40 狩り当日
年が明けた一月の下旬。キンと冷えた空気と澄んだ青空の広がる朝だった。
いよいよ狩りの日がやってきた。
アビーは前の晩、一睡もできなかった。
ギルバートが追い詰めている相手には、どれくらい仲間がいるのだろう。
彼がいくら剣に優れていると言っても多勢に無勢だったらどうするのか。
本当に陛下は旦那様の味方をしてくれるのか。
そんなことを考えていたから何日も前からあまり眠れなかった。だから眠るのは諦めて、ギルバートの無事を祈る刺繍を始めた。
刺繍に集中している間は不安を忘れられる。
ランプの灯りの下で、アビーは毎晩のように刺繍をしている。
刺繍の図案は不死鳥。長い年月を生き、年老いると自ら燃えて灰になり、その灰の中から再生すると言われる不死鳥に「生き延びてほしい」という願いを込めて糸を刺した。不死鳥の目をギルバートと同じ色合いの青にした。
鹿狩りの二日前に不死鳥の刺繍は完成した。
当日の朝、階下から使用人たちが働き始める音が聞こえてきた。
アビーは刺繍したハンカチを手に、食堂へ向かった。そこにはもう乗馬服に着替えを済ませたギルバートが座っていて、アビーが現れたのを見て立ち上がって近づいて来る。
乗馬服姿のギルバートは普段から長い手足が一層長く見え、鍛えられた分厚い胸がいかにも強そうだ。
「どうした。夜が明けたばかりだぞ? 目が真っ赤だな。寝てないのか」
「旦那様、これを」
ギルバートの問いには答えずに刺繍をしたハンカチを差し出すと、ギルバートは受け取ったハンカチを広げて柄を見つめる。そしてアビーを抱きしめて顔を近づけ、耳元で囁いた。
「こんなに可愛い妻が待っているんだ。無事に帰って来るに決まってるだろう。安心して待っていればいい。全てを片付けたら、君に話したいことがたくさんある」
それだけを言うと、ギルバートは席に戻った。
アビーも自分の席に着き、キャシーが運んで来た朝食に向かうが、食欲がない。そこにノックの音がして、テッドが入ってきた。驚いて立ち上がるアビーをチラリと見たが、テッドはギルバートに一礼をして耳元で何かを報告した。それからギルバートに促されてテッドがアビーの方を向いた。
「テッド! この家で働いているというのに、なかなか会えなくて心配していたのよ」
「アビー、久しぶりだな。いや、奥様と言わなくちゃならなかった。ごめん」
「そんなの……」
「俺はギルバート様のご指示で働いていたんだ。俺、やっと貸しを回収できそうだ」
「貸しって?」
「それは、全部終わったら話すよ」
テッドまで自分には何も言う気がないらしいと少々腹を立てながらも、アビーはギルバートの大切な日の朝に言い争いをしたくなくて黙って引き下がった
「テッド、よくやった」
テッドは再び一礼し、去り際にアビーに「心配しなくても大丈夫だよ」とだけ言う。退室間際、テッドはドアのところで振り返ってチラリとキャシーに目を向けた。その視線に親密さが込められている気がして、アビーもキャシーを見た。キャシーはテッドを見ていたが、アビーの視線に気づくと頬をほんのり赤くして下を向いた。
(テッドとキャシーは親しいのね)と察して朝食のナイフとフォークを使いながらも顔がほころんでしまう。
そのアビーをギルバートが見ていることにアビーは気づかない。
やがて出発の時間が来た。
会場は家から馬で一時間ほどの場所にある広大な王家所有の森だ。
ギルバートはアビーに「安心して待っていなさい。今日はオルトも連れて行くから、君は家にいるんだよ」と念を押す。
「はい、旦那様。どうかご無事で」
「大丈夫だ。では行ってくる」
ギルバートはオルトと警護の男たちを連れて出かけた。その堂々とした後ろ姿を見送りながら、アビーは胸に手を当ててギルバートの無事を祈る。
ギルバートもオルトもテッドさえもアビーには何も教えてくれないが、今日、狩りの会場でギルバートが調べ続けてきたことに決着をつけようとしていることだけはわかっている。
(どうか、どうか、無事に帰って来ますように)
そう祈りながら部屋に戻った。一人になると不安に押しつぶされそうになるから、いつものように刺繍に専念することにした。旦那様は夜には帰ってくる。それまで刺繍に夢中になっていれば、時間は早く過ぎてくれる。
そう思いながら刺繍道具を取り出して、図案を考えた。
「この家に嫁いで出て行くまで二年。五月から始まって四月で終わるのね。その思い出を刺繍で残したい。いつかおばあさんになったときに、『私にはこんな日々があった。とても幸せな二年間だった』と懐かしめるよう、思い出を刺繍に残したい」
そう決めたら次々に図案が思い浮かんできた。
結婚式を挙げた教会のステンドグラス。
陛下と王妃様に拝謁した場面。
初夏の庭を飾ってくれたツリーポピーの花。
涙が出るまで笑った歌劇場。
旦那様のために編んだ青いマフラー。
新年に送られた金とエメラルドのネックレス。
甘く濃厚な新年の焼き菓子。
ギルバートの膝に乗せられて眺めた図鑑。
「こんなにある。楽しくて充実した日々だわ」
布に下絵を描きながら胸が温かくなる。
打算で結婚したけれど、今ではギルバートへの想いも日々大きくなっている。どこにも誰にも打ち明けるわけにいかない心の内を刺繍に込めて残そう、と思う。
「全てはあの日、何も考えずに道案内をしたことから始まるのね」
道案内をして、さらわれて、焼き印を押された。
テッドに助けられ、そのテッドを助けようとしてギルバートと出会った。
アビーは服の上からそっと腰を指先で触る。醜い焼き印がある辺り。自分の人生に強引に幕を閉じさせたはずの焼き印が、こうして幸せな時間につながった。
「ずっと不運で不幸な人生だと思っていたのに、一転して幸せな人生になった。二年間だけでも、私がこんなにも素敵な時間を過ごせるなんて」
幸せを手放したくない、ここを去りたくない、という気持ちは飲み込んだ。





