23 ギルバートの怒り
アビーが室内着を床に落とした。
レースの縁飾りが付いたドロワーズ一枚の後ろ姿を晒すと、ギルバートはヒュッと息を吸った。そして囁くような小声で尋ねる。
「アビゲイル、それは、いったい」
「これが私の苦しみであり、両親も知らない私の秘密です。私、厚かましくも、契約した二年間はこれを隠し通すつもりでした。普通の夫婦のように過ごしたいと願っておりました。申し訳ありません」
「なぜそんな物を押されたんだ! 誰がやった?」
「声を抑えてください。使用人に聞こえてしまいます」
「いったい誰の仕業だ。教えてくれ、アビゲイル。そいつをこの手で殺してやる!」
ギルバートは立ち上がり、細かく震えているアビゲイルに近寄った。床に落ちている室内着を拾い上げて、そっとアビーの白く薄い肩にかける。それから壊れ物に触れるように、後ろから無言でそっと抱え込んだ。
アビーは肩に掛けられた室内着に袖を通し、ボタンをかけながら話し始めた。
「誰がやったのかはわかりません。私を騙した男の顔と、焼き印を押した男の顔は覚えていますが、あいつらが誰なのかは全く。場所も王都の貧しい地区のどこか、としか」
「テッドはその印を見ているんだな?」
「いいえ。でも、何をされたかは知っていると思います。テッドは『このことは絶対に誰にも言うな、俺にも何も聞くな』と言っていました。両親が悲しむだけなので焼き印のことは両親には言っていません。テッドはそのときまだ十三でした。まだほんの子供だったのに、私を助けてくれたんです。私がテッドにどれだけ感謝していて、どれだけ申し訳なく思っているか、とても言葉では……」
「アビゲイル。そうだったのか。君は今日まで独りでこの秘密を抱えていたのか。さぞかし、つらかったろうな」
「旦那様?」
「振り返るな」
短く命令したギルバートの声がわずかに震えている。そしてアビーのむき出しの肩に、熱い滴が一滴、落ちてきた。
「十五歳のお前がどれほど絶望したかを想像すると、震えるほど悔しい。こんな、こんな非道なことを少女にするなんて」
「これをやられた場所を私は覚えておりませんが、テッドは覚えているかもしれません。私はこんなことをした人たちがどうなったか、知りません。聞くなと言ったときのテッドが真剣だったから、ずっと聞けないままです」
室内着の最後のボタンをかけながら、アビーは穏やかに説明する。
その語り口を聞いているギルバートは余計にやるせない。どれだけの時間を苦しんだら、こんなに穏やかに語れるようになるのだろう、と思う。
アビーが小さな身体に抱えて来た苦しみと悲しみの大きさを思うだけで、はらわたが煮えくりかえりそうだった。
「だから君は命をかけてテッドを守ろうとするのだな?」
「はい。テッドに助けられなかったら、私はどんな人生を歩まされたことか。十五歳の私は当時、十歳くらいに見えたはずです。おそらくその手の趣味の人間に売り飛ばされ、慰み者として残酷な仕打ちを受けたはずです。たとえ遺体になっても家には戻れなかったでしょう。それを思えば額の傷など、本当にたいしたことではなかったのです」
室内着を着終わったアビーを、ギルバートがひょい、と抱き上げた。
「な、なんですか?」
「離婚はしない。契約期間は二年だ。それまでは君は俺の妻だ」
「ですが」
「反論は認めない。俺は離婚しない」
そう言ってギルバートはアビーを抱えたままソファーに座り、アビーを膝の上に置いて腕の中に包み込んだ。
「旦那様を騙していたのに。許してくださるんです?」
「騙すのと言うに言えなかったのは全く違う。君は強い人だ。勇者だな」
「勇者だとしたら、へなちょこ勇者ですね」
「いや。勇敢な勇者だよ。アビゲイル、俺はテッドと話し合う。君にこんなことをした人間の情報を聞き出してくるよ。そいつらが今、どこかでのうのうと生きてることを想像しただけで耐えがたい。絶対に、草の根を分けてでもそいつらを探し出してやる」
ギルバートはそこまで言って、アビーを寝室まで送ってくれた。
「おやすみなさい」を交わして一人になったアビーは新たな不安を抱えていた。
もしやつらが生きているのなら、ギルバートが殺人を犯しそうで、恐ろしい。
十三歳だったテッドがどうやって自分を助けてくれたのかは聞いていない。だが恐ろしい想像はずっと頭の中にある。その上今度はギルバートが自分のために復讐しようとしている。
ギルバートに罪を犯させたくない。だけど自分がどうするのが最良の選択になるのかわからない。
答えは出ず、精神的な疲れで眠れないまま、アビーは牢にいるテッドのことを思った。
「テッド、なんとかする。だからもう少しだけ待ってて」
自分にできることはなんだろう、アビーはそれを考え続けて朝を迎えた。





