32 オルト
サマーの家から伯爵邸に戻り、オルトは自分に任されている書類に目を通そうとした。
だが、目が文字の上を滑って頭に入らない。
何度も最初から読み直すが、最後は諦めて書類を机に置いた。
(悪い奴に誘拐されそうになったって、それ、普通、貴族の女性は口が裂けても人に言わないものなのでは? 奥様はそれをあっさり俺に話すなんて。話のきっかけを作ったのは俺だけど、そんなことを他人に聞かれたら、ギルバート様の名誉に傷がつくのに)
オルトはアビーの不用心な言葉に動揺していた。
窓ガラスに体当たりしようとしたことも受け入れがたい。
あの老人がいくら腕のある傭兵でも、あそこまでして護身術など学ばなくてもいいだろうと思う。自分もいるし護衛もいる。何より剣豪のギルバート様がいらっしゃるではないか。
なのにあそこまでして護身術を習いたいだなんて、わがままだと思った。
そこまで考えてからオルトは、自分がギルバートを一生支えようと決意した日のことを思い出した。
※・・・※・・・※
八年前。戦争は、隣国ザハー王国が戦争開始の宣言もなく攻め入って来た日から始まった。
我が国、エンフィールド王国の軍隊は大きく強い。
隣国の軍隊の集結と移動の情報も手に入れていた。
それでも戦争が始まってみれば、多くの国境警備兵が戦死し、ギルバートとオルトが所属していた王都軍が戦場に到着した時、そこは雄叫びなど存在せず、剣と剣のぶつかりあう金属音と重傷を負った者の呻き声が聞こえる静かな戦場だった。
すぐに王都軍は敵の軍隊に突入した。
あちこちで歩兵同士の戦闘が始まり、気が付いたらオルトは周囲を二十人以上の敵兵に囲まれていた。
(俺は死ぬんだな)と思いながらも、ありったけの力で敵と渡り合った。
しかし多勢に無勢でじりじりと自分を囲む敵の輪が小さくなり、(もはやこれまでか)と諦めかけた時にギルバートが駆けつけてくれた。
味方は皆オルトの救出を諦め、少し離れた場所で陣形を作っていた。なのにギルバートはそこから走って抜け出し、敵の中に突っ込んで来たのだ。
ギルバートは自分も血まみれになる大怪我をしながら、オルトを救い出してくれた。
結果、ギルバートは戦争の英雄になり、その後に続いた内戦でも捨て身の戦いぶりでその名が知れ渡った。
オルトはあの日以来、ギルバートに心酔している。
命の恩人というだけではない。
救いを求めて仲間たちに視線を向けたとき、普段親しかった軍の仲間たち皆が自分を諦めて見捨てたのを肌で感じ取った。
なのにそれまで何の付き合いもなかったギルバートが助けてくれたことが忘れられない。
戦争も内戦も終わり、ギルバートが伯爵位を与えられた。執事と使用人を探していると聞いたときは何が何でも自分が、と志願した。ギルバートの役に立てるなら、こんな嬉しいことはないと思った。
その主が妻に迎えた女性だから、二年間だけの奥様であっても、自分もアビゲイル様を大切にお守りしようと思ってきた。
結婚後、ギルバート様が穏やかな笑顔を浮かべるようになり、人間らしい感情を見せるようになったのは奥様のおかげだろうと喜んでいた。
だから(ギルバート様はいい女性と巡り会えた)と思っていたのに、奥様は自分の意見が通らなければ離婚も辞さないという。
(ギルバート様ならいくらだってもっと控え目で身分の高い令嬢を迎えられたのに。奥様はもっとギルバート様に感謝してもいいのではないだろうか)と思う。
オルトは夜遅くに帰宅したギルバートに、今日のことを事細かに報告した。
ギルバートは無言のまま難しい顔をして聞いていたが、最後にオルトが
「悪漢に連れ去られたことを口軽くお話しになるのは、あまりに不用心だと思いました。ギルバート様が二年と期限を切って結婚なさったのは、賢明なご判断でした」
と言った瞬間にテーブルをバン!と手で叩いた。
「オルト、アビゲイルはお前を信じたんだよ。だから親にも隠し続けた秘密を話したんだ。そんなこともわからないのか。彼女は情の深い、辛抱強い、賢い人だ。彼女を貶める発言は二度とするな。今度そんなことを言ったら執事は辞めてもらう!」
「申し訳ございませんでしたっ!」
慌てて頭を下げたが、ギルバートは寝室へと足早に去ってしまった。
ギルバートが自分に声を荒げたのは初めてのことで、オルトは自分が大失敗したことを悟った。
オルトは知らなかったが、少しずつアビーに心を動かされていたギルバートは、アビーの秘密を知った日から『全力でアビゲイルを守りたい』と大きく変わっていた。
「あそこまで奥様のことを大切に思っていらっしゃったとは」
オルトはギルバートの怒りを見て深く反省し、考えを改めた。
翌日以降、アビーは今まで以上にオルトが丁寧に親身になって接してくるようになったことに戸惑った。
今までも礼儀正しい執事だとは思っていたが、ギルバートへの態度と自分への態度に若干の違いを感じていて、でも『それは当然のこと』くらいに思っていた。
それが最近は以前よりも丁重に、ギルバートに接するのと変わらないくらい丁寧に扱われている。
不思議に思ってオルトに「なにかあったの? 最近、私への態度が変わった気がするのだけど」と尋ねても、オルトは「いえ。なにもございません。執事として当然の仕事をしているだけでございます」と答えるだけだった。





