1
100万円の札束を見たのは、その時が初めてだった。
真新しい茶封筒に簡単に閉じ込められたソレを発見した時、僕はとんでもない喪失感を覚えた。
床に引っ張られる未知の力を、なんとか細い意識の糸で耐え、腹から登ってくる胃液を、唾液の溜飲で押し留めた。
100万円の札束は、帯を巻いたのが5つ。500万円だった。手の平大の紙がしめて500枚。僕はここにある500枚分の価値のあるものを失った。
夕景の赤い色調に満ちた部屋の中で、じわじわと襲い来る焦燥の闇に蝕まれ、僕はその色彩がなくなっても只々、立ち尽くしていた。
一が十で、十が一。知識や情報は価値観で変わる。興味のあるものが急に色褪せたり、そうでないものが多彩に見えたり。僕は随分と色褪せていた。今まで生きてきた16年間ずっとそうだった。だからと言って、なにか特別にしたことは……まぁ、一つくらいしかなかったわけだが、その一つだって大したことのない。親からずっと『目立たない様に生きろ』と言われ続け、それが当たり前のように思っていた。
普通に生きる。芸能人やスポーツ選手は、一握りの人間しかなれない。才能のない人間は身の丈に見合った生活をしていくしかない。まして、うちは貧乏なので人並みの幸せを生きさえすれば幸福なんだよ。
簡潔に言えば、父親はこういう事を説明したかったんだろう。才能云々のことは言わなかったが、僕が目立つ行動をした時は酷く怒られた。
興味を持ったものは、いつも色を失った。
今日は、6月7日。高2の僕は弁当の入ったビニール袋を片手に帰宅した。8時を少し回ったぐらいだった。どうでもいい事で街をフラフラして時間を潰す。それが日課だった。僕の家は四階建てアパートの屋上にあるあばら屋だ。物置きを縦と横に足した感じの建物で、僕が言うのもなんだが人間の住むところではない。工事現場の詰所に近い。そんな場所だが一箇所だけ長所がある。二階の部屋は壁の一部から天井にかけて大きなガラス窓になっていて、星の天蓋が見渡せるのだ。
少しのすきま風を除けば、部屋に寝転がりながら何も考えずに夜間の展望を楽しめる。散らかったゴミや衣服と一緒に、買ってきた飯を食うのも忘れて、僕は大の字になる。色々なことが頭を巡って、その度に必死になって夜空を眺めた。答えを探していたのではなく逃避だ。答えなど、どこにもないのだ。
今日は月は見えども、星の見えない空だった。
その黒い空に強い光が流れた。流れ星。思わず呟いてしまった。そして言葉を失う。黒いキャンバスに白い絵の具をぶちまけたかの様に、夜空は一斉に瞬き、生き物のように幾筋の尾を付けて流れていた。数は、数十、百はあろうかと言うほど。それが、10秒近くにかけて空を駆け抜けていった。僕は、暫し思考を失いそれを見入っていた。
「十口。夜、エロ本ばっか読んでんだろ」
翌日のホームルーム終わりに、三倉が声を掛けてきた。三倉は所謂、八方美人な男で、付き合いも浅く広い。三倉を嫌いな奴はいないが、これといって深く好かれもしない。僕が、午後からの授業を殆ど睡眠に費やしていたのを、後ろの席から見ていたのだろう。
ちなみに、十口は僕の苗字。十口現人『とくちあらた』がフルネームだ。
「……お前と一緒ににすんな」
そう返した僕を意に介さず、三倉はカバンからカードくらいの紙を何枚か出した。
「じゃーん。これなーんだ?」
「スクラッチ」
考える事もない。見ただけでわかる。高額当選型のスクラッチカードだ。三倉は手に持った10枚のカードのうち5枚を差し出し、僕に削ってくれ合図した。お前の寝姿と居間にある『寝招き猫』が重なって見えたとか言う。三倉は幸運のコインと言って、近所のゲーセン『ハッピーラッキー』の刻印のある店内コインを、僕に渡した。
麻雀牌、サイコロ、トランプ、それと文字が二つ。3×3の9マスのうち何処かに一列に揃えば良いらしい。文字はクズと、
「こうこ……」
「僥倖。すっげー良いってこと」
僥倖。たしかに。これが揃えば500万円だ。
「……」
「……どした。十口?早く削れよ」
「……ああ」
紙の上のゴミを払うように、僕はコインを動かす。こんなもの当たるはずがない。サラッと9つのマスを削る。
