30 伝説の傭兵ガス
翌日の朝、アビーはギルバートに正直に事情を説明した。
「サマーさんのところで化粧品の開発の打ち合わせをしてきます」
「そうか。オルトか護衛を必ず連れて行くように」
「はい。それから、そのあとでサマーさんのお父様に護身術を習いたいと思っています」
「アビゲイル、その件についてはやめるよう言ったはずだ」
「どうしてもだめだとおっしゃるなら、どうか離婚してください。これは私が自分を恥じずに生きるために、必要なことなんです」
ギルバートは離婚話まで出して抵抗するアビーに驚いた。しばらく無言でアビーを見ていたが、アビーの顔は決意を翻しそうにない。
「そうか。では好きにしなさい。必ず護衛を連れていくこと。それから、離婚は認めない」
それだけを言って、ギルバートは朝食が終わるとすぐに食堂から出てしまった。
その背中を見ながらアビーは申し訳ないと思いながらも、許可が出たことにほっとした。
「旦那様の背中が怒ってらっしゃったわね、キャシー」
「奥様、あのようなことをおっしゃって、大丈夫でございますか?」
「大丈夫かどうかは私にもわからない。でも、これは避けてはいけないことなの」
「さようでございますか」
困り顔のキャシー、呆れ顔のオルトに何も言わず、アビーは粛々と出かける準備をした。
今日はオルトが同行して馬車に乗り込んだ。
ギルバートにガスの指導がどんなものかを報告するためらしい。
※・・・※・・・※
「奥様、許可は出ましたか?」
「一応、旦那様の許可はいただいたわ」
「よろしゅうございました! 父は隣室で待っております。あの、父は変人ですけれど、腕は確かでございますので、どうぞ思う存分父を使ってくださいませ」
隣室で待っていたのは五十代半ばの、小柄で短い髪の男性だった。
「ガス、と呼んでください、奥様」
「よろしくお願いします、アビゲイルです」
「奥様、サマーからは『どんな手を使ってでも悪漢から逃げ出す方法を学びたい』と聞いてます。俺は汚い手を使いますが、その覚悟はおありで?」
「はい。ございます」
「やる気と見込みがなかったら、すぐに終わりにさせてもらいますよ。謝礼金目当てでおざなりのことを教えたら、逆に危なくなるんでね」
「覚悟して頑張ります」
二人のやり取りを、オルトは無表情に壁際で眺めている。馬車内で聞いた話では「旦那様にしっかり見学してこいと言われております」とのことだが、まあ、あんまりなことだったら止めに入るつもりだろう、とアビーは思っている。
「夫人、失礼ながら、その体格だと今から鍛えたところで力でやり合うのは無理です。腕が短いから、先に男に殴られるか捕まります。だが小柄なことは相手の油断を誘う。夫人は道具を使ったほうがいい」
「短剣とか、でしょうか」
「いんや。短剣は使いこなすのに時間がかかる。まずはその場その場で身の回りにある物を使って抵抗する方法です」
ガスはオルトに目を向けた。
「あんた、ちっとは心得がありそうだ。私の相手をしてくれるかい?」
「怪我をさせないよう、気をつけます」
「ふん。自信たっぷりだな。じゃあ、ちょっと待ってくれよ」
ガスは室内の花瓶、飾り皿などを手早く集めて廊下に避難させた。アビーは部屋の隅にいるように言われ、しかも大きなクッションを身体の前に抱えて見学するように指示される。
「だいじな物を壊しちまうとサマーに怒られるんでね。さあ、あんた」
「オルトと申します」
「オルトさん、私を捕まえてみなさい」
「そうですか? では遠慮なく」
オルトはテーブルの反対側にいるガスを捕まえようと周り込むが、ガスはテーブルの下に潜ったりテーブルを回って逃げたりする。
逃げながら机の上からペンを手に取り、一人掛けソファーをひっくり返す。オルトは機敏に追いかけるが、なかなかガスは捕まらない。オルトの父親くらいの年齢だろうに、そうとは思えないほどすばしこい。が、そのうちオルトがテーブルに手をついてヒラリと飛び越え、ガスの肩をつかんだ。
「捕まえま、あっ!」
ガスはペンをオルトの目に突き立てているように見えた。アビーが恐怖で「ヒッ」と息をのんだが、オルトの顔から血は出ていない。
「大丈夫ですよ、夫人。ペン先を握ってますから」
「いや、これは。降参です」
「それと、実戦なら目を突き刺したら、すかさず左手に持っている花瓶かグラスの破片で、首の動脈を切り裂いてるよ」
ガスが左手を開くと、そこには破片の代わりにメモ用紙が握られていた。
目を丸くして見ているアビーに、ガスが歩み寄る。
「さあ、今度は夫人です。私から逃げてごらんなさい」
「は、はいっ!」
部屋の角に追い詰められたら終わりだろう。
アビーは抱えていたクッションを全力でガスの顔に向かって投げる。それを片手で払いのけられるのは予想していた。
練習なのに無表情に迫ってくるガスが恐ろしい。足がすくみそうになる。
(見込みがないと判断されたら何も教われずに終わってしまう。次の手を考えながら逃げなくちゃ)
アビーは普段の自分の常識をかなぐり捨てた。
書き物用机に回り込み、一番上の引き出しを引き抜き、両手で引き出しを持って中身をガスの顔に向かってぶちまけた。
ハサミ、ペーパーウエイト、押さえ紙、替えのペン先、こまごました物がガスの顔に向かって飛んだ。
「ほう。なかなかやるな」
ガスは瞬時に上半身をひねってそれらを全てかわした後で、「どこにそんな力が?」と思わせる跳躍を見せ、アビーの前の机にスタッ!と飛び乗った。





