世界が滅んだくらいで
夜、透の部屋の窓からコツコツと音がした。すぐ隣の家に住む絵里が窓をつついているのだろう。何か言いたいことがあると、いつもこうするのだ。
「どうした?」
カーテンを開き、窓も開けると案の定絵里はいた。しかし、絵里はなぜか何も答えず、紙飛行機を透に向かって飛ばして来た。「これで話そう」ということらしい。絶対に直接話した方が早いと思うのだが、絵里はこういった型を用意して遊ぶのが好きなのだ。そして透は幼馴染の義務として、こういった事に付き合わなければいけないと決まっている。
飛ばされて来た紙飛行機を開いてみると、中にはこう書かれていた。
『明日、学校に行こうよ』
それを見て、透の頭には疑問符が浮かんだ。
『何しに?』
思ったことを取り敢えずそのまま書いてみたのだが、なんだかあまりにもぶっきらぼう過ぎる気がする。学校に行ったところで誰もいないのだから、こうとしか書きようは無かったのだが、それでももう少し内容をちゃんと考えてから書き始めれば良かった。だが、こういうのは速度も大事な要素のはずだ。とりあえず自分にそう言い聞かせると、また紙飛行機の形に折り直して絵里に返信してみた。
絵里は紙飛行機を両手で受け止めると、さっそく透の目の前で開き始めた。そして、すぐさま吹き出した。彼女はにやにやしたまま、こっちに視線だけを送って来る。「モテる要素がゼロだね」。目だけだというのに、そう言っているのがはっきり分かる。
「うるさいな、いいから返信寄こせよ」
実際には絵里は何も言っていないのだが、透としてはこう言うしかない。絵里は自分の机に向かって行ったが、すぐにまた窓際まで戻って来た。もう文章を書き足して来たらしい。意味ありげに、そしてなぜか自信に満ちた表情で再び紙飛行機を飛ばして来る。
『だって、せっかく同じ高校になったのに、結局一度も一緒に通えていないんだもん』
「ぐっ…!」
透は息を詰まらせた。絵里はにやにやしながらこちらの様子を伺っている。悔しいが勝てそうにない。そして当然、断れるはずもない。
『分かった、行くよ』
『ちゃんと制服着て来てよ。鞄とかも持って』
絵里は普通の学生ごっこをしたいらしい。
翌朝になった。まともに袖に手を通すこともなく、ただ箪笥の肥やしになっていた制服を透は着てみたのだが、鏡の前に立ってみるとどうもしっくり来ない。まだノリが効き過ぎているせいもあって少し着にくいし、やけに肩幅が大きく見えるのだ。だが、ここでいつもの私服で出て行ったら絵里から怒られてしまうだろう。まだ皺一つないワイシャツで着崩した格好にしてしまうのも変な気がするし、こんなものだと思うしかない。
玄関を出ると、絵里はもうそこにいた。
「おはよ」
絵里は朝の挨拶交じりに、ちょっとはにかんだように笑った。昨日はあんな手紙を送って来た上に、これだって自分で言い出したことだというのに、今の絵里は制服姿を見られたのが照れくさいらしい。そういう仕草を見せるのはズルいと透は思う。だがともかく、彼女は自分と違ってちゃんと制服を着こなせていた。
「おはよ。似合ってんじゃん」
「えへへ、そうかな」
透が言うと、絵里はまた照れくさそうに笑った。
「透の方はまあまあって感じかな」
「うるさいな、自分でも分かってるっつーの」
お返しのように絵里からは軽口が飛んで来たが、これはただの照れ隠しだ。
さあ、学校に向かおう。
「そういえば透に貸して貰ったマンガ、昨日読み終わったよ。おもしろかった」「そうだろ?」「うん、だから後で続き貸して」「いや、あれはあそこで終わりだぞ? 未完なんだよ」「え! なにそれ! 聞いてないんだけど!」「俺、最初に言ったからな? 『未完だけどいいのか?』って」「えー…? …じゃあ、あの後どうなるの?」「いや、俺に聞かれたってさ…。…まあ、たぶん、主人公の親友が裏切るんじゃないか? 変なセリフ、ちょくちょくあったし」「な、なんで! そんなわけないじゃん! ずっと協力してあそこまで来たのに!」「いや、二巻の辺りで不自然に姿が見えなくなっているシーンとかあったし、絶対怪しいって、あいつ――」
