毎日言葉の反省会を
二人は公園についた。
屋根のついているベンチに座ると、優は日記を桜に手渡した。
桜はそれを受け取ると、よく捨てずにおけたね、とつぶやいた。初めて中身を見るとも。
桜は熱心に読み込んだ。
過去(別人格?)の自分の日記とはいえ、ありのままの心情を綴った日記を見られるのは恥ずかしく思った。
桜も優に対して、日記に書かれていない出来事も補完しながら、過去を説明した。
あまりにも詳しく、鮮明に映像が浮かぶように語った。
それは、単に彼女の語り方が上手だというだけではなく。
その想い出に縋るように、あるいは逃れられないように、何度も何度も孤独の時間に反芻してきたからなのだろう。
「幼馴染に至るまでの全ての人間関係を失ったあとに、私、またあなたに接近したんだよ。けれど、学食で隣に座って話しかけては無視されて。昔傘を拾ってくれたことを感謝する奇跡の再会を装ってもその想い出自体を忘れられてて。教室で隣に座っても、一向に名前さえ覚えようとしてくれない。皮肉なことに、私、あなたのストーカーみたいになってた。そういえば、あなたが今使っている青いボールペンだって、私があげたのよ?」
「日記にも書いてあって驚いたよ。ずっと自分のだと思いこんでた」
「皮肉だね。誰にも気づかれず人のものを奪うことのできるこの力を失うと。自分が人にあげたものを、もとからその人が持っていたことにされてしまうんだから」
「申し訳ないんだけど、話しかけられた記憶が全然ない。君との関係が崩壊した後の日々のことだよね。僕が想い人の日記を見ることを君に依頼するよりも前の」
「遠ざかり現象のせいよ。あなたが私を再び見てくれるようになったのは、皮肉なことに、私が再び透明人間になる姿をあなたが目撃してからのことだった。中学時代の想い人への執着が強すぎるあまりに、日記を見る手段としての私に強烈な関心を抱いたのね。それでやっと、マイナスだった関心度が0へと戻った」
「関心度がリセットされたなら、そこからアプローチしてくれてもよかったじゃないか。なのに、俺に対してずっと冷たくなかったか?」
「絶望したのよ。私がいくら話しかけても振り向かなかったあなたが、過去の想い人が絡んだら私を求めるようになったことに。動機も残酷だよ。ストーカーによって人生がめちゃくちゃにされたのに、恋人だった人がストーカーの手伝いをしてほしいなんていうんだもの。大学2年の秋も、冬も、私を無視し続けたのに。だから3年の春にあなたと再会した時に、同じ目に遭わせてやりたくなった。全ての人間関係を犠牲にしてみなさいよって。あなただったらどうするか、知りたかったというのもあるけれど」
「……それでも協力してくれたのはどうしてなんだ?」
「その子と今更やり直せるはずもないとも思ってたから。協力して、失恋した後に、慰めれば振り向いてくれるんじゃないかって思い直すようになった。でも、それは途中で芽生えた感情」
桜は暗い表情をした。
「どんな自分でいればいいか私だってわからなかったの。夏に私との関係を失ったあとに、大学で再び人間関係を築きはじめたあなたを見て、私なんかと寄りを戻さないほうが良いと思うようにもなった。私なんかに近づいて、透明人間の力に魅了されて、あなたが幼馴染みたいになったらどうしようかとも思った」
「なってた可能性あるのかな」
「今の私にわかるのは、あなたとあの人には、決定的な違いがあったということだけ」
「それは何?」
「言葉にするのは難しいかな。恥ずかしいとかじゃなくて、言語化しずらいの」
桜は言った。掘り下げて聞きたい気持ちもあったが、他のことを尋ねた。
「過去のことを今の俺に伝えなかったのはどうして?リセットされた後なら、日記の存在を教えてくれてもよかったじゃないか」
「それがまさに、過去のあなたが祖母の家に日記を送った理由でしょ。私は、本音であなたとの関係を取り戻したいくせに、過去の闇を伝えたくなかった。だから、いっそのこと、また0から関係を紡ごうとしたの。昔のわたしたちを葬って、新しいわたしたちとして恋人になろうと決めたの」
