17 アビゲイルを守りたい
アビーの額の傷跡は少しずつ赤みが引いてきている。
医者には「できる限り傷を日光に当てないように。そのほうが傷の色が目立たなくなる」と指導を受けた。
六月下旬に入り、外が暑くなってきた。
汗をかくので包帯を巻くのをやめた。外に出る時は帽子をかぶり日傘も使うようにしている。
骨折した右手首も、重い物を持ったりしなければ問題ないまでに回復した。
「旦那様、エルダ・ワイズ様にいただいた招待状、まだ捨てずに取ってありますか?」
「ああ、あるが。行くのか?」
「はい。いつまでも牙が抜かれた猫のようではいけないと思いまして」
「無理をしなくてもいいんだぞ?」
「エルダ様はとてもお優しそうな方だったので、勇気を出して参加してみようと思います」
「そうか」
ギルバートが心配そうな顔をしているので、アビーは心境の変化について、話せるところだけでも話すことにした。
「私、十年近く家の中で暮らしてきましたけど、それは理由があったのです」
「話してくれるのか」
「私は結婚する気がなかったので、夫や子供や家庭を手に入れている他人を羨んでおりました。『手に入れた人たち』を見たら惨めになるので、人が多いところには出かけなかったのです」
「ほう」
「でも、今の私は結婚も旦那様も手に入れていますから。二年間は私も人並みの人生を手に入れているのだと思ったら、少し勇気が出たのです。でもこの話はエルダ様には内緒にしてくださいね」
「アビゲイル」
「はい。なんでしょう」
「なぜ結婚する気がなかったんだ?」
アビゲイルは少しだけ首を傾けて、ギルバートを見た。
「それをお話するのは、二年の期間が過ぎてからでもよろしいでしょうか。いつかお話しできる日がきたらお話ししますが、やっぱり勇気が出なかったらお話ししないかもしれません。でも、旦那さまにならお話しできるような気がします。正直申し上げると、旦那様に聞いてほしいと思うこともあるんです」
「二年間は話す気がないんだな?」
「はい。私と旦那様が元通りの他人に戻ってからじゃないと」
そういうとアビーは花が開くような笑顔になって腰をかがめたお辞儀をし、部屋から出て行った。それを見送ったギルバートは独り言をつぶやく。
「そんなに感謝していて楽しそうな顔をするのなら、なんで結婚を二年で終わらせるのが当然、みたいなことを言うんだ? もう少し延長させようという考えはなさそうだな」
書類を持って部屋に入ってきたオルトは、ノックにも返事がないのでドアを開けた。
そしてうっかりギルバートの独り言を聞いてしまい、そっと後ずさりした。
ドアを戻してからコンコン!とノックをすると、ギルバートはいつもの冷静沈着さを取り戻した顔で振り向いた。
「入れ」
「失礼いたします。例の矢に使われていた毒ですが、トリゴロシの毒の他にジギタールもキョウカクカの樹液も混ぜられてたそうです。ずいぶん入念に殺そうとしてたようですね」
トリゴロシは球根に含まれる。その毒は毒矢を打たれた鳥が、飛び立つ前に死んでしまうほどの即効性の猛毒で、ジギタールはきれいな花を咲かせる草。その根の絞り汁が心臓の働きを止める。キョウカクカは庭木にもなるが、木も葉も樹液も猛毒で、やはり心臓の働きを阻害する。
「植物の毒に詳しい人間が関わっているんだろうな。それでオルト、アビゲイルによると、俺を狙ったテッドは、子供の頃から使いっ走りの仕事をしてたそうだ。使いっ走りの雇い主の中に犯人がいるのかもしれない」
「調べてみます」
ギルバートは再び書類と向かい合う。
過去に王家に反旗を翻した貴族の一覧表を眺めながら、その子供の世代までチェックする。ギルバートを亡き者にしようとする人間は、自分個人への復讐者だけとは限らない。
現国王を引きずり下ろそうとする貴族かもしれないのだ。
(もう内戦は懲り懲りだ。兵士も民も、戦争に続く内戦で、疲れ切った)
そして人を斬ることに疲れている自分がいた。
自分の信じる正義のためとはいえ、相手にも家族がいたことを、アビゲイルと暮らすようになってから考えるようになった。
(今までは敵の家族のことなんて、考えたこともなかったのに)
ギルバートは自分が変わったことを感じる。
以前、上官のワイズ伯爵が戦場で
「ギルバート。俺はエルダのために何がなんでも生きて帰る」
と言ったときのことを思い出す。
それを聞いたときは「国の未来のために戦っているときに、なんと情けないことを言うのか」と思った。
だが今ならどうだろう、と自分の心の底を探る。
額に大きな傷ができても自分を恨まず、マフラーを編んでくれるというアビゲイル。
二年間の偽りの結婚でさえ『人並みの人生を手に入れられた』と嬉しそうに語ったアビゲイル。
心の中には「なんとしても彼女を守りたい」と思っている自分がいた。