何でもない言葉を交わしながら物音一つしない住宅街を抜け、駅の地下道を潜ると、見えて来るのは商店街だ。もちろんここにも誰もいないのだが、それでも他の場所と比べればずっと華やかだ。足元には赤を基調としたブロックが並び、立ち並ぶ街灯は西洋のガスランプを模したデザインだ。何より、朝日が差し込んで来る誰もいない町並み、というそれだけで絵になる要因のおかげで、黙って歩いてみれば風景画の中に直接入り込んだような気さえして来る。
「あっ!」
すぐ隣の絵里が突然声を上げて、ある店の前でぴたりと足を止めた。
「あー…。一度くらい、学校行く前にここでパンとか買ってみたかったんだけれどなあ…。」
絵里は続けて悔しそうに口にした。そこは昔ながらの雰囲気を残した、個人経営の小さなパン屋だったのだ。当然、今はもう店の中には誰もいない。きなこの揚げパンが美味しかった。元気な太めのおばちゃんが名物だった。あまり客前には出て来なかったのだが、奥では旦那さんがパンを焼いていたらしい。絵里の言う通り、ここでおやつを買っていくのは、この辺りの学生にとってちょっとした楽しみであり贅沢だった。
「確かに、こういうのを見ちゃうと惜しくもなるな」
透は絵里の方を見ながら口にした。彼女は眉をひそめ、唇を少しとがらせている。小さい時から何か不満なことがあると、いつもこういう顔をするのだ。
「じゃあ代わりにコンビニ寄って行こうぜ。通学路から少し外れるけれど、ちょうどいいところにあっただろ」
「お、それも高校生っぽいね!」
絵里はころっと表情を変え、笑顔でこちらに振り向いてくれた。
「あ、でも、コンビニだとなんか不良っぽいかな?」
「はは、パン屋と何が違うんだよ」
変なことを気にする絵里に、透は笑って答えた。
コンビニに寄り、まだまだ棚に残っている菓子パンを適当に手に取り、改めて学校に向かった。さすがに味では焼きたての手作りパンには勝てないかも知れないが、こちらの方がむしろ高校生らしさはあるかも知れない。
いよいよ学校の正面、その正門前までやって来た。入学試験の時、そして合格発表の時以外には一度も来た事は無いが、それでも間違いなく自分の高校だ。そうとは分かっているのだが、まだ場所に自分が慣れていないというのか、なんだか入り難さのようなものを感じてしまう。勝手に他人の敷地に入ろうとしているような後ろめたさがあるのだ。
絵里も同じような気持ちを抱いているのかも知れない。こちらは透以上にカチコチに固まっている。
「よし、行くか」
「うん、行こうか」
自分を鼓舞するためにも透は切り出した。すぐさま頷いた絵里からは、まるで同じ言葉が返って来た。
そして互いに目を合わせ、呼吸を揃えると、同時に一歩を踏み出した。
門を跨ぐと、それだけでまた互いに何となく目を見合わせてしまった。終わってしまえばあまりにも大げさ過ぎた気がして、今度は一緒になって吹き出した。
ずいぶんとあっさりした入学式だったが、とにかくこれで高校生だ。
下駄箱を通り抜け、校内に足を踏み入れた。生徒用のこの正面玄関は間違いなく入試の時にも通ったと思うのだが、なぜかほとんど透の記憶には残っていない。どうやらあの時は受験生で混雑していたこともあって、ここの様子はまるで目に入らなかったらしい。そのせいもあって、つい物珍しく思えて辺りをきょろきょろと見回してしまった。なんだかよく分からないトロフィーや表彰状がいくつも飾られている棚、交通安全を呼び掛けるポスターやプリントの貼られている掲示板、よく見て行けば一つ一つは中学でも見たことのあるものばかりなのだが、場所が変わればやはり面白く見えてしまうものだ。
