41 迎え
アビーは刺繍に集中していた。
だからキャシーが息を切らして部屋に入ってきたときにはビクッとするほど驚いた。
「奥様、お客様がいらっしゃっています。急ぎの用事だそうです」
「どなた?」
「狩りの会場の担当者とのことです」
返事もせずに立ち上がり、キャシーを追い越すようにして玄関に走った。玄関には姿勢を正した男が二人。貴族の使用人がよく着る制服姿だ。
「アビゲイル・イーガンです。どのようなご用件でしょうか」
「奥様、ギルバート・イーガン伯爵様が狩りの最中に何者かに襲われ、お怪我をなさいました。従者、護衛の全員が怪我を負ったため私どもが使いで参りました。伯爵様は動かせない状態のため、急ぎ奥様を連れて来るようにとの陛下のご命令です」
使用人の言葉を聞いた瞬間、膝から崩れ落ちそうになった。
(だめ、ここでしっかりしなくては)そう自分を励まして手足に力を入れる。
「今すぐ私どもと狩りの会場までお越しください。あまり時間がありません。伯爵様は重傷を負っていらっしゃいます」
「わかりました。馬ですか馬車ですか」
「できれば馬で。申し上げにくいのですが時間があまりありません」
「今すぐ着替えます。数分お待ちを」
怪我の状況をここで聞いても時間の無駄と判断して、質問もせずに階段を急いで上がった。キャシーに手伝ってもらってドレスを脱ぐ。下着になりキャシーが並べた乗馬服に無言で着替えた。
急いで妻を呼べというなら間違いなくかなりの重傷なのだ。
もっと取り乱すかと思ったが、意外に冷静でいられる自分がありがたかった。
だが頭の中でキーンと耳鳴りがして、キャシーが何か話しかけているのに聞き取れない。
「え? 何て言ったの?」
「屋敷の護衛をお連れください」
「ええ、そうね。同行するよう伝えて」
キャシーが走って連絡に行き、着替え終わったアビーは階段を駆け下りた。
王宮の使用人はアビーを促し、自分たちが乗って来た馬にアビーを乗せると一人がアビーと二人乗りをして馬に合図を送った。
二頭の馬は走り出し、乗馬の経験がほとんどないアビーは、背後からイーガン伯爵家の護衛たちが付いて来るのを振り返って確認することもできない。だが、背後から走ってくる複数の馬の蹄の音が頼もしく聞こえてくる。
三十分ほど馬で走った時、アビーは不審に思った。
王家の所有する森はおよその方角しか知らないが、こんな速さで走ったらもう会場に到着していなければおかしい。
「馬で一時間」というのは「馬を歩かせて一時間」だとうことぐらいの知識はある。
そして何よりおかしいと思ったのは、さっきから背後の護衛たちの馬の音がしなくなっているのだ。緩いカーブのところで背後を確認しようとしたら、後ろに座っている男が腕の内側でグイとアビーの頭を押すようにして背後を振り向かせなかった。
(伯爵家の妻に対して、使用人がこんなことをする? 護衛たちの馬の足音が消えたのはなぜ?)
知らせを受けてからずっと頭の中でなり続けていたキーンという音が止まった。恐怖に支配されそうになったが、恐慌をきたすだいぶ手前で平常心を取り戻すことができた。
この使用人たちは敵が送ってきたのでは?
だとしたら自分はどう振舞えばいい?
