安全地帯
「あっ、虹の小便」
「天気雨って言えよ。せめて狐の嫁入り」
東京ドームシティにある飲食店で昼食を食べて、本屋に向かう途中だった。
晴れているのに雨が降ってきた。
予報では雨の降る時間も短く、大半を屋内で過ごす予定だったので、この日もお互いに傘を持ってきていなかった。
「優、早く。信号赤になっちゃうよ」
「間に合うか?次のでいいじゃん」
「メイクが崩れちゃうの」
桜に急かされて走った。
だが、桜がヒールを履いてきていたので、彼女のほうが走る速度が遅かった。
「赤になっちゃう。ここで止まろう」
「ここで?」
距離の長い横断歩道の真ん中には、安全地帯と呼ばれるエリアが設けられている。
僕らはそこで足を止めた。
信号はすでに赤になっていたが、他の大勢の歩行者は無視して渡りきろうとする。
車も当たり前のように停止している。都内ではありふれた光景だ。
僕と桜は、2mにも満たないような細い安全地帯で、信号が青になるのを待った。
「この程度の長さの距離で、ここに立ち止まってる人みたことないわよ。ほら、私たちしかいないじゃん」
「必要な人もいるんだよ。でもこの細さだと、少しひやひやするな」
「さっきの渡れたわよ」
「君といる時に、赤信号を渡るのはやめると誓ったんだ」
「なにそれ。ねえ周り見て。恥ずかしいよ」
今日は休日で人も多い。
僕らの両サイドでは、傘をさしながら多くの人が信号待ちをしていた。車も次々と目の前を通り過ぎていく。
僕らは孤島に取り残されたみたいだった。
雨が本降りになってきた。信号はまだ変わらない。
桜を見ると、雨で濡れた髪の毛が額に貼り付いていた。
桜も僕の額を見ている。
雨に打たれながら。
僕らは目を合わせて、笑った。
なんだか、おかしかった。
前を見ても後ろを見ても、道路の両脇には大勢の人がいるというのに。
僕らだけが手を繋いで取り残されている。
ひと目もはばからず、肩と肩を寄せ合った。腰に腕をまわした。
また二人で笑った。
バカップルは、しあわせだ。
今までの人生は偽物だった。
浅ましいと思っていたバカップルになった、今の人生が本物だった。
バカップルは、自分達の幸せをみせびらかしているのだとずっと思い込んでいた。
幸せを誇示しているのだと思っていた。
全くもって、逆だった。
誰も、見えていないんだ。
バカップルにとって、他の人は全て、透明人間だ。
だって、隣の人が笑ってくれることが全てだから。
今まさに、隣の人に人生を救われているのだから。
他人が見えていないように。
僕たちが抱えている幸せの全ては、他人からは見えないのだ。
目の前の人が、どんな痛みを抱えているかも知らずに、幸せだと決めつけてはならないように。
目の前の人が、どんな幸福を抱えているかも知らずに、不幸だと決めつけてはならない。
自分の人生を、精一杯生きなければいけないのは。
世界のことを、少しでも分かってあげられるようになるためだ。
他所で笑っている人たちを許せるような、隣にいる人を笑わせてあげられるような、自分になるためなんだ。
くだらない、答えかもしれないけれど。
僕と、彼女を傷つけた男に、決定的な違いがあるとしたら。
僕は彼女を、笑わせた。
異性としての魅力が減ってもいいから、ふざけたんだ。ただ、目の前の一人に笑ってほしいがために。
結局は、彼女の言葉で、僕もたくさん笑わせてもらった。
僕は、自分が笑うことと、誰かが笑うことを望むという、極めて平凡な日常への願いを持ち続けた。
お腹を抱えて笑わせることが難しくても。
ひとりでいるときに、くすっと思い出し笑いができるように、やさしくできたらいいなと思う。
彼女にずっと笑っていてほしいと思う。
今日帰ったら手紙を書こう、と思った。