「おお…。これ、美術部が描いた絵なのかな? やっぱり上手いなあ…。」
絵里は「水を大切に」と、節水を呼び掛けているポスターの前で足を止め、まじまじと眺めている。水滴、波紋、そして標語が描かれているだけのシンプルなデザインでしかないのだが、中学生が描いたものとは光の表現がやはり違う。水の柔らかさまで感じられるのだ。単純で、構図としてはどこにでも有り触れているものだからこそ、純粋な力量の差がはっきり分かってしまうものらしい。
「まずは探検がてら美術室にでも行ってみるか?」
「え? あっ、いや、やっぱり教室! 普通に学校に登校しに来たんだもの!」
夢中になっているらしい絵里に透は言ったのだが、彼女は我に返ったように跳ね上がるとそう答えた。自分の始めた遊びに対してさえ真面目なところがあるというのか、そこから外れるようなことは出来ないらしい。
さらに細い記憶の糸を辿り、二人はなんとか教室の並んでいる区画までやって来た。
「確かこの教室じゃなかったか? 試験受けたの」
「透、よくそんなの覚えているね。…あー、でも本当にここかも。窓からのこの景色、なんとなく見覚えがあるかな」
クラスの札を見るに、試験会場だったここが一年生の教室でもあったらしい。絵里は確かめるように窓の方へと駆け寄った。彼女が窓を開ければ、爽やかな風が吹き込んで来る。透も絵里の隣に並んだ。目の前に広がるのは真っ青な空だ。日の光に燦燦と照らされているグラウンドでは、砂粒の一つ一つがきらきらと輝いている。もうすぐ八時半。本当だったらもうそろそろ先生がやって来て、大して内容のないホームルームを始める時間だ。だが、今は別にそんな慌ただしく動く必要もないだろう。
「あ、そうだ! もうそろそろ一限の時間じゃん! 透、勉強しよう!」
しばらくして、絵里はまた我に返ったように動き出した。だが、絵里の口から飛び出して来たセリフは透でさえもまるで予想していなかったものだった。
「え、えー…。そこまでするのかよ…。」
なんだかんだ言って付き合いの良い透とはいえ、これにはさすがに乗り気になれない。もう適当な席に座ってはいるのだが、これはただくつろぐためで、断じて勉強するためではない。
「だって学校は勉強するところなんだから! えっと、時間割は――あっ、今は数学だって!」
しかし絵里はまるでこちらの言葉には耳を貸さず、黒板脇の掲示板まで飛んで行って口にした。
「ほら! 早く教科書出して!」
「そんなもの持って来てねえよ…。」
絵里はまた飛ぶように戻って来て、きびきび仕切るように言うが、透としては何も出来ない。言い訳させて貰えるならば、あんなに嵩張って重いものをわざわざ持って来ようと思うはずが無い。
「あーあ、あんなに優秀な透くんだったのに…。高校の授業速度に付いて行けず、今やもう授業中に教科書を開くことさえしないほどに落ちぶれてしまうなんて…。」
「やめろ! その情けない設定!」
呆れ顔で言う絵里に透は言い返した。ただふざけているだけとは分かるが、妙に生々しいのだ。
「じゃあ仕方ないから、お隣の絵里ちゃんが教科書を見せてあげましょう」
絵里はそう言うと、透の隣の席をガタゴト揺らしながらこちらに寄せて来る。透も仕方なく、絵里の机に自分の席をくっつけた。そして、二人の席の真ん中には絵里が鞄から取り出した数学の教科書だ。
「うわあ、本当に出て来たよ…。」
透は思わず呟いた。
「ふふん、準備が良くて親切な子がお隣で良かったね」
「数学が一番苦手なくせに…。」
「ふん。そんなの中学までの話でしょ? 高校生になったら違うんだから」
どこからその自信が湧いて来るのだろうか。ともかく、二人で一緒に教科書を開いてみた。
言い出しっぺの絵里は当然としても、流れで透も頑張ることになってしまった。というよりも、絵里はこちらに数式の意味を尋ねて来るのだ。頑張らないわけにはいかない。
「どういうこと、これ?」
