ヒーローとヒロイン志望
「おっ、帰ってきた。おつかれ」
「ふうー、人通りが多いと緊張するわ……」
ずぶ濡れのまま息をきらした桜に、優は透明傘をさしだした。
「おい、見てみろよ。あの子顔真っ赤にしてるぞ」
水道橋駅の前。
今日はいつも以上に大勢の女子がいた。男性アイドルのコンサートがあるのだ。
切実な表情をした女の子が何人か、傘をさしながら『チケット買い取ります』というボードを片手に掲げていた。桜はそのうちの一人に目をつけた。
『買取 3万』
定価を超える転売価格の提示はダフ行為の助長になる。
桜はバッグからマジックペンを取り出した。
雨に濡れた後、鈴守を握り、透明になった。
数分後、その子が掲げているボードに文言が追加されていた。
『買取 113万』。
「あまり気の利いた文句が浮かばなかったわ。
「でもあの子、見えない悪意に心がくじけたみたいだぞ。効果は抜群だ。ただ、これで誰か幸せになったのか?」
「そんなこと言わないでよ。私も今なぜか罪悪感がわいてるんだから。でもこの行為は正々堂々買ったファンの人を不幸にせずに済むんじゃない?」
「あんたのやってる人助け、というか世直し。かなり特殊だぞ。訳のわかんない使い方が多い。この前のは異常だった」
優は先日の出来事を思い出す。
どしゃぶりの雨の中を二人で歩いていると、制服を着た学生がひとり自販機の前をうろついていた。
挙動不審になりながら、お金を入れ、お酒を買った。
学生はベンチに座り、蓋を開けた。
あの様子だと、初めてお酒を飲むのかもしれない。
ガコン、という音が自販機から聞こえた。
しかしそこには誰の姿も見えなかった。隣を見ると、桜は姿を消していた。
学生は、深呼吸し、目をつむった。
そして、一口飲むと、まじぃ、と心底嫌そうな顔をして言った。
飲み物を置き去りにして少年は帰っていった。
しばらくすると桜が現れ、トマトジュース混ぜてやった、といじわるな顔をして笑っていた。
残りはあげると渡してきた。
「あの時は未成年飲酒を防いだじゃない。お酒は不味いという原体験は、きっとあの子を急性アルコール中毒から今後も守ってくれるわ」
このような、微妙な使い方はともかくとして。
せっかく手に入れた透明人間という強大な力を使って、誰かを幸せにしたり、誰かの不幸を防ぎたい、という二人の思いは一致していた。
そして雨の日に、二人で街中に出かけるようになった。
ただ、困ったことに、困っている人というのは中々いるものではない。
結局何もせずに帰る日(ボウズと呼んだ)も多かった。
ある日のこと。
天気予報通り雨が降り、いつものパトロールに出ることになった。
この日も人助けの機会に遭遇することはなかった。
「なんだかなぁ。街中を走って逃走中の強盗でもいればいいんだけどな。どこかにいねえかなぁ。いたところで、晴れだとダメだしなぁ」
「不謹慎よ。人生で一回も遭遇したことないわよ。それに、透明になったところで私その人たち倒せない気がする」
「凶暴な男相手じゃな。そういえばさ、その鈴守、俺でも使えるの?」
「えっ?」
「他の人に使わせたことある?」
「一度もないわよ」
「よかったら、使ってもいい?」
「何のために?」
「興味本位」
「うーん……」
「やっぱり悩むか」
「……これ奪って、持ち逃げしたりしない?」
「絶対しない。命かける」
「本当に?」
「ほんとほんと。100%」
「怪しい……」
「俺のこと、信頼できない?」
「そうはいってないけど」
「形でみせればいいかな?ちょっと路地裏来てよ」
優は桜を引っ張った。
桜が何事かと思っていると、優がズボンをカチャカチャといじり、ベルトを外し始めた。
「ちょ、ちょっと!何考えてるのよ!!」
「これで俺の手首とあんたの手首を縛ろう。サイズフリー用に穴が空いてるから際限なくきつく縛れる。そしたら逃げ切れないだろ?」
「逃げなくさせてどうするつもりよ!」
「だから、これで鈴守を持ち逃げされることもないだろ」
「…………」