優が黙って聞いていると、今度は桜が尋ねた。
「私の傘、どうやって見つけたの?」
「君の昔の友達から、返してもらったんだ。福島しょう子さん」
「あの子が盗ったの!?」
「この画像を見て。盗まれた直後に、念の為に傘立てを写真に収めておいたんだ」
桜が画像を覗き込むと、あることに気づいた。
置いてある傘がどれもカラフルだった。
「これは全て推測なんだけれど。降水確率も高かったせいか、この日はみんなちゃんと傘を持ってきていた。そして、たまたまビニール傘を持ってきている人がいなかったんだ。時間帯もお昼時じゃなかったから傘の本数自体少なかった。だから、持ちての部分はカバーがかけられているとはいえ、一見ビニール傘に見えた君の傘を選んだのだと思う。コンビニに買いにいくまで勝手に借りて、そのあと返すつもりだったんじゃないかな。ところがね、いざ傘立てに戻しに行こうとしたその時に、傘を夢中で探している君の姿を目撃してしまった。人間関係が崩壊してから、まだ君への遠ざかりが生じている最中だったんだ。その子は君との関わりをもたないようにするために、傘を自分のものだと思い込んだんだ。そのまま傘を返すことなく、自宅に帰った」
優は説明を続ける。
「推測に過ぎないけれど、正しいと直感していた。僕は傘を盗んだ張本人とぶつかって、その人は傘を2本も持っていたのに、性別すらも覚えていなかっただろ?興味を持たないことへの違和感、みたいなのを覚えたんだ。日記を読んで、それが透明人間の副作用によるものだと気づいた。あの鈴守を使用した人間は、君と僕しかいない。そして使用者本人から他者に対する興味が薄れることはない。となると、おそらく君の使用に関係していると思ったんだ。福島さんと僕の接点は、君、という繋がりしかなかったからね。仮にあの子とサークルか何か一緒だったら、君との想い出だけが消えて、あの子との繋がりは消えなかったと思う。君だけを経由して構築していた人間関係だったから、僕と君の関係が崩壊した日に、あの子との関係も崩壊してしまった。その時の『遠ざかり』が、僕と福島さんの間に残っていたんだ。僕が君の幼馴染の存在を忘れたのと同様の現象だ。フルネームが日記に書かれていたから、SNSで福島さんが所属しているサークルを見つけて、たまたま彼女と同じサークルに所属していた友達に代わりに取りに行ってもらったんだ」
「自分のものだと思いこんでるのに譲ってもらえたの?」
「間違えて取った傘じゃないかと単刀直入に切り出したんだって。そしたらあっさりと譲ってくれたみたい。彼女が君との接触を避けようと仕方なくその傘を自分のものだと認識したんだろうけど。その子は派手な傘がお好みだったみたい。いつの間にか家にあったという程度の傘を、渡してもいいと思ったんだな」
「…………」
「傘を忘れるように、人は大切なことを忘れてしまうんだね。6年間片想いしてると思い込んでたけど。本当はもっと大事な1年が、俺にはあったんだな」
「……そうだよ」
「一つわからなかったことがあるんだ。どうして俺は、傘に水戸地方気象台の番号なんか挟んでいたんだ?」
「信じてくれたんじゃないかな」
「何を?」
「あなたの傘の下に私がまた入ることを。傘が好きな私が、電話番号の書かれたメモを見つけることを」
「どうしてこの電話番号なんだ?」
「雨引観音が茨城県にあることと関係してるはずだよ。私の携帯のパスワードは、その電話番号をもとにしてたから。それ以上はわからないけど。私が見つけることを信じてくれたことがわかっただけで嬉しかったよ」
しばらく僕らは無言だった。桜は思いつめた顔をしていた。
「まだ、話していないことがあるよね」
「……幼馴染のことかな」
「あのストーカー、今どうしてんだ。のうのうと過去を忘れて、どこかで生きてるのか?」
怒りが収まらなかった。
正直今すぐにでも、何かしらの復讐をしてやりたいとさえ思った。
でも、そんなことはしない。それは、過去の桜を裏切ることになるのだから。
しかし、その行為すら不可能になったことを告げられた。
「自殺したの。私との関係が途切れてから、すぐに」
