2 殺戮の使徒 ギルバート・イーガン
アビーが尋問より治療を優先されたのは、仕事の依頼人がテッドの呼び出しを頼んでいたことを証言したからだ。早い段階でアビーが無関係と判断され、貴族だったことが幸いした。
アビーが長い聞き取りを終えて取り調べ室を出ると、両親が通路に置かれた木製のベンチから立ち上がり、無言でアビーを抱きしめてくれた。
額に包帯を巻かれたアビーを見て母が泣き出した。
「お父様お母様、ごめんなさい」
「お前が謝ることはない。テッドが馬鹿なことをしたせいだ」
「テッドは? テッドはどうなったの?」
両親が答える前に低い声が背後から聞こえた。
「あの男なら逃げたままだ。なぜかばった? 振り下ろされる剣の前に出るなど、なんと愚かな。あれが俺ではなく他の人間なら間違いなくお前は斬り殺されていたぞ」
振り返ると、背の高い男性が冷たい眼差しでアビーを見下ろしていた。
無造作な黒髪、切れ長の青い目、まっすぐな鼻梁の先にある引き締まった口元。無駄な肉のかけらもない頬のライン。
整った顔立ちのせいで表情の冷たさがいっそう際立っていて、いかにも冷酷そうに見えた。
見上げるほど背が高く、体を鍛え上げていることが服の上からでもわかった。
「テッドは私の弟同然だからです。愚かなのはあなたじゃないですか!」
「アビー! やめないか!」
「やめてちょうだい、アビー。失礼いたしました。この子は動転しているのです。どうかお許しください」
父と母の声が聞こえなかったように、その男はアビーに尋ねた。
「ほう。私が愚か? なぜだ」
「テッドが放ったのはおもちゃの矢ではありませんか。なのに斬り殺そうとするなんて。そんなだから『殺戮の使徒』なんて二つ名で呼ばれるんです」
男はほんのわずか、アビーに同情するような顔をした。
「あの若造が放った矢の頭には、猛毒がたっぷり仕込んであった。飛沫が目に入っても口に入っても、私は無事では済まなかった。それに、あいつは自分をかばって斬られたお前を、あっさり見捨てて逃げて行ったが?」
男はそう言って、冷えた目でアビーを見下ろし、クルリと向きを変えて立ち去った。残されたアビーは「猛毒? そんな……」と絶句して立ち尽くした。
※・・・※・・・※
王の執務室で、国王と『殺戮の使徒』ことギルバートが話をしている。
「手紙で『重鎮の汚職の情報が』と誘いだされ、行ったら毒矢で狙われた、か」
「はい。ボウガンの会場だったので、もしやと用心していたのが幸いしました」
「男は逃げたままか」
「はい。殺さない程度に斬って雇い主を聞きだすつもりでしたが、少女に邪魔されまして」
「少女? 男の妹か?」
「いえ、ただの知り合いらしいです。愚かな娘でした」
「邪魔をした娘は斬らなかったのか」
「まだ子供でしたので。十四か十五か。ですが、その少女の額を剣先がかすってしまいました」
そう言ったギルバートの顔をじっと見ていた国王は、優しい顔になった。
「お前を殺そうとした男をかばったのだろう? 気にせずともいいのでは?」
「それはそうですが……」
「よし、男の行方と背後関係は私のほうでも調べさせる。ご苦労だった。ああ、そうだ、ハンギンズ侯爵の娘との縁談の件だが、顔合わせだけでもどうだ? あちらは大変に乗り気だぞ」
「陛下、私の縁談はもうご心配なさいませんように」
「そう言うな。もう戦争も内戦も終わったのだ。お前も落ち着いた暮らしが必要だよ。よし、今日のところはもう下がっていいよ」
ギルバートは今度こそ一礼して国王の執務室から退いた。
しばらく通路を歩き、誰もいない中庭に入った。藤棚の下にある人目につかないベンチに腰を下ろす。
「猛毒、ねえ。誰の差し金か、思い当たる先がありすぎてわからんな」
そう言って顔を上に向け、藤の花を見る。季節は春本番。
ずらりとぶら下がっている藤の花房が、甘い香りを漂わせていた。
隣国との戦争が終わり、さらにその後に続いた内戦もやっと終わった。
今、国王の地位は安泰だ。
その安泰を国にもたらすために、ギルバートは多くの人間を斬ってきた。
命を狙われることはこれが初めてではない。
戦争以前も、ギルバート・イーガンは命の危険と隣り合わせだった。
人生で最初に自分の命を狙った相手は義父だ。
母はギルバートの父を病で亡くしたあと、父側の遠縁の男と再婚した。再婚した二人の仲はとても良かった。
母の再婚後、ギルバートは頻繁に嘔吐や下痢を起こし心臓の不調が続いた。診察した医者は自分が巻き込まれることを恐れたのか、「毒が原因」とは言わず「口に入れる物に気をつけるように」と注意したが、母は「まさか」と言って医者の言葉を信じなかった。
義父と母の間に妹が生まれてからは体調の不良がもっと酷くなる。
父が連れて来た侍女は、ギルバートの食事を運ぶとき、いつも緊張していた。
親身に心配してくれる乳母と一緒に、ギルバートは領地に引きこもった。案の定、体調は回復した。
ある時、勇気を出して王都の屋敷に出向き、「父が自分に毒を盛っていたのだと思う」と母に訴えた。緊張してそう訴える十三歳の自分に、母は
「言うに事欠いて父親を人殺し呼ばわりするなんて」
と表情を変え、嫌悪の眼差しでギルバートを見た。そこに義父が入って来た。
「どうした」
「この子がおかしなことを言うの、ほんとに嫌になるわ」
母は男に甘えた声を出し、自分に「部屋から出るように」と命じた。その時の義父の勝ち誇ったような顔と言葉は今でも忘れられない。義父は自分の背中にこう投げかけた。
「妹に母親を取られたから苛立っているんだろう。ギルバート、いい年をして焼きもちはやめろ。もう少し大人になれ」
母は殺されかけている息子よりも再婚相手を選んだ。
『母親でさえ助けてくれない』
その事実が少年ギルバートの人生観の土台を作った。
乳母が亡くなり、軍の養成学校に入ってからは剣術に没頭した。
(死んだら死んだときのこと。俺が死んでも悲しむ人はいない。失うものは何もないのだ)
そう思うと死を恐れる気持ちが希薄になり、卒業後に軍人として参加した他国との戦争でも、それに続いた内戦でも、自ら危険な場所に飛び込んでは敵を倒し続けた。
その頃からだ。
ギルバートが若くして「殺戮の使徒」と敵にも味方にも呼ばれるようになったのは。
ギルバートの命知らずな戦いぶりが世間でも知られるようになると、義父は「お前がいつ戦死してしまうかもわからない」という理由で家は幼い妹が継ぐことになった。
妹の婚約者は義父の甥。義父の手続きは実に素早く念入りだった。
(普通は俺が戦死してから手続きするものだろうに)と思ったが、ギルバートは義父の提案を聞いてあっさりと跡継ぎの座を妹に譲り渡した。
自分の実家も親も、もうこの世には存在しない、と諦めたからだ。





