26 充実した日々
翌日、アビーはギルバートが出かけるのを見送ってからオルトに頼みごとをした。
「護身術、でございますか、奥様」
「正確に言うと、『どんな手を使ってでも敵から自分を守れる技術』かしら。誰か知り合いでその手の技術を教えてくれる方を知らないかしら」
「どんな手を使ってでも……。探してみますが、奥様、男を相手にするおつもりでしたら、走って逃げるだけでも、大変なことです。お身体を鍛える覚悟はおありでしょうか」
「あるわ」
「では、まずは走って体力をつけることかと。それと、まずは私よりもギルバート様に相談なさってください」
それはそうか、とがっくりしながら部屋に戻る。ギルバートが賛成しないことは想像がつくからだ。
キャシーが淹れてくれたお茶を飲みながら考える。
あの時、自分が反撃できていたら。
押さえつけられる前に男たちから走って逃げることができていたら。
もしかしたら、それはいっそう危険な事態を招いたかもしれない。
だが、それがなんだというのか。何ひとつ抵抗しなかった結果、自分は焼き印を押された。テッドが来なかったら腐った人間に地獄の苦しみを味わわされる道しかなかったではないか。
テッドを巻き込んでしまった。
十三歳のテッドに殺人を犯させたのかもしれない。テッドは今までその秘密を誰にも言えずに抱えてきたはずだ。
自分も十五歳から二十四歳までの九年間、人生の初夏ともいえる期間を苦しんで過ごしてきた。
護身術を習うことはギルバートに反対されるだろうが、今のままでいいとは思えなかった。
アビーはその夜、覚悟を決めてギルバートに自分の願いを伝えた。
「護身術? 君が? いや、それは逆に危険だよ。中途半端な反撃はかえって相手の攻撃を誘ってしまうものだ」
「そう、ですか……。では身体を鍛えるのはいかがでしょう。私、ずっと家の中で暮らしていたので、体力がなくて。ひ弱な自分を鍛え直したいのです」
「ああ、それならいいが」
「ありがとうございます!」
アビーは十五歳のあの事件以来初めて、自分の人生に前向きになれた気がした。
体力づくりはギルバートが指導してくれた。
まずは庭を二人で何周も歩くことから始め、歩き慣れたら早歩きに。早歩きに慣れたら駆け足を。
走ることなど子供のとき以来だったアビーは、走るための筋肉が身体から全くなくなっているのに気がついた。気持ちは走りたいのに走れないのだ。これには自分でも驚いた。
その日から、二人で運動するほかに、こっそり一人でも走った。
広い私室を右から左、左から右と繰り返し往復し、人がいない時を見計らって庭の塀の近くを走った。七月末の暑さで汗が滴り落ちる。
貴族の女性なら恥じるべき姿になるが、アビーは気にしない。誰も見ていないのだからと割り切って走り続けた。
ある日はギルバートが庭で鍛錬しているのを部屋から見て、自室で腕立て伏せや腹筋を真似しようとした。やってみたら、一回もできなかった。
それもこっそり練習した。
翌日からは全身が筋肉痛でつらかったが、しばらくすると以前よりこなせる回数が増えていることに気づいた。
自分に筋肉がついてきたことを確認してからは、マナーの勉強と刺繍や縫い物ぐらいしかすることがなかったこの屋敷での暮らしが、急に忙しくなった。
学ぶことがたくさんある。
鍛えるべき箇所もたくさんある。
今まで隠れるようにして生きてきたアビーには、とても刺激的な生活だった。
そんな日々が続いてしばらくした頃、お肌の手入れをしてくれる女性、ロージーからこんな話を聞いた。
「奥様、最近新しい化粧品の話を耳にしまして」
「どんな化粧品でしょう」
「アザや傷を隠す化粧品です」
「まあ」
「ご不快でしたらお許しください」
「ううん。知りたいわ。外出やお茶会のたびに帽子やリボンで前髪を押さえているのも無理があると思っていたところなの。私は傷を見られても別にいいんだけど、見た人が気を使うだろうと思ってね」
「本日、その化粧品をお持ちしましたので、お試しになりますか?」
「そうなの? それならぜひ」
ロージーが肌色のクリーム状のものを丁寧に額に塗ってくれた。一見すると傷は見えなくなる。確かに便利だと思った。
「これは、とてもいい物だと思うんだけど、近くから見ると厚塗りしているのが目立つわ。隠しましたって感じが逆に不自然では?」
「そうなんです。そこが欠点ではあるのです。ですが、これ以上細かくする技術を使うには、費用がかかるそうで。これを作ったのはごく普通の平民の女性なんです。素晴らしい発想なので私も少しでも売り上げに協力したいのですが、なかなか」
その瞬間、アビーの心に光が差し込んだ気がした。
何もできずに襲われ、押された焼き印を隠し、引っ込んで生きてきた自分がこうして豊かな暮らしをさせてもらっている。これを自分だけで「ああ、ありがたい」で終わらせていいわけがない。
「ロージー、その女性に会わせてもらえないかしら。その方とお話してみて、賛同できそうなら資金の援助をしたいわ。旦那様の許可を得てから、だけれど」
「それはもう。これを作っているサマーが喜びます」
ギルバートはこのところずっと忙しそうだったが、帰宅を待っていたアビーの話を真剣に聞いてくれた。
「私がいただいているお金の中から、化粧品を作っている女性を援助してもよろしいでしょうか」
「君に渡したものは君の自由にしていいさ」
「ありがとうございます。それで旦那様、毎日お忙しそうですが、お身体がお疲れではありませんか」
「ああ、大丈夫だ。君こそ毎日運動を続けて疲れが溜まってないか?」
「大丈夫です。むしろ以前より体調がいいのです」
「そうか、それはよかった」
こうしてアビーはサマーへの資金援助ができるようになった。