「俺だって初めて見るんだからちょっと待ってくれよ…。えっと、たぶんさっきの公式の話をしているんだろ? それで、とりあえずここまでは出来るだろ? それで…、…んー?」
「…私たち、なんか見逃してる?」
「…そうかも。少しページ戻ろう。たぶん、簡単だからって適当に読み飛ばした辺りに何か書いてあるはず…。というか、そうじゃなかったら分かる気がしないぞ、これ…。」
言い出した絵里だって半分くらいはおふざけだったと思うのだが、二人して思っていたよりも熱中してしまった。大事そうなら分かっていることでも取り敢えず黒板にメモを取り、あーでもない、こーでもないと言い合いながら教科書とのにらめっこを二人で続ける。今まで話半分程度にしか聞いた事のなかった授業と比べれば、ずっと真面目に頭を働かせたのは間違いない。理解の仕方も普段と比べればずっと深いだろうと自信を持って言える。だが、とにかく進まない。
「もう無理。疲れた。しんどい。甘いものが食べたい」
絵里が机に突っ伏したまま言葉を漏らした。透だって似たようなものだ。
「これ、やっぱり一気に読み進められるようなもんじゃないぞ…。」
まともに学生をしていた頃は、「毎日毎日とんでもない時間勉強させやがって」、と思っていたのだが、やはりあのくらいの時間を掛けないと出来ないことをしていたらしい。とてもではないが、今日の数学はこの辺りが限界だ。
目が疲れたこともあって、視線は自然と窓の外へと向いた。青空の向こうでは雲が一つ、のん気にゆったりと飛んでいる。
「あー…。でも、高校のテスト前ってきっとこんな感じなんだろうな」
透は口にした。きっと、普段の授業では先生の話なんてまるで聞いていないような人間が急に危機感を覚えて放課後に集まって、大して成果の挙げられない勉強会でも開くのだ。
「あはは、そうかも」
絵里も顔を上げると、笑って答えた。
「ファミレスに集まって勉強している高校生とか、なんかすごくイメージしやすいもん。ドリンクバー片手にさ。というか、マンガとかでもよく出て来るシーンなんじゃない?」
「はは、確かに。金は無い、行動範囲もそんなに広いわけじゃない、遊び道具がある場所だと勉強できない、でも適当におしゃべり出来るくらいの場所が良い。そうなると、自然とファミレスとかになるんだろ」
透も笑った。こんな話をしていると、それだけで腹が減って来る。
「よし! もう飯の時間! 勉強終わり!」
透は席を立つと声を張り上げた。
「どこ行くの? あ、ここって食堂があったんだっけ?」
絵里はまだ机の上でぐてっとしたまま動かない。
「まあ食堂もありなんだけどな。絵里の言うような学園ものだと、もっと定番っぽい場所があるだろ?」
二人は教室を出ると、近くの階段を上った。やはり屋上こそ、高校生活の昼休みを過ごすにはうってつけの場所だろう。
「あれ、立ち入り禁止だって」
「そんな無粋な貼り紙は無視!」
透は気にも掛けず、ドアノブの鍵を開けた。
「あー、いけないんだー。勝手に開けるなんて不良なんだー」
そう言いながらも、絵里はにこにこ笑っている。
「青春ものではいつも主人公たちだけで屋上を占拠しているだろ? あれっていうのは、本当は立ち入り禁止だから一般生徒が来ないだけなんだぞ。もしそうじゃ無かったら、みんなこんな良い場所を見逃すはず無いだろ?」
透は適当なことを言いながら、建付けの悪くなっていた扉を無理やり開けた。
相変わらず真っ青な空だ。だが、教室の時よりも日差しをずっと強く感じる。風も地上よりは強いかも知れない。そして何より、視界を遮るものなど何もない。教室の時とは違い、グラウンドを越え、道路を越え、さらにずっと先まですっきりと見渡せる。晴天はまだまだ続くのだろう。少し歩いただけで来られる場所にしては十分過ぎるパノラマだ。
「あはは、本当に良い場所じゃん!」
絵里の言葉と共に、二人は新天地を踏み締めた。
