東武動物公園
社会人1年目の夏。
天気、晴れ。
「次は、東武動物公園。東武動物公園。お出口は、右側です」
神田桜が改札を出ると、髪を角のように逆立て、七三分けをしている男がいた。
「うわ、本当ありえない!やめて!」
「遅刻したバツだから。今日はこれで行くから」
「同期とご飯食べに行くって言ったでしょ!盛り上がっちゃったの!」
社会人になってから10回目のデートだった。
期間に対する回数としては、実は少ない。
それには理由があって、桜が習い事をはじめたり、社会人サークルに入ったり、ボランティアに行ったりしていたので、都合が中々あわなかったのだ。
桜の前では拗ねたふりをすることもあるが、彼女が新しい人間関係に飛び込むべきか迷っている時に、僕は精一杯背中を押した。
1番大切なものを大切にすることは、2番目以降に大切なものを犠牲にすることなんかじゃない。
彼女には、この世界のあらゆるところに居場所をつくってほしかった。
親を除いた桜の居場所が、僕しかなかったとしたら、僕がいない時には彼女は居場所を失ってしまう。
僕では対応できない相談だってあるかもしれない。
僕と喧嘩するのを怖れて、言いたいことを我慢してしまうこともあるかもしれない。
他に素敵な男でも見つけたらどうしようと不安になることもあるけれど。そう不安に思うからこそ、僕は桜にふさわしい人間になろうという思いを抱くことができる。
昔の僕では信じられないくらい立派なこの思いが桜に通じているのか、遊んだ帰りにはいつも桜から丁寧なお礼のメッセージが届いた。
目の前の一人を大事にすることは、この世界を大事にすることでもあるんだ。
この世界を大事にすることは、この世界で生きている一人を大事に思うことでもあるんだ。
一人でも生きていける二人が、それでも二人で手を取り合って、多くの人たちと生きていくんだ。
「今日、晴れてよかったね。天気予報に、サプライズはいらないからね」
降水確率は10%だった。
僕と桜はバスに乗った。
「会社の人と随分仲良いな」
「社会人デビューってやつね。先輩も同期も、かなり人間関係に恵まれてるよ。最初は気を遣いすぎて精神クタクタになったけど、優の真似を取り入れてからなんか馴染みやすくなった気がする」
「何かしたの?」
「この前ね。ゲストスピーカーが来るから同期と機材のセッティングをしてたんだけど。マイクテストをする時に『本日は晴天なり。本日は晴天なり』って雨の日に言ったら、1人にだけウケた」
「1人だけかよ。というかそれが俺の真似かよ」
「でも、優の真似ばかりしてもいけないなって思った。その日は他社の人たちも来てたんだけど、講師の人が『本日はお足元が悪い中、お越しいただきありがとうございました』って深々と頭を下げたの。その姿を見て、やっぱり雨の中わざわざ来てくれた人たちに心から労をねぎらうことって大切だなって思った。誰かさんは、そんなの言うのはブラック企業だとか言ってた気がするし」
「本日はお日柄もよく、新郎新婦並びにご両家の……」
「話題転換に結婚式のスピーチをはじめない」
東武動物公園についた。
遊園地と動物園が併設されている大きなレジャーランドだ。
優は幼い頃に何度か訪れたが、来客数が昔に比べたら減っているみたいだった。人混みが苦手なのでありがたくも感じるが、以前のように人でいっぱいになってほしいと素直に思う。
広場に、桜が100円ショップで買ってきたシートを敷いた。
今夜は花火大会がここで開催される。
「ごめん、花火のための特別席、もう予約でいっぱいだった」
「そうだったんだ。なるほどなるほど」
「何がなるほどなんだ?」
「電車の中でみんなスマートフォンいじってるから、何をやってるんだろうって思ってたんだけど。東武動物公園の花火の特別席を予約していたんだなって」
「世界はけっこう素敵なスマホいじりをしてるんだな」
花火までの時間、動物園で時間を過ごした。
ライオン、キリン、象、ヒグマ、ホワイトタイガー。王道ともいえる動物から、珍しい動物まで見てまわった。
「遊園地もあるんだね、ここ」
「うん。ねえ、桜」
「何?」
「今度行くときは、遊園地と動物園、どっちがいいですか?」
「そんな聞き方しなくたって、あなたとなら、どこにでも行きたいよ」
でも遊園地がいいかな、と桜は答えた。
彼女はずっと笑顔だった。
あっという間に夜になった。
思っていたよりも人が多くて、シートの場所に着くまでに時間がかかった。
みんな、楽しそうな表情をしていた。
花火を求める人は、一緒に花火を見る人との時間を求める人達だ。幸せになることを、受け容れている人たちだ。
音楽とともに、花火が打ち上がった。
若い人たちが喜ぶような選曲や演出があり、ここにたくさんの人が訪れることを願う企画者の想いが伝わってくるようだ。
一面に花火が咲くと、目の錯覚で、手を伸ばせば届きそうに感じた。
視界に何か写り込んだとおもったら、同じことを思ったのか、桜の手だった。
花火に手を届けるのは諦めたのか、僕の頬を少しつついて、手を引っ込めた。
この光景の中にいて、思う。
もう自分から、不幸を求めたりしない。
僕はいつか、何者かになれるのかなと、不安だった。
だから暗闇に自分を浸して、影の人生を生きることを自ら望んでいるのだと自分に思わせようとした時期があった。
過去に拘泥され、悲しい世界、憂鬱な世界に身を置くことで、心が落ち着くとしても。
陽のあたる世界の住人は自分を理解できなくて当然だと下に見ることができるとしても。
自分は特別な存在だと浸ることができるとしても。
絶望している人たちの心情を把握して支配できるようになるとしても。
もう僕は、幸せな凡人でいい。
誰かの一番であれば、何者でもなくてもいい。
美しい景色を共有するだけの、ありきたりなカップルでいい。
こんな幸せを手に入れてしまえば、僕はきっと何かを成し遂げる人間にはなれなくなるだろう。
妬むこと、怒ること、見返そうと思うことも、なくなってしまうだろう。
それで、いいと思った。
守るべきものがあるから強くなれるなんて、嘘だ。
守るべきものがある人は、それらを危険に晒したくなくて、戦地に赴かない。
僕はこの幸せな日々に溺れ、陽のあたる世界で笑いながら生きていくのだろう。
世の中は、理不尽で不条理な場所だから。幸せになってはいけないはずの人が笑っていたりする。
だとしたら。どうあがいても幸せになれなかった僕たちが、幸せになることだってあってもいい。
理不尽なんだから。
不幸な運命を押し付けられて当然の僕たちが、神様に贔屓されるような時があってもおかしくない。
雨の続く人生に、笑ってもいいんだ。
「なあ、桜」「ねえ、優」
二人は同時に口を開いた。
お互いの言いたいことはわかっていた。
傘に電話番号を残した僕が何を伝えたかったのかも、今、わかった気がした。
「鈴守、捨てにいこっか」




