思い出せない、思い出したい人
大学2年、春。
「あのさ、ちょっと質問」
「何だ、授業中に」
「授業中だから質問するんじゃない」
「それで、なに?」
「こういうのって興奮すんの?」
桜は優にスマホを見せた。
エロ漫画のweb広告だった。
透明人間の男が、街中の女の子に好き放題しているというシチュエーションだ。
「おい、何見せてんだ!」
「男性心理学の勉強よ。それで、どうなの?」
「そりゃあ、男子なら一度は妄想するよ」
「ふーん」
「女子は何を思うんだ?」
「殿方って性欲を頑張って隠して生きてるんだなぁって」
「男の本能だから」
「色んな女の子で遊びたいなら、風俗に行けばいいじゃない」
「男も女と一緒だよ。性欲だけど、性欲じゃない」
「一緒?」
「自分が一番に思う人の、一番になりたいんだ」
「街中の女と好き放題したいのに?」
「量で誤魔化せる質もある」
「最低ね。さすが童貞様」
「ヤリチンが最低なら、その対義語は最高だろ」
雨の日。
駅の近くまで着くと、大学生が信号機の前でうじゃうじゃと群れをなしていて、なかなか道を通れなかった。
「あら、主将様、幹事長様、代表様、会長様のお通りですわ」
集団を率いて街を闊歩している大学生を見て、桜は嫌味を言った。
優はというと、全く気にしていないようだった。
「サークル名の書かれた看板持ってる。傘さしながら大変そうだな」
「もう新歓の時期かぁ。気づいたら2年生になっちゃったな。やだやだ」
「幽霊部員になっちゃったままなんだっけ。新しく入り直したりしないの?」
「うーん……気まずいしなぁ。それにやっぱり、大勢で歩く人達の中に私が馴染める未来がどうしても見えない……」
「ねぇ、神田さん。あそこに行列で歩いているサークルがあるじゃんか。多分飲み会に向かってると思うんだけど。あの中で、一番孤独で、緊張している人ってどこにいると思う?」
「一番後ろでしょ。私のポジション」
「ううん。一番前にいる人だよ。君の嫌いな、リーダー様だよ」
優の言った言葉の意味を桜が聞き返そうとした時に、気になるものが目に入った。
駅前のロータリー広場で、一人の男性が携帯を不自然に、低い位置で構えている。傘もさしていない。
その先には、手すりに腰掛けている女子大生がいた。スカートを履いている。
「ねえ、あれ盗撮してない?」
「確かめてみるか」
「降雨量が少ないから、私透明になるまで2分程度かかっちゃうかも」
「俺が透明になるよ。けっこう身体湿ってるし」
「いつも傘のさし方雑だもんねぇ」
「それを言うなら大雑把って言えよ」
「それを言うなら大胆って言えよ、じゃない?」
優は黒い傘を桜に預けた。
会話をしながら人物の数m先まで接近する。あまり近づき過ぎると怪しまれてしまう。
「ここで消えて大丈夫かな?一旦駅のトイレとかで消える?」
「この人混みの中を透明で歩いてくる方がリスクが高いと思う。いいこと考えた。私が傘で隠すから、その瞬間に鈴守を握って」
優は靴紐を結ぶふりをして、しゃがみこむ。
桜もバッグを持つ手を入れ替える風を装い、黒い傘で優の姿を隠した。
後ろには柵があるので死角になっている。
桜がいいよと合図をすると、しゃりんという音がなった。タイミングを見計らい、傘をあげる。
一人の人間が姿を消したというのに、誰も私達に関心を寄せる人などいないようだった。
これだけの目がありながら、誰も見ていないのなら、それこそ透明人間の価値が低い時代なのかもしれない。
携帯電話をいじるふりをしながら待つ。
しばらくして、桜の肩がトントンと叩かれた。また傘で足元を隠すと、優が姿を現した。ニヤニヤしていた。
「盗撮じゃなかったよ」
「なんだった?」
「チャック、締め忘れてたのに気づいただけっぽい。ファスナーが引っかかって、手こずってた。手荷物もってないからスマホで隠してたんだな。『傘忘れたからはよきて』ってメッセージも友達に送ってた」
「なーんだ。せっかく透明になったのにね」
「いいんだよ。冤罪をかけそうだった人に、冤罪をかけずに済んだんだから」
「それもそうか」
「日記に書き甲斐があるよ」
「日記?」
「神田さんと出会ってから書き始めたんだよ。透明人間の特性とか記録とか取っておけば、いつか役に立つかもしれないと思ってさ。最近はバッグに入れて持ち歩いてる」
「私なんて三日坊主で終わりそう。記録を残してくれるのはありがたいけど、どこかに落とさないようにね」
「それだけは気をつけてるよ。日記を他人に見られることほど困ることはないからな。心の裸だから。君にも迷惑がかかるし」
「お母さんから見つかるとしたら、日記とエロ本とどっちが嫌?」
「どっちもだよ。男の幸せは、概してお母さんの目に届かないところに隠れているんだ」
「お隣いいですか」
「あっ、千笠くん。どうぞどうぞ」
「今日も授業の時間帯に食べてる」
「昼の学食混むんだもん」
「一人で思い出し笑いしてたら注目されちゃうな」
「んふ。そんな頻繁にしてないよ」
「俺寝る前とかに思い出し笑いしちゃうけどな」
「良い夢見れそうだね」
「そうだな」
「ねえ、千笠くん」
「なに?」
「家に帰るとね。千笠くんの顔が、思い出せないの」
「どういうこと?もしかして、透明人間の力を使った副作用とか?」
「あっ、いや、そうじゃなくてね……」
「そうじゃなくて?」
「なんか、そうなっちゃうの」
「なんだそれ。ちょっと傷つくな」
「どうして!?」
「神田さんの脳内の不要フォルダに送られるくらい、大事な情報じゃないのかなぁって」
「ネガティブだなぁ」
「ちょっといいかな?」
「なに?」
「刮目せよ!!」
「ふふっ、いきなりキメ顔やめてよ」
「また思い出し笑いしちゃうか」
「んふふ」
桜は笑う。
そして思う。
痛みは、人に見せなければ、痛みにならない。
傷ついた痛みそのものよりも、傷跡を誰かに心配される方が私にとってはつらい。
苦しみは、ひとりで抱えるものだと思っていた。正直、今でも思っている。
けれど、同じように。
笑うことも、誰かと共有しなければいけないものではなかった。
私が一人でいるときに、私だけが噛みしめることを許される喜びがある。いつの間にか、見られてしまったりすることもあるけれど。
幸せに生きることの厳しさを、突きつけてくるこの世界だけれど。
笑って許されると思えるようになった。
眠たくて仕方のない朝にも、思い出し笑いをするようになった。
大学のエスカレーターのセンサーを怪盗の様に跨いで、二人でゆっくり登ったり。
土砂降りの雨に打たれながら何食わぬ顔で会話するゲームをした時間は楽しかった。
月曜日の朝には、雨が降ってほしいと思えるようになった。
見えないものを見抜くための賢さなんてなくても。
見えないものを受け止めるやさしさを彼が教えてくれた。
だからこそ。
幸せは共有しても、不幸だけは、共有したくない。
病める時を隠し、健やかなる時だけを彼と共有して生きていきたいのだ。
しかし。
最悪は、足音を立ててやってきた。




