目の前の一人が私の全て
これは、大学一年時の秋から、大学二年時の夏まで。
優と桜が過ごした、雨の日の物語。
「ほら、さっさと立ち上がれ、透明人間」
天気、雨。
横断歩道で派手に転んで、水しぶきをあげた。絶対に、死んだと思った。
私の姿は誰にも見えていないはずなのに、車の急ブレーキ音が聞こえた。
顔を見上げると、黒色の傘をさした青年が仁王立ちしていた。
「先に逃げるからな」
彼は私の胸部を凝視したあと、ウインクをした。
そんな部位にされてもときめかないと言いそうになったが、彼には私が見えていないということに気づき言葉を飲んだ。
私が躓いて転んだ場所から、数mの距離を置いて車は静止した。
運転手が憤怒の形相で車から出てきたときには、彼は住宅街の中に姿を消していた。
運転手はその場で携帯電話を取り出した。警察に通報するのだろうか。
車を見ると、ドライブレコーダーがついていた。うちの家の車についている型と一緒のものだ。
私は足を震わせながら、立ちあがった。
急いで車にかけより、開いたままのドアから身を入れる。
レコーダーからカバーを外し、SDカードを取り出す。
ゴム手袋をつけているので指紋も残らない。
自分がやっていることの悪質さに手が震える。あえてすぐに気づくように、カバーを取り外したまま宙ぶらりんの状態にしておいた。
この運転手は何も悪くない。
けれど、私を救ってくれたあの人に迷惑がかかるようなことは起きてほしくない。
悪いのは、私だ。
それ以上に悪いのは、私が今まさに追いかけていた、中学時代の教師だ。
赤信号をわたったのを必死で追いかけたのがまずかった。
援助交際のうわさはかねてよりあったが、まさにさきほど、金銭を女の子に渡している現場を目撃した。
5mの距離なら見間えも聞き間違えもありえない。
写真も撮った。秋葉原で買った、その場で現像して写真を出してくれるカメラだ。
チェキとかポラロイドとかいう名前。撮影してもしばらくは写真が真っ黒なままだが、数分もすると綺麗に色がつく。あとは教師の進路方向の先にその写真を置くだけだ。
誰かに撮られていた、という事実に恐怖を覚えるだろう。あいつには子どもだっている。
もう二度と、こんな悪事をさせてはならない。
私は正しいことをやっている。この力は、誰かを救うために与えられたのだろうから。
公園の中で、教師は叫んだ。そして少女の胸ぐらを掴んだ。
「はめやがったな!」
「えっ、なに!?」
「お前の仲間に撮らせたんだろ!」
「知らない!知らないってば!」
「とぼけてんじゃねえぞ!俺を脅したつもりか!?」
「知らないっての!」
「俺が捕まったら、お前の人生もめちゃくちゃにしてやるからな!自分だけ弱みを握ったつもりになるんじゃねえ!」
教師は少女の口をおさえ、公衆便所の中に無理やり引っ張っていった。ここまで過激な行動に取られると思っていなかった。
透明人間のまま、助けようと思った。
どうやって?
見えない力で殴ったら怖がってくれるだろうか。腕を掴まれたらどうしよう?
元教え子として姿を現そうか。私がやったことがばれたらどうなる?
大声で助けでも呼ぼうか。やっぱり、声で私だとばれるかもしれない。
どうしよう、どうしよう……。
「おい!どこ行ってたんだよ!」
さきほど、自分を助けてくれた青年が現れた。
「母さんが探してるぞ!どれだけ家族に迷惑かける気だ!警察も動いてるんだからな!」
青年は少女に怒鳴り始めた。実の妹なのだろうか?
