19 寝ぼけたアビー
夕方、屋敷に帰ったアビーは、オルトに「お茶会はいかがでしたか」と聞かれると「まあまあ、かしら」と答え、同行したキャシーに「お疲れ様でございました」と言われても、「うん」と上の空だった。
夕食は「食欲がないから」と断り、早々とベッドに入った。
なかなか寝付けなかったが、キャシーにワインを頼んでゴクゴクと飲み干すと、そのうちに深い酔いとともに眠気が訪れた。
「アビゲイル、おい、アビゲイル」
「ん? んん?」
暗い部屋で目を開けると、自分を覗き込んで声をかけるギルバートの顔がぼんやりと見えた。
鍵をかけ忘れたかな、と半分眠っていて半分酔っている頭で考える。
「鍵、かけ忘れてたかしら?」
「いいや。俺の部屋からドアを開けて入ってきた。夫の俺が君の寝室に入れないなんて、使用人たちが怪しむからな。勝手に入ってすまん。具合が悪いそうだな」
「ん-、具合は悪くないのれすけど」
少々ろれつが回らない口で返事をしてから起き上がり、ベッドの上に広げておいたガウンを羽織ろうと引っ張った。するとギルバートがそれを手に取り、アビーに羽織らせてくれる。
「ありがとうございます」
「それで、具合は」
「具合は悪くないです。大丈夫。疲れて食欲がなかっただけで」
身支度、髪のセット、挨拶の言葉の準備もあった。その上で茶会の緊張。夫のことを他人からあれこれ知らされた驚き。
心身ともに疲れたのだ。今もまだ頭がぼんやりしたままだ。酔っているし、今はとにかく猛烈に眠かった。
「それより、旦那様が侯爵家の嫡男だと聞きました」
「ああ、そうだが。言ってなかったか?」
「なぁんにも。妻の私が知らないって、変だと思われたかも」
「そうか。気疲れさせたな。実家のことはあまり話題にしたくないし、思い出したくもないんだ。わざと隠していたわけじゃない」
「ふぅん……いいです、お互い様です」
どうにもこうにも眠くて、アビーはギルバートのいるほうを向いて横になった。そんなアビーをギルバートが眺めていたが、肩まで毛布を掛けてくれる。
浅い呼吸で夢の国に入りかけているアビーに、ギルバートはそっと話しかけた。
「お互い様って?」
「内緒は……お互いさま」
どうにかそれだけを答えて、アビーは眠ってしまった。
※・・・※・・・※
オルトに運ばせた酒を少しずつ味わいながら、ギルバートは窓の外を眺めていた。
『内緒はお互いさま』という言葉が頭の中で繰り返される。
彼女の内緒、とは何のことか。互いに何も知らない状態で結婚したアビゲイルの秘密が何を示すのか、想像もつかない。
「実家のことを何も説明していなかったのは俺の落ち度だな」
隠しているつもりはなかったが、慌ただしく結婚して、そのまま言いそびれていた。というより忘れていた。彼女は彼女で実家の両親に聞く暇もなかったのだろう。
外で夫の実家のことを知らされるのは妻として恥ずかしく、屈辱的だったかもしれない、と反省する。
疲れて眠気に負けて目を閉じたアビゲイルの顔を思い出す。
十代の少女のような顔立ちだが、やはり二十四歳なりの大人の雰囲気も漂っていて、バラの花びらのような唇がたいそう魅力的だった。
彼女の言う『内緒』をあれこれ想像しているうちに身の内に生まれた苛立ちを抑えようと立ち上がった。
壁に掛けてある剣を手に取り、そのまま庭に出る。
ブンッ!と剣を振り、仮想の敵を相手に素早く動き、剣を振った。全身の筋肉を使って重い剣を制御する。
「俺には彼女を問い質す権利はない」
ヒュッと剣を振る。
「偽りの結婚を申し込んでおいて、彼女の秘密を知りたがるなど!」
またヒュッと振る。
汗だくになるまで剣の鍛錬をして、部屋に引き上げた。
「ギルバート様、お湯をお使いになりますか?」
「ああ、頼む」
上半身裸になって、汗を拭うギルバートの肌にはたくさんの傷跡がある。傷が残りやすい体質なのか、いつまでも傷が盛り上がった状態で残っている。
傷跡はギルバートにとってはただの痕跡であり、劣等感にもならないが自慢にもならない存在だ。
「だが、女性にとっては額の傷は大変な重荷だろうな」
湯の用意が出来た。香油入りのお湯に浸かり、あれやこれやを考えた。
テッドの行方と雇い主の正体を探ること。
実家の侯爵家と自分の関係をどこまで彼女に話し、関わらせるか。
できればアビゲイルには実家と接点を持たせたくない。実家と関わりを持っても彼女にはなんの利はないが、害はいくらでも思いつく。
契約期間終了後、アビゲイルとの関係はどうするか。
アビゲイルの秘密、とは。
ざぶり、と湯の中に頭まで潜り、息が苦しくなってからザバッと水面から出る。
(とりあえず、彼女との話し合いが必要だな)
そこまで考えてから、ギルバートは湯船から立ち上がり、たくましい身体にガウンを羽織った。