「えーっと…、あっ! あっちが駅の方だね!」
絵里はきょろきょろしてから、目の前に広がる町並みを指差し口にした。
「じゃあ、あれが商店街の通りだろ? それで、あの辺りがさっきのコンビニかな」
透も絵里と同じ方向を眺めながら答えた。こうして高台から望むと、今日はもう十分にあちらこちら探検した気になっているが、実はたいした距離は歩いていないらしい。やはり、何か新鮮な目的があるというのは、それだけで充実感を生んでくれるものなのだろう。いつもだったら目にも留まらなかっただろうものを、今日はもう既にたくさん見つけた気がする。
「うーん、さすがに家までは見えないなあ…。」
絵里はまだ目を凝らしている。
「とりあえずもう飯にしようぜ」
透は言いながら、適当な場所に腰を下ろした。さっきから腹の虫が鳴っているのだ。
「あー、新品の制服なのに地べたに座ってー」
「良いんだよ、どうせいつか汚れるものなんだから」
「もー」
こちらへと振り返りながら絵里はうるさいことを言う。透の答えに対しても不満そうだ。彼女は唇を尖らせたまま自分のハンカチを取り出すと、それを透の横に敷いて、その上にちょこんと座った。なんだかんだ言っても、こういう所がやっぱり女子なんだなあ、と透は思う。ただ、口には出来ない。
「普通に学校やっていた時も、こういう風に勝手に入って来ていた学生っていたのかな?」
「どうだろうな。でも、やっぱりほとんどここに来る奴はいなかったと思うぞ。そこの扉閉められたら終わりだし」
「あー、確かに。くつろぐ場所にしては、ちょっと落ち着かないかも」
絵里は笑った。風が吹く。見える町並みは静かだ。
午後からは校内の探検に行こう。「これも授業の一環」という体にすれば、絵里だってきっと納得してくれるだろう。もうこれ以上勉強するのはこりごりだ。
「おー…。ここが美術室か…。」
今朝コンビニで用意して来た食事を済ませ、のんびりした昼休みの時間を終えると、二人は美術室へとやって来た。やはり絵里は朝から気になっていたのだろう。いつもより少しそわそわしている。だが、その表情は期待にも満ちている。
「美術部って、こういう所に作品飾ったりしないのか?」
透は部屋に入ると、中の様子に目を奔らせながら口にした。壁や柱に絵が飾られているものだろうと思っていたのだが、意外にもそこらには何も無い。教室の後ろの方には、肩から上だけの石膏像がいくつか並んでいる。だが、さすがにこれは生徒の作品ではなくデッサン用のものだろう。絵の具の匂いは残っているのだが、肝心の作品が見当たらない。
「中学の時はみんな持ち帰っていたんだ。置いておくのは制作中の作品くらいにして。部員の数にもよるけど、飾る場所なんてあまり多くないしね。たぶん、ここでも同じだったんじゃないかな」
絵里も部屋に入って来て、きょろきょろと辺りに目を巡らせながら口にした。
「そっか。それじゃあ、あんまり作品を見るってことは出来ないんだな。せっかく来たんだけれど」
「まあ、そうかも。制作中の作品を勝手に見るのは悪い気もしちゃうしね」
絵里はそう答えた。正直、このあたりの感覚は透にはよく分からない。だが、実際に絵を描く絵里がそう言うのだから、きっとそうなのだろう。美術室に強い関心を持っていたのは自分ではなく絵里の方なのだし、ここは彼女の意見を尊重するべきだ。
「なんとなく、その辺りにありそうな気もするんだけどな。そういう創りかけの作品」
それでもやはり、もしかしたらと思うと気に掛かり、透は黒板脇にある扉を指さした。その扉の上には、「美術準備室」と書かれた札が張られている。
「あはは、まあね」
絵里は笑った。そうして少し間を置いた後、また今朝のように互いに目を見合わせた。
「…どうする? 入ってみるか?」
「えー? どうしよっかなー?」
