38 新年祝いの焼き菓子
新しい年が明けた。
ここエンフィールド王国では新年の祝いを平民も貴族もご馳走で祝う。
冬の折り返し地点をテーブルいっぱいのご馳走と酒で祝うのだ。イーガン伯爵家でも例年そうしてきていたが、今年は少しいつもと違うことがある。焼き菓子が充実しているのだ。
王妃のお茶会のあと、ギルバートは根掘り葉掘りアビーに質問をした。
「不愉快なことは言われなかったか」
「周囲にいる女たちに突き飛ばされなかったか」
「足払いをかけられなかったか」
いつものようにギルバートはアビーを膝に乗せて抱え込み、顔を覗き込むようにして尋ねた。
その質問がなんとも的外れで、アビーはギルバートが可愛くさえ思える。
そういうアビーも引きこもりがちな人生を送ってきたので、貴族女性の陰湿さを体験したことはなく、女性同士の意地悪の知識は全て恋愛小説からの受け売りだ。
「大丈夫でしたよ。王妃様は穏やかでおっとりしていてお優しかったです」
「パトリシアが? そんなはずはない。あれはなかなかに計算高い女で」
言いかけたギルバートの口を人差し指で押さえて、アビーは楽しく笑った。
「いろいろ言われましたけれど、」
「言われたのか! 何を言われた」
「いえ、どうってことのない会話ばかりでしたからご安心を。計算高さと腹黒さでは私のほうが上でした」
「君は計算高くなどないだろう」
「ふふ。あ、ひとつだけ『確かに』と思うことはありました」
「なんだ。教えなさい」
「『ギルバートの屋敷では、こんな美味しいお菓子なんて味わえないでしょう?』と言われながら食べた焼き菓子は、本当に素晴らしく美味しかったです。レシピを教えてもらえるなら私も焼いてみたいと思いました。南部から取り寄せたナッツのクリームとやらを使っているそうで、濃厚でサクッとふわっとしていてそれはもう、うっとりするようなお味でした」
「ふうん」
ギルバートの返事に何やら不穏な気配があったが、話はそこで終わった。
「もうお膝から降りてもいいでしょうか。私、実家に手紙を書こうかと」とアビーが言ったがなかなか許可が出ない。何か考えている風のギルバートがアビーを解放したのはずいぶん時間が経ってからだった。
アビーはその会話をすっかり忘れて新年を迎えたのだが、祝いの席に出された焼き菓子に驚いた。王妃のお茶会で出されたものと見た目も味もほぼ同じだったのだ。
※・・・※・・・※
アビーが緑の目をキラキラさせて「王妃様のお茶会で出た焼き菓子が素晴らしく美味しかった」「ギルバートの屋敷ではこんな菓子は出ないだろうと馬鹿にされた」と言ったのをギルバートは腹立たしく聞いていた。
ちなみにアビーは「馬鹿にされた」などとは言っていないのだが、ギルバートの脳内ではそう変換されていたのである。そして変換の結果はほぼ当たりだ。
「パトリシアはプライドの高い女性だった。早く結婚したくて俺に何度も『自分に思いを寄せている令息がいる』とライバルの存在をにおわせるような人だった。アビゲイルを呼び寄せてただ楽しくお茶を飲むはずがない。さぞやネチネチとアビゲイルが不快に思うことを言ったに違いない」
そう案じていたのだが、妻は思いのほか元気に帰ってきた。
空元気を装っているのではないかとあれこれ尋ねたが、本当にたいしたことはなかったようだった。そのアビゲイルが焼き菓子のことだけは羨ましそうに語っていたのが、妙にギルバートの心を波立たせた。
ギルバートはすぐに料理長に話を持っていった。
「王妃のお茶会に出された焼き菓子が美味しかったらしいんだが、どうにかしてそのレシピを手に入れられるかい? アビゲイルはその菓子を食べられたことがずいぶん嬉しかったようなんだ。それに、この家の菓子を馬鹿にされたらしくてね」
それを聞いた料理長がムッとしたのは言うまでもない。
「ご主人様、なんとかいたします。おそらく秘伝のレシピでしょう。それは教えてはもらえないでしょうが、南部から取り寄せたナッツのクリームというヒントがあるのですから。焼いてみます」
そこから料理長はキャシーに「王宮で出された焼き菓子のことを奥様に詳しく聞いて来てくれ」と頼み、キャシーが何度も焼き菓子のことを話題にし、アビーもうっとりしながら思い出して説明した。
その結果が新年の祝いの菓子である。
料理長は(焼き菓子の反応はいかに!)と気になりすぎて食堂の前までやってきた。給仕をしているオルトに
「で、どうでした? 奥様は焼き菓子を召し上がったんですか?」
と詰め寄った。事情を知らないオルトは驚いたが
「奥様はとても喜んでいらっしゃったよ。王宮の焼き菓子に見た目も味もそっくりだとおっしゃってた」
と教え、料理長は「よし! よしよしよし!」と大変に満足して調理場へと下がって行った。
新年の祝いの夕食のあと、アビーはいつものようにギルバートの膝に乗せられた。
「お菓子が美味しかったです。他の料理も全部美味しくて。ありがとうございます、旦那様」
「そうか。気に入ったのならよかった。料理長にもそう伝えておこう。それでアビゲイル、俺から新年の贈り物がある。君にはマフラーを編んでもらったから、そのお礼だ」
そう言ってギルバートは内ポケットから無造作に薄い小箱を取り出した。
「大仰に包もうとしたからそれは断った。君の瞳と同じ色がいいだろうと思ったんだが」
「まあ。なんでしょう」
笑顔になって箱を開けたアビーは中身を見て動きを止めた。小箱の中身は華奢なネックレスだった。金の細い鎖に小ぶりな緑色のエメラルドが五つ配置されている。留め金のところにはギルバートの瞳と同じブルーサファイアがひとつ。
「こんな高価なネックレス、いただいてよろしいんですか? 私が贈ったのは毛糸のマフラーなのに」
「あのマフラーは温かい」
「旦那様、なんてお礼を言ったらいいのでしょう。とても、とても嬉しいです。私、一生こんなことはないんだろうと思ってましたのに」
「この程度の物で大げさだ」
「いいえ。私、こんなにしてもらうこと、きっとないと、」
「泣くな。どれ、つけてやろう」
ギルバートがネックレスの金具をカチリとはめてから少し上半身を離し、アビーを眺める。
「ああ、よく似合う」
「ありがとうございます! 嬉しいです」
「泣くなと言っているだろうが」
「そうですね。嬉しいんですもの、笑わなきゃ」
そう言いながらアビーはギルバートの胸におでこをくっつけ、しばらくの間嬉し泣きした。
「今までで一番嬉しい新年です」
「そうか」
窓の外は降り始めた雪が少しずつ庭を白く染めている。
部屋の中は暖炉の炎が優しい色に染めている。
アビーは(こんなに温かくて幸せな新年のことを一生覚えていよう)と思った。
※・・・※・・・※
ナッツクリームを練り込んだ焼き菓子はその後大量に焼かれ、使用人一同にも新年の祝いの品として配られた。もちろん命じたのはギルバートである。
使用人たちは「このお屋敷でこんなこと今まであったか?」「ないよ。奥様の影響かな」「旦那様は奥様にべた惚れだからな」と噂し合ったが、それをギルバートは知らない。





