42 走るアビー
アビーは全力で走り続けた。
戦闘で力の大半を使ったが、あそこまで反撃した以上、つかまれば殺されると思った。
(乗馬服でよかった)と思いながらブーツで走る。男は咳き込んでいたせいで大きく後れを取っている。今のうちに距離を稼がねばならない。
以前のアビーならとっくに力尽きていただろうが、今は違う。
鍛え続けた日々がアビーを走らせていた。
行く先がおかしいと思ったときから景色を覚えておいた。
集落の中に逃げ込もうかと考えたが、他の人を巻き込んでも助けられる自信が全くないから諦めた。
男との距離は少しずつ縮まっている。このままでは捕まってしまうだろう。
遠くの畑に鍬を持って耕している男性がいたが、距離がありすぎるし頼りになるかどうかもわからない。
走り続け、肺が焼けるように痛く苦しい。
男の怒声が近づいてきた。
ここまでかと思った時、道のはるか先に土煙をあげながら五頭の馬が全力で走って来るのが見えた。イーガン伯爵家の護衛たちだ。
心臓と肺の痛みを無視して、アビーは走り続けた。
喉が空気を求めてヒューヒューと奇妙な音を立てている。馬が近づき、返り血に塗れた男たちが馬から飛び下りたのを見ながら、アビーは崩れるように倒れ込んだ。
※・・・※・・・※
その頃、狩りの会場は静まり返っていた。
たくさんのテントが周囲を円形に取り囲んでいる広場。
狩りに参加するはずだった全員が見ているのは広場の中央にいる三人の男たちだ。
国王ブラッドフォード・エンフィールド。
フレディ・エドモンズ侯爵。
ギルバート・イーガン伯爵。
参加者全員がそこにいる。
王家のテントの前に置かれた椅子に座っているのは国王ブラッドフォード・エンフィールド。
その前で、エドモンズ侯爵が青ざめた顔で片膝をついてうつむいている。ギルバートは侯爵の斜め後方に立っていた。
「そうか。エドモンズ侯爵。全く身に覚えがないと言うのだな?」
「全くございません。陛下、これは私を陥れようとする陰謀です」
「ほう。では、あの者たちのことはなんと説明する?」
王国騎士団の屈強な男たちが十名の男たちを引っ立てて広場に入ってきた。
エドモンズ侯爵は自家の私兵を突き付けられ、更に顔色が悪くなった。
「ここにいる皆に知らせよう。この男たちは森の中でギルバート・イーガン伯爵目がけて矢を射ろうとした。夜明け前から各所に身を潜めていた騎士団員がその現場を押さえた。全員エドモンズ侯爵家の家臣であることは確認した。王家主催の狩りの場においてこのような殺人を企むことは、王家への反逆と見なす」
国王がいったん言葉を切り、居合わせた貴族たちがザワザワし始めたところへ、再び国王が新たな火種を投じた。
「エドモンズ侯爵は市中の平民の少女を長年にわたり誘拐し、隣国ザハー王国に売り飛ばしていたという報告が上がっている。この件については法廷にて厳正な裁判を行う。貴族家当主はできる限り傍聴するように」
国王の要望は、命令である。
貴族たちは『エドモンズ侯爵の罪が裁かれる場に立ち会え』と理解した。
政治的な発言力の強かった侯爵がなぜ人身売買などを? と人々はひそひそと言葉を交わしていた。
※・・・※・・・※
その夜、アビーはギルバートの膝の上で夕食を食べさせられていた。
骨折のときとは違って、口に運ばれる量は少なくなり、アビーが必死に咀嚼しなくても済む量だ。ギルバートは学習したらしい。
「旦那様? 右手をガラスで少し切っただけですし、左手は無事ですので、自分で、」
「だめだ」
「ではせめて椅子に自分で座らせてく……」
「それもだめだ。お前はあの男たちに殺されていたのかもしれないのだぞ。殴られた頬も腫れてアザになっている。俺の寿命は十年は縮んだ。だから俺が食べさせる」
(『だから』の意味がわからない)
そう思いながらもおとなしく口を開けて食べさせてもらう。見ているのはキャシーだけだが、恥ずかしい。恥ずかしい時間は言いなりになったほうが早く終わるのだ。
そのキャシーでさえ頬を染めて(とても見ていられない)というように斜め下を見ている。
「君を拉致したのは義父の仕業だった。義父は君が私の子を授かる前に始末しようとしたのだろうな。鹿狩りの日に計画するあたりが相変わらず悪知恵が回る男だよ」
「あの男たちはどうなりましたか」
「もちろん牢獄にいる。うちの護衛を足止めした連中は護衛に全員斬り伏せられた」
「そうでしたか……、それでギルバート様のご実家はどのように?」
「義父は無期の強制労働だ。母と妹は平民になる。母はおそらく妹の婚約を解消させて平民の金持ちに嫁に出そうとするだろう。幸か不幸か妹は、両親の言いなりでいることに何の疑問も不幸も感じない人なんだ」
妹の口癖は『お父様のなさることが一番正しい』なのだそうだ。
アビーは彼女たちの暮らしぶりを心配する気にはなれなかった。
犯した罪は犯した者が償うべきだ。
「旦那様、護衛を叱らないでくださいね。最後は助けてくれたのですから」
「俺はまだ腹立たしいが、君がそう言うなら叱責するだけにとどめておこう」
その五人の護衛たちはアビーを家に連れ帰った時点で、これ以上ないほど深く頭を下げた。全員解雇を覚悟していたらしい。
「無事だったんだからいいのよ」とアビーは笑って許したが、護衛たちの落ち込む様は並ではなかった。
そして少女のような体格のアビーが二人の男から逃れてきたことに驚いたらしい。
「ガスの指導が生きたようだが、もう二度と、」
「もう二度とあんなことはしたくはないです」
「したくはないけど、必要があればするのか」
「はい」
「はぁぁ。君と暮らしているとどんどん寿命が縮みそうだ」
(あと一年ちょっとでその暮らしも終わるではありませんか)
それは口に出さず、アビーは差し出されたスプーンの上の白身魚を食べるために口を開けた。
その夜、夕食が終わってもギルバートはなかなかアビーを離さず、居間に移動するときも抱き上げて運び、食後のワインを飲みながらこれまで黙っていたことを話してくれた。
テッドは王都に戻ってきたことをあちこちで知らせて回り、テッドに接触してきた男をイーガン伯爵家の護衛たちが片っ端から尾行した。たいていはただの遊び仲間、配達仕事の関係者だったが、十数人目の男がエドモンズ侯爵の片腕のジュスタンという男だった。
ジュスタンはテッドを酒場の外に連れ出し、ナイフを突きつけて連れ去ろうとしたところを護衛たちに取り囲まれた。
ジュスタンはエドモンズ侯爵家の家臣であることが判明し、街の警備隊ではなく王家直属の取調官が取り調べをした。しかし、ずっと冤罪を訴えているらしい。
ところがテッドの証言で事態が大きく変わった。テッドは王家の取調官の前で
「服装と髪型は酒場で会った時と違いますが、間違いなくクロスボウの矢を打つよう頼んできた男です」
と証言した。