また沈黙が訪れる。優は言葉を出せなかった。
今更同情なんてしない。もしも生きていたら、死ぬことを願うような存在だった。
ただ、思ってしまう。
彼は、自分と似ていると。酷似してると言ってもいい。
桜との人間関係が崩壊したことで、彼のこれまでの20年近い歳月の思い出がほとんど虚無になったのだろう。
桜という生きがいを失い、生きることの意味を見いだせなくなったのだ。
今でなくたって、考えることがある。
僕と彼は、何が違っていたのだろう。僕は運がよかっただけなんだろうか。
桜が思う、僕とあいつの違いとは何なのだろう。
その答えは、自分で見つけなければいけない気がした。
気づいたら、雨が止んでいた。
公園をあるき出す。会話はなかった。
この公園は、彼女が苦しみを味わった場所ではない。
それでも、何か思うことがあったのだろう。
桜は立ち止まり、顔を手で覆い尽くした。
それは、そうだ。
今日僕に話すまで、ずっと一人で暗い記憶を抱え込んでいたのだ。
大きな悲しみに何度も遭遇しておきながら、感情を共有できるはずのパートナーは全ての記憶を失っていた。
ずっと、ひとりぼっちだったのだ。
桜の肩に、手をまわそうか迷った。
その資格が自分にあるのか不安に思った。
彼女が本当に好きになったのは、今の僕ではなく、過去の僕なのだ。
恋人だったのも、今の僕ではなく、僕の知らない僕なのだ。
顔を覆う桜の隣でどうするべきか迷っていると、ふと足元が気になった。
桜のスニーカーの靴紐がほどけていた。
僕はかがみ込む。左足の靴紐を握る。
雨に濡れたのか湿っていた。
丁寧に長さを調整し、しっかりと結び直す。
反対の靴の紐も緩んでいたので、一度ほどいてから長さを調整し、結び直す。
また、雨が降ってきたと思った。
顔をあげたら、桜が涙をこぼして、僕を見ていた。
僕は、ばかだ。
何を恥ずかしがっていたんだろう。何を怖れていたんだろう。
色のついた人間として、目の前に現れることを許されておきながら。
心で思っていることをどうして伝えようともしないんだろう。
言葉を尽くしても、中々伝わらないこの世界で。
姿を見せても、信じてもらえないこの世界で。
自分の気持ちまで隠して生きて、一体誰の日常を色づかせることができるというのだ。
「神田さん」
「……何?」
「あなたのこと、きっと好きになります。お互いを知りたいので、まずは恋人からはじめてみませんか?」
言葉に出した直後、最悪のセリフだと思った。
僕が想い人に失恋した日の桜からの告白に比べて、なんて好意が伝わりそうもない言葉なのだろう。
でも、口にできただけ良いと思った。僕は勇気を出したんだ。
人から拒絶されるのは怖い。自ら拒絶されることを、求めているふりをする人もいるほどに。
でも、拒絶に対する怖れというのは、受け入れられることへの憧れの裏返しでもあるんだ。
怖いと思うのは、それが、好きだから仕方ないんだ。
桜は言った。
「別れた覚え、ないんだけど」
んふふ、と笑った。
桜の返事もまた掴みどころがわからないと思った。
桜自身、苦笑いをしながら指で頭をぽりぽりと掻いてしまっている。
お互い家に帰った後は、言葉の反省会がはじまるのだろう。
でも、そういうものなのだ。
100%の言葉なんて中々生まれない。
あの時ああいっておけばよかった、こうしておけばよかったって、反省を繰り返して。
昨日よりはマシな言葉を紡げる自分に、やさしい行動を起こせる自分になっていけばいい。
過去があるから、今日を変えられる。
雨が止み、太陽が輝く空を見て、桜は嬉しそうに言った。
「もう、雨ごいしなくてもいいんだ。晴れの日に、あなたと会ってもいいんだ」
「うん」
「あーあ、やだな。もうすぐ卒業か。学生が終わっちゃう」
「終わってもいいよ。学食じゃなくたって、一緒にご飯を食べられるんだから。カウンター席じゃなくて、テーブル席で」
「……やだ。千笠くん、随分肉食系なのね」
「意味わかんねーよ。そのパアにした手を開いた口にあてるやつ、漫画でしか見ねーから」
桜は、んふふ、と笑った。




