12 歌劇の観覧
安静の一週間が過ぎた。
これでギルバートは仕事に戻るのだろうと思っていたアビーは、彼から思いがけない誘いを受けた。
「二人で出かけないか」
「どこへでしょうか」
「歌劇を観に行こう」
「まあ! 歌劇ですか。私、生まれて初めてです。あっ、でも私は額の傷がまだ目立ちます。もうしばらくすれば傷の赤みも落ち着くとは思うのですけど」
「俺は気にしないが、君は気になるだろう。帽子をかぶればいい。帽子店の店長を呼んである」
困って壁際にいるオルトを見ると、オルトは唇の両端を少しだけ上げて「任せればいいんですよ」と言うようにうなずいている。
午後になると帽子専門店の人が二人、イーガン伯爵家にやってきた。
たくさんの丸い箱が応接室に山積みにされ、ひとつひとつ蓋を開けてはアビーが試着している。試着するときは額の傷が店の人に見えないように横向きに置いた姿見の前に立ち、その上少し身体をひねって帽子をかぶったり脱いだりした。
「これ、可愛いですね」
「はい、奥様にぴったりかと」
「これも素敵」
「よくお似合いになります」
「この帽子はここのラインが美しいわ」
「奥様はお目が高い」
「どうしましょう、迷ってしまいます」
「アビゲイル、全部買いなさい。何度も呼びつける手間が減る」
アビーたちのやり取りを離れたソファーで聞いていたギルバートがそう言い切る。
「いえ、でも四つもは」
「イーガン伯爵家は帽子四つくらいでは傾かない」
「それはそうでしょうけれど」
壁際にいたオルトがそっとアビーに近寄って、小声で話しかけた。
「奥様、どうぞ全部お買い求めください。そのほうが旦那様のご機嫌がよくなって、私どもも助かります」
「まあ」
「オルト、余計なことは言わなくていい」
「失礼いたしました」
こうして四つどころかギルバートが選んだ二つの帽子も加わって、六つの帽子を購入することになった。歌劇の観覧は二日後だ。
※・・・※・・・※
歌劇場は王都の中心部にあり、三階建ての堂々たる建物だ。
装飾が施された大理石の石柱、落ち着いた色味の赤い絨毯、緩やかにカーブを描く絨毯貼りの幅広い階段、金色に磨き上げられた真鍮の手すり。
大きな花瓶にはこんもりと花が生けられ、壁には花や女性を描いた絵が大きな額縁に収められて飾られている。
アビーはギルバートの右側に立ち、無事だった左手で腕を組んでいる。
ギルバートがアビーに配慮する様子は、誰が見ても仲睦まじい新婚夫婦だ。
「まあ、ご覧になって。イーガン伯爵様があのように優し気なお顔で」
「驚きましたわね。常には厳しい表情しかなさらないのに」
「夫人はお怪我をなさってるのね」
「伯爵様が甲斐甲斐しく世話を焼いていらっしゃるわ」
ギルバートとアビーが劇場内に入った瞬間から、二人は注目の的だ。
「旦那様、みなさんが私たちを見ている気がするんですが」
「ああ、見ているな。気にする必要はない。さっさと個室に移動しよう」
「はい」
「また転ばないように、階段は抱き上げて運ぶか?」
「絶対にお断りします」
「冗談だ」
「存じております」
そして二人で顔を見合わせて笑ってしまう。
ギルバートの笑顔という珍しいものを見た周囲の人々が、またザワッとする。
アビーは結婚以来、初めてというくらい心が弾んでいた。歌劇も嬉しかったが、ギルバートの表情が柔らかくて、(なんだか少し本物の夫婦みたい)と思う。
アビーは十五歳のあの日以来、この手の人が多く集まる場所をずっと避けてきた。劣等感を持ちたくなかったし、他人を羨みたくなかったからだ。
だが今日は、夫婦で来ている。一生手にすることがないと思っていた『妻』という立場でたくさんの人の中に混じっていられることが嬉しかった。
(偽物の夫婦だけれど、こんな宝物みたいな時間が持てた)
そう思ったアビーは、ニコニコしながら個室の中から劇場を見下ろした。
「楽しそうだな」
「はいっ。とても楽しいです。連れて来てくださってありがとうございます」
「やっと出会ったころの顔つきになった」
「私、そんなに顔が変わってましたか?」
「ああ。君の気の強そうなところがいいと思ったのだから、牙を抜かれた猫では困る」
「ふふ、わかりました」
歌劇に感動し、夢中になって観ていたアビーは、山場で主人公が息絶える場面で号泣してしまう。
アビーの隣で苦笑していたギルバートだったが、アビーがあまりに泣くので腕を伸ばしてアビーの背中をトントンとあやすように叩いてくれた。
ぐすぐすと泣いていたアビーが
「旦那様、お心遣いはありがたいのですが、私、いくら小さくても赤ん坊ではございませんので。トントンしていただかなくても泣き止みます」
と赤い目を向けてそう言うと、ギルバートは少ししてから「くっくっく」と笑いだした。
どうやら『いくら小さくても赤ん坊ではない』が、笑いの的に的中したらしい。
ギルバートが声を殺して笑い続け、アビーもつられて笑ってしまう。
主人公が死んで、恋人が嘆き悲しむ場面なのに、二人はどちらかの笑いが収まっても、また相手につられて笑いだす、を繰り返してしまう。
「もう、旦那様があんなに笑うから。つられてしまうではありませんか」
「俺は笑い過ぎて腹が痛い。あんなに笑ったのは子供のころでも経験がない」
アビーはギルバートが笑うと目尻に笑い皺ができることに気がついた、(笑うとこんなに優しそうなお顔になるのね)と、いいことを発見した気持ちだ。
ギルバートの目尻の笑いじわは大人の色気が感じられて、少しドキドキした。
二人とも笑い疲れてもなお、クスクス笑いをしながら階段を降りているときだ。
二人の背後から、声がかけられた。
「ギルバート様。このような場にいらっしゃるなんて、お珍しい」
声をかけてきたのは華奢な赤毛の女性だった。年齢は三十代半ばくらいだろうか。
「ああ、エルダ夫人。久しぶりです。今日は妻のために足を運んだのですよ。エルダ夫人、私の妻のアビゲイルです」
「アビゲイルさん、よろしくね。エルダ・ワイズです」
「アビゲイル、こちらはワイズ伯爵夫人。ワイズ伯爵は俺の元上官だ」
「アビゲイル・イーガンでございます。ワイズ伯爵夫人、どうぞよろしく」
エルダは温厚そうな雰囲気の女性だった。
(笑顔が似合う人ね)とアビーもにこにこしていたのだが、次の言葉に笑顔が引っ込んだ。
「近いうちに我が家でお茶会を開くの。ギルバート様、奥様を招待したいけど、いいわよね?」
「妻は怪我をしていまして。まだしばらくは無理です」
「あら、包帯を巻いてらっしゃるのに、私ったら。ごめんなさいね。ではお怪我が治ったら、ぜひ参加なさってね」
再び華やかに笑ってエルダが去って行く。
「行かなくていい。俺がうまいこと断る」
「はい。お願いいたします。私、お茶会なんて全く不慣れですので」
「わかった。安心しなさい」
「ありがとうございます、旦那様」
よかった、という顔で階段を下りるアビーは、ギルバートがジッと自分を見ていることに気がつかなかった。





