34 ギルバート、情報を得る
十二月になった。
伯爵邸の庭の広葉樹は葉を落とし、冬景色になった。
アビーは今もガスの授業を週に三回ずつ受け続けている。
「アビゲイル、今日もガスのところへ行くのか」
「はい。申し訳ございません」
「謝るな。怒っているわけではない。だが年末に週に三度も家を出るのは不用心だ。今後はうちに来てもらえ。迎えの馬車を出そう。俺も伝説の傭兵とやらの腕前を見てみたい」
「屋敷に呼んでもいいのですか! ありがとうございます!」
「君は、俺がどうしても護身術はだめだと言ったら、本当に離婚して出て行くつもりだったのか?」
「……はい」
「離婚は認めないと何度言ったらわかるのやら。二年間は君は私の妻だということを忘れないように」
「……はい」
ギルバートはそう言うと立ち去り際にギュッと一瞬だけアビーを抱きしめてから立ち去った。
ガスを迎えに行く馬車が来るまで、アビーは夫の言葉と態度を繰り返し考えてた。
ギルバートは「二年間は」と言っていた。
(そうね。最初からその約束だものね。私はそれ以上の何を期待してるのかしら。馬鹿みたい。でも二年後に離婚するつもりなら、なぜあんなことをするのかしら)
ギュッと抱きしめてくれたギルバートからは愛情を感じたのだが。
「もう、私を惑わさないでほしいのに」
やがて馬車が戻ってきて、玄関でガスとギルバートが話をしている。
ガスは伯爵である夫の前でもオドオドせず、高い位置にあるギルバートの顔を堂々と見上げながら会話していた。
「アビゲイル、君の授業を少し見学させてもらうよ」
「本気だったのですか!」
「なんだ、見られたくないのか」
「ええ、それはまあ」
口ごもるアビーを見てガスが笑う。
「奥様、いいじゃないですか。どれだけ動けるようになったか、伯爵様に見てもらえばいいですよ」
「でも」
「ガスの許可は出たんだ。では見学するよ」
「ううう。見られたくないのに。みっともない顔をしても笑わないでくださいね」
「それは、約束できないな」
「そんなっ」
ガスは苦笑し、アビーはギルバートの存在を意識から振り払いながら訓練を始めた。
それから小一時間が過ぎた。
アビーとガスの二人は汗だくで、アビーは両膝に手をついて「はぁっ、はぁっ」と荒い息。師匠のガスも額から汗を滴らせ、シャツの背中は汗で色が変わっている。
見ていたギルバートは驚きっぱなしだ。
まさか妻がここまで激しい訓練をしているとは思ってもいなかった。
アビーが訓練についていけていることも、身に付けた技術も想定外だった。
アビーが習っているのは軍では絶対に習わないような技術ばかりで、はっきり言えば『姑息で卑怯』なものが多い。なるほど確かに「傭兵は生き延びて金を稼ぎ続けてこそ」とガスが言っていただけのことはあった。
「どうです、伯爵様。奥様は私の弟子の中では一番身体が小さくて筋肉もない生徒ですが、これほどまでにやる気のある生徒も稀ですよ。なかなかのものでございます」
「ああ、驚いた。これなら街のごろつきに襲われても、なんとか逃げ出すくらいはできるかもしれないな。あっ、いや、ごろつきに襲われるような一人歩きはだめだぞ、アビゲイル」
アビーはまさか褒められるとは思っていなかったので、嬉しさのあまりにパアッと顔が明るくなった。
「ありがとうございます、旦那様。嬉しいです!」
「庭を走っているな、とは思っていたが、短期間によくここまで体力をつけられた」
「頑張りましたから」
ギルバートはスッと近寄ってアビーの頭を撫でる、と見せかけて左腕をねじり上げようとした。いろいろ教わっていた授業の最後にその練習を繰り返していたからだ。
アビーは、迷うことなく素早く身体を回転して、逆にギルバートの腕をねじる態勢になった。関節を傷めたくなければ、ギルバートは手を離さなければならない。
