10 アビー、弱気になる
結婚して一ヶ月が過ぎ、六月になった。
屋敷の庭ではツリーポピーが白く大きな花を咲かせ始めた。
この家は可憐な花を咲かせる木が多い。最近心が沈みがちなアビーは自分の両手でやっと包めるくらいのツリーポピーの花を眺めに庭に出ることが増えた。
マナーの授業は週三回。
授業ではマナーだけではなく、貴族同士の親戚関係、上位貴族の領地の特産品、派閥の力関係。
学ぶべきことは山ほどある。
この手の教育を受けたことがないアビーは覚えるのに必死だったが、引きこもった生活に比べたら楽しかった。
そんなある日の夕食の席。ギルバートが翌日の予定を告げた。
「明日、知り合いの伯爵家の夕食に呼ばれている」
「私もでしょうか」
「そうだ」
「わかりました。私が気をつけることはありますか?」
「この前のようなことは控えてほしい」
「この前……はい。わかりました」
この前とは国王の前で『結婚を繰り返し望まれた』とアビーが述べた件らしい。
それ以外の会話はない。豪華な食事が並んでいるが、なんだか食欲がなかった。実家の素朴で質素だけれど楽しい夕食が恋しかった。
(だめ。たったひと月で弱音を吐いたらだめよ)
自分を叱咤するが食欲が出ず、夕食は半分ほどしか食べられなかった。
ギルバートが食堂を出るのに続いてアビーも自室に向かった。後ろからキャシーが付いて来る。
「奥様」
「なあに、キャシー」
「食が進まないご様子でしたが、体調はいかがですか」
「体調は悪くないわ。ただ、実家は楽しく会話しながら食べる家だったものだから。だめね、いつまでも実家を基準に考えては。早くこの家の家風に馴染まなくてはならないわね」
「奥様……」
「大丈夫。私って、案外図太いのよ」
わざと陽気に笑って見せた。
「湯を使って、もう寝るわ。あなたももう、下がっていいわよ。また明日ね」
「はい。おやすみなさいませ奥様」
夫婦の寝室は間のドアで繋がっているが、ドアには常に鍵がかかっている。
アビーの部屋とギルバートの部屋の双方に小さめの浴室があり、一階には大きい浴室もある。アビーはいつも自室の浴室を使う。部屋にも浴室にも鍵をかけられるから安心できる。
自室の入り口のドアに鍵をかけ、浴室のドアの鍵もかけて、服を脱いだ。
見慣れた焼き印も、この家の大きくて豪華な鏡で見るといっそう醜く映って見える。
アビーは見つめていた焼き印から目をそらして湯船に入った。腰まで湯に浸かり、目を閉じて「ああ気持ちがいい」と声に出し、お湯の中で石鹸を使って身体を洗っていた。
コンコンコン!と自室のドアを結構な強さで叩く音がして、ハッとした。
あの叩き方は使用人ではない。アビーは慌てて立ち上がり、泡だらけのびしょびしょの身体にガウンを羽織って浴室を出た。
再びドアがノックされる。
「はい! すぐに参ります!」
そう大きな声で返事をして裸足で浴室を出た。
部屋を横切っている時に、泡が脚を伝わり落ちてきて足が滑った。
「あっ!」
顔をかばおうとして両手をついた。
強い痛みが右手首に走ったが、立ち上がってドアに急いだ。鍵を開けてドアを開くと、眉間にシワを寄せたギルバートが立っていて、思わずガウンの襟元を合わせた。アビーは高い位置にあるギルバートを見上げて謝った。
「お待たせして申し訳ありません」
「風呂だったのか」
「はい」
「ちょっといいか」
「こんな格好ですので、少しお待ちいただけますか」
「一、二分で終わる話だ」
「ではどうぞ」
ギルバートが部屋に入ってきて、ソファーに座った。
「食欲がないようだな」
「ええと、はい、そうですね」
「体調が悪いのか」
「いえ、そういうわけでは」
「料理が気に入らないのか」
「いえ、そんなことは。ただ、沈黙して食べるのに慣れていないものですから。そのうち慣れます」
「おいっ!」
「えっ? えっ?」
ギルバートがアビーの右腕をつかもうとしたので、思わず身を引いてしまった。
「手首が腫れているぞ。いつやった?」
「今です。急いだら転んでしまって」
「医者を呼ぶ。着替えて待ってろ」
「いえ、もう夜ですし、わざわざお医者様を呼ばなくても。大丈夫ですから」
「大丈夫かどうかは医者が決めることだ」
「あ、はい。申し訳ありません」
「はぁ」
そこでギルバートがため息をついた。
「何でしょう」
「すっかり萎れているじゃないか。剣の前に飛び出したり、俺に食ってかかってきたときとは別人みたいだぞ」
「そうでしょうか。辛気臭かったのなら気をつけます。申し訳ござ……」
「そういう態度だよ。牙を抜かれた猫みたいだ」
自分を猫と表現するギルバートの言葉がおかしくて思わず小さく笑ってしまった。
「私のことを飼っている猫、くらいには思ってくださるんですね?」
「偽りの結婚でも、怪我や病気の心配くらいはする。当たり前だ」
「よかったです」
「何がだ?」
「私は馬車に置いてあるクッションみたいなものかなと思ってましたから。猫ならまだ生き物ですもの」
「あのな……」
そこまで言ってまたため息をつかれた。
そのあとはキャシーを呼ぶと言うギルバートに「やめてください」を連発して浴室に移動し、片方の手で苦労して服を着た。ゆったりした室内着に着替え、駆けつけた医者の診察を受けるころには、右の手首がパンパンに腫れていた。
「ヒビが入ってますな。ヒビとは言っても骨折は骨折です。右の手首はどうしても使う場所ですから、気をつけないと治りが遅くなったり、後遺症が残ったりしますよ」
「どんなことに気をつければいいか、教えてもらいたい」
「添え木をして包帯を巻きますから、とにかく一週間は絶対に動かさないで。包帯と添え木が取れるのは、早くて一か月後。それと、奥様の額の包帯はどうしたんです?」
「切り傷ですわ」
「ふむ。切り傷を負った上に骨折ですか」
医者はチラリとギルバートを見た。その意味に気がついてアビーは慌てた。
「違います! 旦那様のせいではありません。どちらも私がそそっかしかったからなのです」
「そうですか。それならば、しばらくはお世話をしてもらうことです。遠慮せずに甘えればよろしい。なんでもやってもらいなさい」
そう言って医者は笑顔で出て行った。
ギルバートは騒ぎを知って駆けつけたキャシーを追い払って、二人になるとアビーに質問した。
「とりあえず何をすればいい?」
「え? いえ、結構です。何かあればキャシーを呼びますから」
「その骨折は俺のせいだ。額は俺だけのせいではないが」
「それはわかってます!」
「ではとりあえず何をすればいい?」
(これは言い合いしても長くなるな)とアビーは自分が折れることにした。
「実は、入浴後に毎日包帯を交換していたのです。もう傷はほとんど塞がっているのですが、赤みが消えるまでは包帯を巻いておきたいのです。片手で巻くのは難しいので、お願いできますか」