「お、おい。十口。それ」
三倉は目を丸くして、僕の削ったカードを見つめる。
「当たってる。お前、なんで当てるんだよ」
僕もカードを見つめる。
「あ、1000円当たりだ」
サイコロが揃っている。三倉曰く、100分の1の確率で当たるようだ。三倉曰く、
「それが当たると他はハズレなんだよ。100分の1だぞ。残りの9枚が1000分の1とか、10000分の1が当たる訳ないだろ」
「確率だから、そうも言えないだろう」
「言えるんだよ。俺は今までそういう風に当たったことねぇもん」
「運がないだけじゃないのか?僕が当てて悔しいのは分かるけど、急に怒るなよ」
僕は、そう言って幸運のコインを三倉に渡す。三倉は流れるようにハズレカードを作った。三倉は、もう一枚カードを削った後、無言でコインを渡す。
僕が二枚目のカードに手を掛けた時、三倉は呟くように言った。
「最近。お前……変じゃない?元気ないっつーか。なんかあった?」
僕は、三倉の問いに答えなかった。代わりに削ったカードを見せた。
「二枚目」
僕は、合計3100円のクジを当て、三倉は0円。勿論、当選カードは三倉に返した。
教室を出て帰路に着いた僕等は、昨日の流れ星の話しをしていた。僕はあえて確認していなかったが、テレビやネットでも騒がれていないらしい。そんなはずはないと言った僕に、三倉はスマホのネットニュース欄を見せてくれた。確かに、流星群とも言える昨日の現象はどこにも載っていなかった。
三倉は、陰謀説を推してYouTubeに投稿しようと、有り体なことを言って盛り上がった。元以上の金額が返ってきて、すっかり機嫌は戻ったようだ。
僕らの歓談をすれ違う怒号が遮る。
慣れ始めた一年に、一喝を入れる野球部だった。ネット越しのグラウンドに一列に並んだ後輩に、部長であろう先輩は根性論とも言える檄を入れていた。
「そこまでしてやりたいものか?」
僕は思ってもない言葉を口にした。三倉の反応に期待していた。なにせこいつも帰宅部だ。口八丁の惰弱精神論で、僕を納得させてくれるだろう。
「十口。お前は根っからの逆熱論者だな」
三倉の言葉に多少苛つく。やりたくない訳ではない家庭の方針だ。僕は反論する。
「じゃあ、なんでお前は部活に入ってないんだ?お前が、熱血バカならやってるだろ普通」
「なのなぁ、勿体無いだろ。部活に入ったら。楽しいんだぞスポーツは。いや、文化部含めて」
?言っている事がわからない。僕は、コイツの会話が理解ほど頭が悪くなったんだろうか?
「何か馬鹿を見る目で見てないか?十口。つまり俺が何を言いたいかというと、あれだ。つまり、『やるより見る方』が楽しいってことだ」
「やりたくないんだろ」
「違う。十口。バカ、全然違う。ドラマだよ。さっきの野球部の檄入れしていた先輩、分かるか?去年の関東5位のエースだよ。今シーズンに入って肩を怪我したんだ。そいつが、一年の中の全中3位の投手に、隠れたエールを送ったんだ。熱いだろ」
「……そうなのか?なら、野球部に入ればいいだろ。うちは強いし」
「だから、入ったら他の部のドラマが見れないだろ。高校ってさ、近接ドキュメンタリーの宝庫なんだぜ。俺はその為にここに入ったんだから」
「なんか、ああ、意外だ。お前が部活に入らないのに理由があるなんて。良いのか、僕なんかとこのまま帰って」
「気にすんな。十口。情報網はしこたまあんだ。今日は、女子バレー部の桜井とサッカー部のキャプテンのスキャンダルでお腹一杯だ」
どうりで、僕なんかと帰りたがるはずだ。三倉は、いくつかのグループを転々とする風来屋だ。理由があると思っていたが、なんだ、傷心って訳だ。僕が腑に落ちていると、前から走って来る女子の団体にふと、違和感を覚える。20人くらいの集団だが、その中の2人がこちらに小さく手を振っているのだ。そのまま、集団は通り過ぎる。知り合いではなかった。そもそも、僕のクラスに女子陸上部はいなかった気がする。しかし、僕の目の端は正解に辿り着くピースを見つける。三倉の右手だ。三倉の右手が未だに左右に揺れる。
「お前っ」
「おい。ちょっとだけ寄り道していかないか」
三倉は力強く、僕の首に腕を回した。