今暴れて馬から落ちたら、下手をすると骨折して動けなくなる。
それならどこかに運び込まれるまで大人しくしているべきだ。
大丈夫。私はあのときの私じゃない。ガス先生に学んで、毎日毎日練習してきた。
恐れるなアビー。九年前の失敗を繰り返すな。落ちつけ。
『いいかい、相手を油断させる。無能を装う。勝負は一発で決める。ためらいは無しだ』
ガス先生がくりかえし言っていたではないか。伝説の傭兵を信じて実行するのみ。
アビーは前を向いて馬に身を任せた。
※・・・※・・・※
馬をかなりの速度で走らせて一時間は過ぎただろうか。
やっと小さな集落の外れにある猟師小屋のような建物に到着した。
「さあ奥様、着きましたよ」
「夫はどこです? ここはキツネ狩りの会場ではありませんよね?」
「あぁ、さすがに気づきますよね」
「ここまでよく大人しく馬に乗ってたもんだよ、ふふふ」
気色ばんで見せるアビーを見下ろして、二人の男の口調が下卑たものに変わり、嫌な笑い方をした。
「そんな、私を誘拐したのですか!」
「そうだねえ」
素早く部屋の中にある「使えそうなもの」を探す。
かまどの火かき棒、簡素な木の椅子、椅子にかけられたボロ布、台所の欠けた皿、テーブルの上のランプ。そのくらいか。包丁やナイフは見当たらない。
「逃げようとしたら顔に傷を作りますよ。一度なら頬をザックリ、二度逃げ出そうとしたら両頬をザックリってね」
「やめてっ!」
「面倒だから縛って転がしておくか」
「そうだな」
アビーは自分の身体を抱きしめるようにして後退る。さりげなくうしろ向きに椅子に近寄り、椅子の背もたれの枠を握る。
黒髪の男が腰から細い縄を取り出してアビーに近寄った。
(まだ、まだよ、あと少し)
アビーは椅子を蹴り飛ばして相手にぶつけられる範囲に男が入るのを待った。
(今!)
椅子を傾け、一本の脚で立たせてから全力で背もたれを蹴る。椅子は狙いを違わず男のスネを直撃した。
「いってえ!」
骨を直撃された痛みに、思わず男がスネに手をやろうとした瞬間に動いた。男の横顔にランプを叩きつける。ガラスのほやが割れて破片が散らばった。
「なにしやがる!」
そう言って掴みかかってくるのを避けて股間を全力で蹴る。
声も出せずに倒れた男から目を離し、ランプのガラスを手に取って構えた。指先の力加減がうまくいかず、アビーの手が切れたが、極限まで興奮しているせいか痛みを感じなかった。
茶髪の男がナイフを取り出した。
相棒の心配よりアビーに対処する方を選んだのは、アビーの動きが普通の貴族夫人の動きではないからだろう。
互いに相手の動きを見ながら、男はじりじりと詰め寄ってくる。
アビーはガラスの破片を捨て、もう一脚にかけてあったボロ布を手に取った。切れた右手に布の端を巻きながら腰を落として姿勢を低くする。
低い姿勢で台所にじりじり移動し、皿に手をかけた。
男が突進してきた。そのタイミングを狙い、男の顔を目がけて皿を投げる。皿は、突進した男の鼻に激しくぶつかった。
「ガッ」
奇妙な声をあげて顔を押さえた男の脇をすり抜けようとした。しかし男の立ち直りが予想外に早く、アビーは腕をつかまれた。
(しまった!)
男が怒りに任せてアビーの顔を拳で殴った。
殴られた勢いで斜め後ろにアビーの身体が吹っ飛んだ。
「なんだこいつ。くっそー、鼻の骨が折れたじゃねえか。ぶっ殺してやる!」
倒れているアビーに男が近寄り、アビーの腕をつかんで乱暴に引き起こそうとした瞬間だ。跳ね起きたアビーは男の腕につかまってグイッと勢いをつけて起き上がる。
そのまま右手に巻いていたボロ布を男の首に回して背中に回り、左手で布の反対側の端を握って体重をかけてぶら下がった。
いきなり首が締まった男は背中のアビーを振り落とそうとするが、アビーは布の両端をつかんだままぶら下がって離れない。
両脇を締め、男の首にかけた布に全体重をかけたまま、意地でも布を離さなかった。
アビーを振り落とそうとした男がよろめいて、膝をついた。アビーの足が床に着いて、体重をかけにくくなった。
(逃げよう!)
布を手離してドアから外に走り出した。
背後からは咳き込みながら追いかけてくる男の足音が聞こえる。





