29 改良された化粧品
九月になった。
アビーの私室では、訪問したサマーが化粧品を差し出している。アビーがそれを指先に取って手の甲に塗ってみる。
「ずいぶん滑らかな仕上がりになってるわ」
「これも奥様の援助のおかげです」
アビーは改良品の質が向上しているのに驚いている。
ザラついていた触感はバターのように滑らかになり、薄く伸びるのに下の肌の色を覆い隠してくれる。
「私の額に塗ってみようかしら」
「でしたらわたくしが」
赤みが少しずつ薄くなってきている額の傷に、サマーがクリーム状の化粧品を塗る。アビーが鏡でその様子を見ている。薄く塗り、乾いてからもう一度塗り重ねた。
「すばらしいわ。ほとんど傷がわからない」
「はい。前髪を下ろしていれば、まず気づかれませんね。今後は汗をかいても落ちにくくしたいとおもっております」
「使う人の肌の色に合わせて色味を選べるともっと喜ばれるのでは?」
「あっ、そうですね。奥様と私では肌の白さがちがいますものね」
「私はほとんど外に出ないから」
アビーは苦笑したが、サマーはいいアイデアだと思った。
九月になったとはいえ、昼間はまだ少し動けば汗が噴き出る。
貴族の女性は下着から数えたら何枚も重ね着をしているからじっとしていても暑い。
「汗で落ちないのは喜ばれるわね。サマーさん、これは称えられるべき製品よ」
「奥様、完成したら一番に奥様にお届けします。この化粧品が生み出す利益に関しても、奥様にはご恩を返せるはずです」
サマーはアビーが機械の導入費用を出す、と言ったときにきちんと書類を作ってきた。
商売に疎いアビーはよく理解しないまま「サマーさんがそうしたいのなら」と了承したのだが、サマーは商業組合の手を借りて正式な書類を作成し「出資に見合った配当をお返ししたい。それが私のもうひとつの目標です」と笑顔で語っていた。
「楽しみにしています。それと、サマーさん、私ね、あれから毎日身体を鍛えているんです。今ではずいぶん走れるようになりました。腕立て伏せや腹筋もできるように鍛えたの。でも、これで十分とは思えなくて」
「さようでございますか」
サマーは不思議だった。
殺戮の使徒とまで呼ばれる剣豪の夫を持ち、男爵家から伯爵家に嫁いだと聞いている。大切にされてそうなこの奥様は、何が足りないと言うのだろうか。
「奥様? 不躾なことをお尋ねしてもよろしいでしょうか」
「私で答えられることならどうぞ」
「奥様は私から見ると、とても恵まれていらっしゃいます。なのに『十分とは思えない』とおっしゃるのが不思議でなりません」
少しの間、アビーは逡巡した。
どこまで話せばサマーにわかってもらえるか。
どこまで話したら伯爵家の名誉を傷つけてしまうのか。
サマーはどこまで信じていいのか。
アビーは慎重に言葉を選びながら話を始めた。
「私、幼く見えるでしょう? それで、十代のときに誘拐されそうになりました。おそらく九つか十の子供と思われたのです」
「まあ……」
「運よく遠くに運ばれる前に助け出されたの。だからこうして平和に暮らしているけれど、あのとき助け出されなかったら、死ぬより恐ろしい目に遭わされたでしょうね。そして死ねば秘密裏に埋められていたと思う」
「奥様、申し訳ございません! そのようなこととは存じ上げず、失礼なことを!」
アビーは穏やかな顔で首を振った。
「いいえ。ただ、イーガン伯爵家にとっては不名誉な話ですので、誰にも言わないでくれるかしら」
「もちろんでございます!」
「それ以来、私は一日たりとも心安らかな日を過ごしたことがないわ。いきなり抱えられ、知らない家に運び込まれる恐ろしさは、数千回の夜を経ても忘れられないの」
「奥様……」
「それでね、せめて走って逃げられるように、毎日毎日走っているの。でも、それだけじゃ足りないと思ってる。旦那様は下手な反抗をすればもっと危険だとおっしゃるわ。だけど、私は自分の身を自分で守れるようになりたいの。相手を倒せなくてもいい、隙を作って逃げ出せるぐらいの技術を学びたいのよ。でもね」
「旦那様のお許しが出ないから学べないのですね」
「ええ、そうなの」
サマーは少し考え込んでいたが、何かを決意した表情でアビーを見た。
「奥様、わたくしは少々の武術の心得がございます。それは全て、元傭兵の父から学びました。父は戦争当時『伝説の傭兵』と言われた男でございます」
「伝説の傭兵、ですか」
「父は小柄で、幼い頃は散々近所の子供たちにいじめられたそうです。それが悔しくて、少年時代から独学で身体を鍛え、十五の歳から有名な傭兵に弟子入りをし、師匠にありとあらゆる汚い手を習ったそうですわ」
(それこそが私の求めている先生!)とアビーは思わず身を乗り出した。
「奥様、父は今、傭兵業を引退して畑仕事をしております。暇そうですわ。なんとかして奥様が父の技術を学ぶことができたらよろしいのに」
「絶対になんとかします。だから、あなたのお父様に頼んでいただけないかしら。悪い奴らに捕まっても、逃げ出す技術を学びたいの」
「承知いたしました。父には私から頼みます。奥様は伯爵様を説得してお許しを得てくださいませ」
「ええ、そうするわ」
サマーが帰り、アビーは考え込む。
夫は許可をくれるだろうか。
「おそらくだめだと言うわね。でも、私は学びたい」
最初はギルバートに言わずにこっそり習おう、と思った。
だがこっそり出られるだろうか。こっそり出かけようとしても、また後をつけられる気がする。この前テッドに会いに行くときだって、何も気づかずにオルトに尾行されたではないか。
では「サマーの家に行く」と告げてオルトか他の使用人に同行してもらい、サマーと化粧品のことを話し合っているふりをして、別室で習うのはどうだろうか。
そこまで考えて首を振った。
「ううん、嘘は良くない。やっぱり旦那様に正直に話をして、説得すべきよ。そのくらいの努力を惜しんでどうするの」
夜、ギルバートの帰宅が遅かったのもあり、顔を合わせないままベッドに入ってもまだ悩んだ。
そして最後に決めた。
「もし旦那様を怒らせて出て行けと言われたら、その時は仕方ない。これまでのお礼を言って出て行こう。旦那様を大切にして差し上げたいし感謝も忘れてはいないけれど、どちらかひとつしか選べないのなら、私は自分の身は自分で守れる方を選ぶ。無力だった私のせいで、十三歳のテッドが何をしなければならなかったか、忘れちゃだめ」





