でいきなり口と鼻を押さえられ、薄暗い路地の建物に連れ込まれた。
「今日の獲物は顔よし年齢よしの極上品だ」
「旦那様が喜ぶな」
「褒美もたんまり貰えそうだ」
赤く焼けた焼き印が近づくのを見て、押さえつけられたまま暴れようとしたが、がっちり押さえられていて動けない。焼き印を持った男が笑いながら近づく。着ていた服はめくり上げられ、背中までむき出しにされている。
「これを押すとみんな大人しくなる。お前も大人しくなるさ」
激痛と肉の焦げる嫌な臭い。
口を布で塞がれて悲鳴もあげられないまま、痛みのあまり気を失った。
揺り動かされ、自分の名を呼ばれて意識を取り戻したアビーは、テッドの姿を見て驚いた。
「テッド!」
「アビー、今助けてやる。待ってろ」
(これで助かる)という気持ちと(あいつらに見つかったらテッドが殺されてしまう)という恐怖で呆然としたのを覚えている。
テッドは手早くアビーの縄を解くと、アビーの手を引いて階段を上がる。最後の段に近づいたところでテッドは「目を閉じろ」と言った。
理由がわからないまま、アビーは目を閉じてテッドに手を引かれて歩いた。
やがて、吹いて来る風と地面の感触で外に出たのを感じた。
「全力で走るぞ」と言われ、二人で息が続く限り走った、
途中で息が切れて歩いてる時、テッドが
「何があったか親に言うな。俺がうまいこと言うから。アビーは絶対に何も言うなよ。今日のことは全部忘れろ」
と怖い顔で言う。
いつもは可愛い弟だと思っていたテッドの怖い顔に、アビーは黙ってうなずいた。
走ったり歩いたりして家に着くと、両親が玄関から飛び出してきた。
「どうしたんだ! 帰って来ないから心配したじゃないか!」
「ごめんなさい、男爵様。王都の外れで空き家探検をしてたら遅くなっちゃって。アビーは帰ろうって何度もいったのに、俺がもう少しもう少しって粘ったから遅くなったんです。アビーを怒らないでください」
テッドは笑顔で嘘をついてくれた。
アビーはあの日から両親に秘密を隠し続けている。
(一人娘の私が奴隷の焼き印を押されたと知ったら、両親はどれだけ嘆き悲しむか。奴隷の焼き印のことで苦しまれるより、『結婚したくない』と言い張る娘のわがままを嘆かれる方がずっといい)
そう思ってアビーは生きてきた。
テッドはあの話をあれから一度もしないし、自分もあの件のことを尋ねたことがない。
そっと指先で触ると、腰の焼き印は目を閉じていてもはっきりと形がわかる。
(私の身体にこんなものがあると知ったら、旦那様は『こんなことは聞いていない、イーガン伯爵家の名に泥を塗るつもりか』と怒るかもしれない)
何があっても隠し通さねば。そしてテッドを救わねば、と思う。
湯に浸かり、ベッドにも入ったが、緊張し続けだったからか目が冴えて眠れない。
眠るのを諦めたアビーはベッドから降りた。
暗い室内をそろそろと歩き、ベランダに通じる大きなドアを開けて室外に出た。五月になったばかりの夜風は冷たかった。
「普通の人生はもう諦めていたけれど、たとえ二年だけでも伯爵様の妻になったのね」
そうつぶやいて庭を見下ろした。
暗さに目が慣れると、庭の一画に白いガウンを着たギルバートがベンチに座っているのが見えた。
「あら。旦那様も眠れないのかしら」
そんな声が聞こえるはずがないのに、ギルバートがこちらを見上げた。
「うわ」
急いでしゃがみ込んだが、自分の前には柵だけ。姿は見えるだろう。
「寝よう」
しゃがんだ姿勢のままアヒルのように歩いてドアから中に入った。ベッドに潜って「ふうぅ」と息を吐く。
なかなかに中身の濃い一日だった。