透は切り出したのだが、絵里ははぐらかした。だが、その目は期待を込めてこちらに向けられている。小さいころからいたずら含め、何かする時はいつだって透に先陣を切らせようとするのだ。つまり今の曖昧な返事は、「透が先に扉を開けてよ」という意味だ。
「よし、じゃあ行くぞ」
絵里の期待に応えて、透はその扉のドアノブに手を掛けた。
そこは決して広い部屋では無かった。ただの倉庫代わりに使われていただけのようだ。壁際には大きな棚があり、そこでは段ボールがぎゅうぎゅう詰めにされている。中には画材などがたくさん入っているのだろう。そして、きっと美術部員が描いていたのであろう製作途中の絵は、その棚の前にいくつも並んでいた。風景画、人物画。どれも思い思いに描かれている最中だった作品たちだ。
「あ、これ…。」
絵里も続いてやって来たのだが、すぐに足を止めた。透も絵里と同じく、その絵に目を奪われ既に足を止めていた。
そこに描かれていたのは、ついさっき二人が眺めていた屋上からの景色だった。しかしその絵の中は、今はもう見ることの出来ない賑わいに満ちている。もはや自分たち以外には誰も歩くことのない歩道だというのに、そこでは下校中の学生たちの姿が途切れることなく続いていた。ここからでは彼らの後姿しか見えないというのに、彼らの談笑する声、放課後の自由を満喫しに行く軽やかな足取り、そういった雑多で、でも楽し気な音までもが確かに耳の奥で響いた。
しかしその一方で、グラウンドの景色はまだ描かれてはいなかった。きっとここには、部活動に打ち込む生徒たちの活気が描き込まれるはずだったのだろう。それは少し寂しくもあったが、その空白はむしろ、下校する学生たちの賑わいを際立たせてもいた。
「この絵、たぶんさっきのポスターの人だ」
絵里が再び口を開いた。
「分かるのか?」
「うん、たぶんだけどね」
絵里はまだ静かにその絵を見つめている。透も彼女に倣い、その絵の空気に浸った。
「良い絵だね」
しばらくしてから絵里は口にした。その指は名残惜しそうに、その絵の空白部分にそっと触れている。
「そこ、少し残念だけどな」
「うん。でも、完成していたらこの絵と出会うことは無かったような気もするし」
絵里はこちらに目を向けて、微笑みながら軽くそう言った。透は笑ってしまった。その通りだ。絵里の言うことはきっと正しい。
「ふふっ、もう行こっか?」
「おう、まだまだ見ていない場所はいっぱいあるからな」
明るくそう口にする絵里に、透も笑って答えた。
もう自分たち以外には誰もいない。だが、それはただ、それだけの話だ。かつての世界を思い起こして感傷に浸っても良い。だが、別にそうしなければいけない訳でも無い。残されて行ったものは無限にあり、自分たちは一人にはならなかったのだ。
「透、今日はありがとうね」
もう学校の探検も終え、家への帰路に就く中、絵里は口にした。
「いや、俺の方こそ今日は楽しかった」
透は答えた。気が付けばもう夕暮れ時だ。思っていたよりも随分と長い時間を学校で過ごしてしまった。それほど互いに夢中になっていたということなのだろう。
「明日もまた学校行くか?」
透は尋ねたのだが、絵里は首を横に振った。しかしその顔には悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。
「明日は学校お休みだよ。だって、土曜日だもん」
「あ、そうなのか」
答えながらも透は吹き出してしまった。確かに、それなら休日らしく過ごさなければ。
「じゃあ明日は久しぶりに街の方に行ってみようぜ?」
「えー? それってデートのお誘い?」
絵里はおどけて言う。一瞬押されてしまったが、ここで負けてはいけない。
「まあ、そういうことだ」
「…ふふっ、分かった。じゃあ明日はデートね」
絵里は笑ってくれた。
透は思った、きっと楽しい週末になるだろう。
そして、週明けからは再び学校生活が始まるのだろう。それもきっと悪くはない。