31 合格
「私が剣を持ってたら振り下ろされて終わりですな。夫人、さあ、どうする」
机に飛び乗ったガスが、アビーに無表情に話しかける。
アビーは目をガスにピタリと向けたまま、机の上を手探りする。ガラスのペーパーウエイトに指先が触れる。躊躇なくそれを握ってガスの顔に向かって投げた。
それをパシッと払い、ガスが飛び下りる。
飛び下りた先は、さっきまでアビーがいた場所だ。アビーはとっさに飛びのき、振り向かずに部屋を走った。ドアを目指そうとするが、ガスがドアの前へと先回りする。
方向を変え、アビーは窓に向かった。
本気でガラスを突き破って外に出ようと思った。(あとで弁償する!)と思いながら。
しかし、窓ガラスに突き当たる少し手前で、オルトがアビーを受け止めた。オルトの背中がバン!とガラス窓にぶつかったが、幸いガラスは割れなかった。
「おいっ!」
ガスが大きな声を出した。アビーが荒い呼吸をしながらオルトを見上げる。アビーを受け止めたまま、オルトの顔が怖い。
「夫人! 無茶をしないでくださいよ。俺がサマーに怒られちまう!」
「す、すみません。どうしてもガスさんのご指導を受けたくて」
「ったく、冷や汗をかいた」
「奥様、窓に激突してお怪我をされたら、私がギルバート様に激怒されます。こんなことは二度とおやめください」
「ですよね。ごめんなさい、ガスさん、オルトさん」
「ひとつ言っておきます。あの程度の勢いじゃ、ガラスは割れても桟は壊れない。ガラスで怪我をして終わりですよ、夫人」
「そうですか。考えが足りませんでした。申し訳ありません」
そのあとは三人で片付けに集中した。
黙々と床に散らばっている小物を拾い集め、倒されたソファーを起こし、その辺にぶん投げた引き出しを元に戻す。手を動かしながら、アビーはガスを見る。
「それで、ガスさん、私は合格でしょうか」
「そうだな、覚悟は十分と見た」
「では!」
「ああ、合格だ。明日からいつでもあんたの都合に合わせて護身術を教えよう」
「ありがとうございます! 私、頑張りますので」
ドアがそっと開けられ、サマーが顔をのぞかせた。
「父さん、終わったの?」
「ああ、終わった」
「それで、どうだったのかしら」
「サマー、伯爵夫人は、とんでもないじゃじゃ馬夫人だぞ」
「父さんたら! 失礼なこと言わないで!」
「いいんですよ、サマーさん。私にとっては誉め言葉です」
アビーとオルトは、恐縮するサマーと無表情なガスに見送られて馬車に乗った。
※・・・※・・・※
「奥様、今日のことはギルバート様にご報告しなければなりません」
「ええ。報告してください。それで旦那様が激怒なさったら、それはもう仕方がないわ」
少し間が空いて、オルトが執事ではない表情になった。
「奥様、私はギルバート様と同時期に軍の養成学校に入りました。戦争中のことがきっかけで、私はギルバート様をお支えすることを人生の目標にしているんです。その旦那様が嫌がることを奥様がなさる理由を教えていただけますか」
アビーは、窓ガラスに体当たりしようとした時からずっと、そう聞かれるのではと覚悟していた。
「オルトは軍隊時代から旦那様と一緒なのね。ねえオルト、私が強くなりたいと思うことは悪いことですか?」
「奥様が強くならずとも、私やギルバート様がいるではありませんか」
「それじゃだめなの」
「どうしてです?」
オルトの胸のあたりに視線を置いて話をしていたアビーは、自分の膝の上に置いた両手に視線を動かし、オルトの問いに答える。
「私もそう思っていました。私のような小柄な女には、反撃も無理、逃げることも無理って。具体的にそういう考えを持っていたわけじゃないけれど、その考えは、私の髪の一本一本、身体を流れる血の一滴一滴に染み込んでいたの。その結果、道を尋ねてきた人の好さそうな男性に、馬鹿丁寧に道案内をしたわ」
オルトは早くも話の結末に気がつき、(これは使用人が聞いていい話じゃない)と慌ててアビーを止めようとした。
「奥様、結構です、それ以上は」
「全てを話すつもりはないから安心して。それこそ旦那様のお許しが必要な話だから。私に道案内を頼んだ男は、人が少ない場所まで来たら、私の鼻と口を押さえて、私を抱えて……」
「奥様、どうぞやめてください。私が出過ぎたことを申しました。お許しください」
アビーは口を閉じた。
「ああ、誤解のないように言っておきますけど、純潔を奪われたりはしていないわよ。それはイーガン伯爵家の名誉のために言っておくわね」
「さようでございますか。安心いたしました」
「私ね、この件に関しては譲る気はないの。私は、弱い女のままでいてはいけないの。護身術を習うためなら、どんなことも受け入れる覚悟です」
そのあと、アビーとオルトは無言のまま屋敷に向かった。





