27 化粧品工房のサマー
八月の上旬、その女性がイーガン伯爵邸を訪問した。
アザや傷を隠す化粧品を作っている女性は、サマーと名乗った。
三十歳くらいだろうか。黒髪のハキハキした女性だった。
「奥様、私の工房で作っている化粧品に関心を持っていただき、ありがとうございます。奥様のようなお若い女性がこの手の品にご興味を持ってくださったということに驚いております」
「私こそ、忙しいでしょうに呼びつけてごめんなさい。実はね、私、額に傷があるの。人前に出る時に前髪で隠しているのだけど。隠す、ということに少し疲れてしまって」
そう言いながらアビーは前髪を手でかき上げて傷を見せた。
「それは……刃物の傷、でしょうか」
「ええ。私が後先考えずに動いた結果なの。それを後悔はしていないのだけれど、化粧品で隠せるのなら髪型や帽子を使う必要がなくなって自由になれる、と思ったの」
「それでございます、奥様。気になる方にお使いいただけば、心が軽くなります。髪を巻くのと同じ感覚で使ってもらえたら嬉しいのです」
「髪を巻くのと同じ、ですか」
「ええ。気楽に楽しく、おしゃれする感覚で、でございます。私は妹が腕の火傷の跡を気にしていることから、この化粧品の開発を始めたのです。妹はこれのおかげで半袖を着られるようになったと喜んでおります」
サマーはにっこり笑ってバッグから化粧クリームを取り出した。
安さと機能を最優先という見た目の、蓋つきガラス瓶に肌色のクリーム状の物が入っている。
サマーがそれを指先で手の甲に取り、伸ばす。
やはり厚塗りに見えた。
「厚塗りに見えませんか」
「はい、見えます。ですが、これをもっと薄付きになるようにするには、材料を滑らかな液体になるまですり潰して混ぜる機械が必要です。それを注文して作るのには資金が」
「機械の一点物ですか。高価になりますね」
「はい。それも機械の製作が一度で成功するとは限らず、資金を工面するのに奔走しております」
アビーは思わずサマーの手を、両手で握ってしまう。
「私にできる範囲で応援させてください。私はそれがうまくいったら、この化粧品の宣伝をしたいの。この品を必要とする人は、必ずいるはずよ」
「宣伝でございますか? 奥様が?」
「ええ。正直を言うと、貴族女性とのお付き合いは苦手だけど、苦手だからこそ挑戦してみるのもいいかと最近は思うの」
「奥様、前向きで素晴らしいお考えですわ」
腕立て伏せが一度もできなかったアビーだが、毎日挑戦していたら、今では十回はできるようになった。苦手な貴族女性とのお付き合いだって、やればできるかも、いや、旦那様の役に立つためにやってやろうじゃないか、と思っている。
機械を注文するお金を受け取り、サマーは何度も礼を述べて喜んで帰って行った。
その後、サマーから頻繁に手紙が来る。
アビーから資金を得て新しい機械を発注したこと、機械が完成したこと、順調に製品の改良が進んでいることなど。
それを読みながらアビーは(これも旦那様のおかげ)と思う。
なぜならあの茶会以降、何度か二人でおしゃべりをするようになったエルダ・ワイズ伯爵夫人に、『ギルバート様のようなおおらかな夫ばかりではない』と聞かされたからだ。
「たとえば同じ伯爵家であっても財政事情は様々。それに加えて旦那様の考え方次第で、夫人が自由に使える金額には雲泥の差があるのよ」
「そうなんですね。金額の差はあれど、平民も貴族も同じですね。私の実家は新興貴族で領地無し。父の城勤めの収入だけでやりくりしていたので、私の実家はお金は無いのが普通でした」
「アビゲイル様ったら」
「え?」
「そんなことをうかつに人前で話してはいけませんわ。悪意の尾ひれをつけられて、何を言われることか」
「あぁ、そうですね。私ったら」
「イーガン伯爵様は、アビゲイル様のそういう飾らないところに惹かれたのでしょうね。歌劇場でお見かけしたとき、我が目を疑うほど柔らかい表情でしたもの」
「あのとき、ですか?」
アビーは、二人で涙を流すほど笑い続けたことをほんわかした気持ちで思い出した。
「エルダ様、結婚て、いえ、夫婦って、いいものですわね」
「アビゲイル様」
エルダは突然泣きそうな表情になった。
「私の夫はイーガン伯爵の上司で、あの方の戦いぶりを見てきたんです。何度もそれを話してくれましたわ。『生き残ろうとは考えていないような、いつも見ていてぞっとするような捨て身の戦いぶりだった』と。あの方は少年時代から、いろいろとご苦労なさってるそうですわ。私も本人から聞いたわけではありませんから詳しくは申しませんが、アビゲイル様、どうかイーガン伯爵と、末永く仲良くして差し上げてね」
「……はい」
ギルバートを親身に心配しているエルダの言葉と表情に胸が痛む。
本当は二年間だけの偽装夫婦であることが心苦しい。
屋敷に帰宅して、アビーは運動しやすいパンツとゆったりしたシャツ姿になった。
ギルバートが行っている運動を思い出して、まずは全身を動かす。じんわりと汗が滲むところまで身体を温めてから部屋の中を走り出した。
息が切れても走る。
あの日、口と鼻を押さえられて何も抵抗できなかったことを思い出しながら走る。
(あと少し、あともう二往復)と自分に課題を与えて走り続けた。
「あの日を思い出したくないのに繰り返し思い出してしまうなら、あの日の記憶は自分を燃やす材料にしてやる」
最初は部屋を十往復するだけで息が切れていたのに、最近では数十往復を走れるようになっていた。
アビーはそんな自分を少しずつ好きになっていた。





