忘れられない人
「中学3年生の時から6年間、ずっと好きだった女の子がいる。君にストーカーを手伝ってほしい。その子の日記を盗み見てほしいんだ」
大学3年の、秋のこと。
心理学の講義を終えて、キャンパスを歩いている途中。突然男子生徒に話しかけられた。
私は平静を装い返事をする。
「……えっと、話しかける相手、私で合ってる?」
「君は、透明人間になれるんだろ」
なるほど、と思った。
透明になった瞬間を見られていた。だから話しかけられた。
心当たりがある。
数日前のこと、能力の源であるお守りを捨てるか捨てまいか握って迷っているうちに、降雨量が一定値を超えた。
そして、透明人間の力が発動してしまったのだった。
「君が僕に協力するメリットはないかもしれない。でも君が、透明人間だと周囲にばれるのはまずいだろ?」
脅迫をしているのだと思った。感情が表に出ないように押し殺す。
「願いを叶えてくれたら僕は消え去る。何度もしつこく力を借りたりはしない。君との関係も記憶も完全になかったことにするから。頼む」
「……関係も記憶もなかったことにする、かぁ。なるほど」
私は彼の言葉を復唱し、自分が取るべき行動について考えた。
論破することは簡単だ。
透明人間の存在自体が非論理的なのだから、それを肯定している時点で相手の論理は破綻している。
見間違えだと言い張り、相手の頭を心配するそぶりを見せるような反応をすればいい。
だが、こうするのが、一番良いのだろう。
「やめてください!」
言い逃れすらせず、怯えと警戒心を前面に出した。
彼は驚いている。
「あなた、おかしいですよ。助けを呼びますよ」
5限の授業を終えて帰ろうとしていた生徒が、チラチラとみてきた。
「ひ、人違いじゃない。確かにあの日公園で見たんだ」
「やめてください。警備員呼びますよ」
「待って。ただのお願いなんだ。周りに話すだなんてのも本気じゃない。話を聞いてほしかっただけで……」
「近づかないでください!」
拒絶されて彼はショックを受けている。
しかし、彼も反論した。
「君が今考えていることはわかってる。議論のテーブルに立たないことで交渉の余地をなくそうとしているんだ。そうまでして僕に協力したくないのは、それなりに過去に痛い経験をしたからだと思う。でもこれは、私利私欲のためじゃない。きっと、僕のことを忘れないでいてくれている女の子がいるんだ」
「忘れないでいてくれたら素敵なことでしょうね。だったらあなたから、正々堂々告白しにいけばいいじゃない」
「僕の長年の思いをぶつけて、彼女を怯えさせる可能性が万が一にでもある。だからこそ日記を見たいんだ。あの子に自分が必要かもしれないから、それを確かめたいんだ」
「ただのストーカーね」
私は冷たく言い放ち、近くにいた二人組の女子生徒に助けを求めた。
「あの人、しつこく付きまとってくるんです」
「お、おい……」
彼は取り乱している。今や大勢の学生が注目している。
無理だとわかったのだろう。途端に怒りに満ちた表情を浮かべた。
「力を独り占めにして、幸せかよ!」
そう捨て台詞を吐くと、走って逃げていった。
私は、みるみる自分の体温が上昇していくのを感じた。怒りで手が震えた。
「大丈夫ですか?さっきの人って、ストーカーですか……?」
心配そうに女子生徒が尋ねてきた。
「うるさいわね。放っておいてよ」
彼女たちに理不尽な言葉を浴びせた。彼が逃げたのと反対方向に向かって歩く。
怒りで頭がどうにかなりそうだった。
「わかっていない」
ズンズンと独りで歩きながら、思わず言葉が出た。
「透明人間の力はね、人間関係の構築のために使うべきものではないの。関係を築きたい人がいるなら、姿を見せるしかないの」
わかっていない。わからせてやりたい。いずれわかることであっても。
「力を独り占めにして幸せか、だなんて。独り占めにするのはね、私が独りだからなのよ」
小さく、叫ぶ。
「独りぼっちが、幸せなわけないじゃない!」
ぽつり、と雨が降ってきた。
ほてりを冷ますには、足りないくらいの小雨だった。