【1】フラスコから聴こえる声
こぽ、こぽ、と泡の立つ音がする。
部屋の空気は冷たくて、こんなにたくさん人がいるのに、なぜこんなに冷たいのだろうとマオは思った。
マオが裸足のせいかもしれない。白いワンピースをまとっただけ、靴も靴下もない足でなめらかな冷たい床を踏んでいるからかもしれない。背中まである長い、淡い珊瑚色の髪を揺らしながら、マオは床を踏んでいた。
目の前にあるのは、大きな大きな水槽だ。水槽、という表現が正しいのかどうかはわからない。プールというべきかもしれなかった。マオが何人も入れそうな大きさのその中には、浮かぶ人型があって。たくさんのコードを体につけられたあの人が、いったい何者なのか――マオは、教えてもらっていなかった。
「マオは、熱心にここに来るね」
声をかけてきたのは、白衣を着た男性だ。銀縁の眼鏡を掛けた、レンズの向こうの瞳は優しくて、マオは碧い瞳を細めて思わず微笑んだ。
「設楽先生」
設楽は眼鏡のブリッジを押さえ――これは彼の癖だ――水槽のほうを見る。白く濁った液体の中、ぷかぷかと浮かんでいる人型は何ものなのか、今日こそは問おうと思った。
「ほかの子は、研究室なんて厭がるのに。マオは、研究者になりたいのかな?」
「違うわ」
マオは裸足でくるりとまわった。そして、あああああ、と澄んだ高い声をあげる。
「あたしは、ヴォーカル・アンドロイド。うたうために、ここにいるのよ」
「ああ、もちろんそうだ」
設楽は目を細めて微笑んだ。
「マオは私の最高傑作だ。その歌を耳に、振り返らない者はいない……死人もが生き返ると言われる、マオ・メロディ」
まるで彼がうたうかのような調子で設楽は言って、マオに手を差し伸べる。彼に手を取られてマオはまたくるりとまわり、最新インストールの歌をうたいはじめた。
「わ、わっ!」
声をあげた者がいる。たくさんのモニタの前に立っている研究者だ。彼は慌ててまるで踊っているかのようにじたばたした。
「マオさん、やめてください! 計器が壊れますっ!」
「まぁ、失礼ね」
機器に目をやると明滅する数字の上昇が半端ではない。マオは渋々、口を噤んだ。
「ここの子たちは、皆ヴォーカル・アンドロイド……特にマオさんの声には、敏感なんですから」
「それは、もちろんそうだろう」
満足そうに設楽が言った。
「ここのヴォーカル・アンドロイドは、皆マオをベースにしている。言わばマオは、皆の母であり姉である」
マオは、小首を傾げた。そのような仕草を誰かが見ていれば、母や姉というよりも「妹」と言ったほうが正しいと思うかもしれないけれど。
「そんな中で、新しい仲間がマオの声に敏感でないはずがない。皆、早くマオに会いたがっている。一緒にうたいたくて、仕方がないのだ」
「楽しみ!」
マオはこのラボラトリの中では基本、うたうことを禁止されている。もちろん設楽が言ったような理由が主なのだけれど、ヴォーカル・アンドロイドの技術を盗みに来る輩もいて、そのための機密保護という理由もある。
「あたしも、早く……精いっぱい、うたいたい!」
「ああ、その夢はすぐに叶うよ」
マオの頭を撫でながら設楽は優しく言った。
「特に、今……もうすぐ目覚める、あのロジェは、特にマオと気が合うと思う」
「どうして?」
マオは首を傾げた。設楽はなおも優しい――しかしどこか怪しいものを感じさせる口調で言った。
「マオの細胞から、発生したアンドロイドだからだ」
「あたしの、細胞?」
そう、と設楽は言った。
「おまえの細胞を母胎に育って、あそこまでに成長した。マオの細胞なんだ、最高級の歌声を持っているに違いない……そうでないと、研究の成果もない」
マオは一歩、後ずさりをした。そう言ったときの設楽の顔が今までとは別人であるかのように感じられたからだ。まるで話しかけるのが恐ろしいかのような。
「……研究って、なんの研究なの?」
設楽の表情は、すぐにもとのものに戻った。優しくて、慕わしくて、マオをかわいがってくれる存在だ。
「ロジェは、すぐに生まれるの?」
「ああ、もうすぐだ」
「どのくらい? 明日? あさって?」
「マオは、せっかちだな」
ははは、と設楽は楽しげな笑い声を立てた。
「こどもがいつ生まれてくるかなんて、わからんよ。たとえそれがフラスコであっても、女の子宮であっても」
「フラスコ?」
マオは首を傾げる。そして大きな水槽とも、プールとも尽きかねていた、白濁した液体の満たされている容れものを見やる。
「そう、あれはフラスコだ。母体の役目をする」
「母体……」
「あそこから、マオも生まれた。ユーリも、ルネも、ゾエも」
「そして、ロジェもね!」
マオが明るい声をあげると設楽はああ、とうなずいた。その表情にはもう先ほどの暗さはない。
「あたし、ロジェにいろいろと教えてあげるわ」
張りきってマオは声をあげた。
「あたしに一番近しい存在なのだもの。あたしが先生になって、歌も、生活のいろいろも、教えてあげるの」
「頼りにしているよ、マオ」
設楽は言ってまたマオの頭を撫でた。ふわり、とマオの淡い珊瑚色の髪が揺れる。
(どんな子かしら、ロジェ)
わくわくとした思いとともにマオはフラスコを見やった。ぽこ、ぽこ、と泡のあがっているその光景からは、ロジェの目覚めはまだ遠いように感じられたけれど。
(早く、会いたい。そして、一緒にうたうんだわ)
――俺も、会いたい。
「……え?」
声が聞こえたような気がした。それは果たして、気のせいだっただろうか。