「ほほう、なるほど。しっかりと身についているようだ」
「申し訳ございません、腕は大丈夫でしたか?」
「ああ、大丈夫だ。では私は失礼する」
楽し気な顔で庭の鍛錬場を離れ、書斎に入ったギルバートは、机の上の封書を次々と開封し、中身を読む。その顔はどんどん険しくなっていく。
手紙にはクロスボウの毒矢に関しての情報が書いてあった。
『クロスボウの申し込みをした男に指示を与えていた人物はザハー王国風の訛りがあった』
『ザハー王国訛りの男の外見が、エドモンズ侯爵家の護衛とよく似ている』
『エドモンズ侯爵の護衛には母親がザハー王国出身の者がいる』
という情報が書かれていた。
どれも偶然と言われればそれまでの、弱い証拠だ。
そしてエドモンズ侯爵は宰相デクスターと親密だ。もし宰相がエドモンズ侯爵の悪だくみに手を貸しているとしたら、この件を追って失敗すればおそらくギルバートは無事では済まない。
「クロスボウ事件の背後には頭の回るやつがいるのだろう、とは思っていたが。もしこの報告が真実なら、中途半端な証拠では揉み消される。そして俺が反撃されるだろう。アビゲイルをどうするか。いっそ離婚したほうが安全だろうか」
そこまでつぶやいて、ギルバートは左の肘を机について、指先を額に当て、目を閉じる。
アビーを手離したくない。
だが、アビーを妻の座に置いておけば彼女を危険に巻き込みかねない。自分を恨み憎む者が、アビーを利用してギルバートに脅しをかけるかもしれない。
「それにしても、九年前の誘拐事件の情報は出てこないか」
そこでさっきのガスを思い出した。
「オルト。アビゲイルのレッスンが終わったら、ガスをここに呼んでくれ」
「かしこまりました」
やがてガスが、ギルバートの書斎にやってきた。
「疲れているのにすまないね」
「私はそれほど疲れていませんよ。奥様はへとへとでしょうが。それで、伯爵様のご用事とは、なんでございますか」
「あなたに聞きたいことがあるんだ。この国の平民の少女誘拐事件のことだ」
愛想の良い表情だったガスの顔が曇る。
「伯爵様、それは相当危険な話です」
「何か知ってるのか? その情報に金を払う。知っていることを全て教えてほしい」
「やたらに金回りのいい人間が裏にいるってことぐらいです。そして、どうやらそれが高位貴族らしいってことは、裏社会に深く通じている人間なら知ってる話ですよ。私はそれ以上は知りません。これは報酬をいただくほどの情報じゃありません」
ギルバートとガスが無言で見つめ合う。
「伯爵様、この話はかなり危ない。おやめになったほうがよろしいですよ」
「だが、誰かがなんとかしなければ。何の罪もない少女がさらわれ続けているんだ」
「伯爵様にはさらわれるような娘さんがいらっしゃらない。王都はご自分の領地でもない。それでもですか?」
「ああ。それでもだ」
少し迷ってから、ガスが口を開いた。
「伯爵様、この話、警備隊が動いても犯人は捕まりません。いつもうやむやで終わります。『平民の少女がさらわれた、またか』それで終わりですよ。そして不思議なことに、犯人の糸口をつかんだらしい人間は、いつの間にか事故死しているんです。その犯人もまた、捕まりません」
「いつからだ」
「私が知ってる限り、少女誘拐は二十年前からです。私が知っているのはそこまでです」
そのあとも二人は話し込み、かなりの時間が過ぎてからガスは帰って行った。しばらく考えていたギルバートは、読み終わった手紙全部に火をつけてから暖炉に放った。
「そうか、二十年前からだったか。警備隊が手を出せないなら、俺が始末してやるさ。アビゲイルにあんなことをした報いは必ず受けさせてやる」