「俺のIQは180あるから、あんたがどんな勘違いをしたのか瞬時にわかったけど、普段一生懸命がんばってるみたいだから、忘れてあげることにしよう」
優は傘を地面に置くと、自分の手首と、桜の手首を縛り付けた。
桜が仕方なく鈴守を差し出した。優が右手で握った。
しばらくし、雨で全身が濡れた。その瞬間だった。
ポタポタポタ。ザーザー。シトシト。ビチビチ。ジャブジャブ。
雨の音が、研ぎ澄まされた気がした。
優が自分の身体を見ると、透けていた。
ベルトに繋がれた桜の手首には、不自然な空間が空いていた。
「あっ、透明になった」
「もっと驚きなさいよ」
「怖いこと言ってもいい?」
「何?」
「今なら、何をしてもばれないな」
「……やめてよ」
「言っただけだって」
「それも嫌なの」
「ちょっと歩いてみたい。せーので歩くよ」
優は足を踏み出した。
水たまりに足を入れると、波紋が広がった。
「ちょっと、水かかったじゃない」
「なんだ。全然存在してるじゃん」
「そうよ」
「よいしょ。痛っ」
「何したの?」
「髪の毛抜いた。手に持ってると透明なままだ」
「私の左手に乗せてみて」
「はい」
「……あ、見えた。私の所有物に認識されたのね」
「何の毛を抜いて置いたかあてるゲームができるな」
「不気味なゲームを開発しないで」
「尿を漏らしたらどうなるんだろう」
「疑問を持つのは素晴らしいことだけど、私と繋がれている間はその科学的探究心を捨ててちょうだい」
「テセウスの船を思い出すな」
「なにそれ」
「神田さんが船を持っているとするだろ。それは30枚の木の板でできている。使用するたびにどこかの板が痛むから、一枚ずつ張り替えるんだ。僕に板をもらっているとしよう。ある日、僕が無断で神田さんの船を使っていると怒ってきた。私の船だって言ってね。そして僕は言い返すんだ。長い年月を経て、30枚の板を張り替えた。船は僕のものだって」
「それはアイデンティティに関する哲学かしら。だとしたら、あなたの主張はおかしいわよ。人間の細胞だって全身入れ替わり続けているけれど、その人はその人のままよ」
「まあこの能力に限っていえば、手に握ってしまったら所有物となるんだろうな。境目がどこまでかは興味があるな。ゴルフクラブなんか持っても見えなくなるのかな」
「やけに積極的ね」
「いざっていう時に、正しい判断をするためだよ。ただでさえ神田さん無茶するんだから」
「他に試したいことある?」
「二人同時に使えるのかな?」
「手繋いで試してみたいと?」
「そうは言ってないけど……」
「照れなくていいから」
桜も傘を置いて、しばらく雨に打たれた。
「そろそろいいんじゃない」
「左手に置くよ」
「ええ」
「……お、消えた」
「透明人間が、ふたり」
「へー、すごいな」
「すごいわね」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「そろそろ離そっか」
「……うん」
「せーのでいくか」
「うん。せーの」
「はい」
「あははは」
「なんだよ」
「千笠くん、顔赤っ」
「神田さん、鈴守握ったままじゃん」
「あははは。かわいい」
「ちょっと、ずるいって」
「ベルト外して。手首痛い」
「本当に勝手なやつ」
「貸してあげただけ感謝しなさい」
「俺が悪用する人間に見えるかよ」
「悪用したところで、お天道様が見てるからね」
「透明人間は、悪いことをする人間側と、どこかで見ているお天道様側、どっちなんだろうな」
「私が悪いことをしそうになったら、千笠くんが止めてね」
「神田さんが悪いことをしたとしても、それは正しいことなんだよ。だから応援すると思う。論理で間違っていても、感情で味方してあげる」
「なにそれ。千笠くんが悪事を働きそうになったら、私は止めるよ」
「そうしてくれ」
「今日はもう帰ろっか。はやくお風呂入りたい」
「念のために聞いておきたいんだけどさ」
「なに?」
「この能力、副作用とかないんだよな?」
「うーん、多分ないんじゃない?……あっ」
「何?」
「風邪ひきやすくなる」
「そりゃそうだろうな」