「おじさん、すみません。こいつ、こう見えてまだ働けないんですよ。おい、行くぞ」
少女はというと、パニックになっている。
教師も、混乱している。というより、私も状況が理解できない。
青年だけがめちゃくちゃなことを大声で喋っていた。
間もないうちに、通行人があらわれ、注目が集まった。
教師は逃げることに決めたのか、足早に去っていった。
すると青年はまた声をあげた。
「ねえちゃん、どこいんだよ。ねえちゃん、ねえちゃん」
彼の姉が現れるのを十秒ほど待っていたが、ふと私が呼ばれているのではないかと気づいた。
女子トイレまで走り、個室の中に入ると、鈴守を手放す。
自分の手足に、色が戻った。
私は彼のところまで、駆けていった。
これは後日の話になるが。私達の行動とは無関係に教師の行いが発覚し、逮捕されたそうだ。
「お前、馬鹿じゃねーの」
「はぁ?」
「したくてやってんだからやらせてやれよ。援助交際。あの女の子が餓死したらどうするんだよ」
「髪の毛染める余裕のある子が餓死なんてしないわよ」
「透明人間になる力って、もっと多数の人々に影響を与えるために利用するべきなんじゃないのか?例えばお医者さんだってな、手術をしなくても、研究で何万人と救う人がいるんだぜ?」
「目の前にいる一人の絶望に関心がなくなったらおしまいよ」
「だからあんときも助けたのか。少年が殴られそうになったとき」
「……見てたのね」
遡ること、数日前。
雨の中、私の数m先を、幼稚園児くらいのカッパを着た男の子と、傘をさしているお母さんが歩いていた。
靴を履きなさいと言っているでしょ、とお母さんはどなった。
男の子は泣きながら、両手に靴をもったまま歩いている。
なんでいつも言うことを聞いてくれないの、とお母さんは言った。
男の子はうつむきながら、だまり続けている。
お母さんの様子が、おかしかった。
私は咄嗟の判断で、透明人間になった。
お母さんは傘を投げ捨て、男の子の前に立った。
腕を振り下ろした時に、私の手がそれを止めた。
しゃりん、と、手の中に握っていた鈴守の音が鳴った。お母さんは、凍りついていた。
私はおそるおそる離れた。捕まえられるかもしれない。
しかし、お母さんは泣いて、男の子を抱きしめたのだった。
「バイトに行く途中、はじめて君を見たんだよ。その鈴守を握りしめる瞬間もね。それが透明人間になれる魔具みたいなもんなんだろ?そんな力に頼って人助けか。ははっ」
「何がおかしいのよ」
「おかしいだろ。だって姿を現したままだって止めることはできたんだから」
「死にものぐるいで子育てしているお母様が、のんきに暮らしている女子大生の説教や慰みなんて聞かないわよ。私は透明人間として間に入ったんじゃない。神様として間に入ったの。透明なだけの人間と、目に見えない存在は大きく違うの。見に見える人間なんて、足元にも及ばない」
「おお、すごい発想だな。神様か。透明人間の力を、神の力に押し上げるとは」
「ネットではありふれたことよ。人生相談の質問なんて数え切れないほどあるけれど、回答者はいつも上から目線で答えるでしょう。それができるのは、回答者が匿名であるからなの。年齢も、職業も、容姿も、そこでは見えない。商社マンの夫の浮気に悩んでいる奥さんに対して、たとえ素晴らしい回答を持っている者がいるとしても、その回答者が中学生の男の子だったら奥さんは聞く耳なんてもたない」
「なるほど。でもさ、あのお母さんは、こどものことを不気味に思ったりしないのかな」
「私、決めてるの。助けたことによって、そのあとその人の人生がどうなろうが、知ったことではないって」
「エゴじゃないか。自己満足だ」
「じゃあ何もしないで見過ごせっていうの?雨が降っていて、目の前で何かが起きている時に、特殊な力をもった私が何もしないでいいって言うの?いつも肌身離さずコレを持っているのはね、使うべき時が来た時に後悔しないためよ」
「ノブレスオブリージュの呪縛に囚われてるな」
「何それ?」
「持てる者の責務のことだよ。人を助ける力をもった人間は、人を助けるために力を使うべきだというね」
「ええ、そのために使う透明人間の力よ」
「人助けに透明人間は向いてないだろ。透明人間になってやりたいことなんていったら、私利私欲を満たすことばかりだ。女湯を覗くとか、金銀を盗むとか、好きな人をストーカーするとかさ。男が手にしたら、間違いなく性犯罪に使われるな」
「最低……」
「ここで建前を言ったってしょうがないだろ。人間の行いを、善い行いと悪い行いの二種類に分けた時に、善い行いをするときは自分の姿を晒したいだろうし、悪い行いをするときは自分の姿を隠したいに決まってる」
「私は見返りなんて求めない。透明になることでしかできない解決方法もある」
「救いたいから透明人間になるのか?それとも、透明人間になれるから仕方なく救ってあげるのか?」
「…………」
「……ごめん、言い過ぎた。悪気はないんだ。ただ、君の使い方が信じられなくて、気持ちを知りたかっただけなんだ」
「復讐してるのよ」
「何に?」
「やさしくない世界に」
「世界はやさしくないのか?」
「やさしさを仇で返すのが世界よ。あなたも建前はやめたら?何か叶えてほしい願いがあって、私に接近してきたんでしょ」
「はぁ?」
「叶えるなんて言わないわよ。あなたの言う通り、完全なる善意のためにこの力を使いたいという者なんて、ただの一人もいないでしょうからね。依頼するにしても、建前では世界を変えたいとか、誰かを救いたいとかいいながら。世界を変えた自分に、賞賛を求める人だけよ。救った相手を、次は自分が支配したい人だけよ。恋愛目的だってそう。誰かが誰かに献身的な愛情を注ぐことなんて、想像できない。見返りを求めずにやさしくした自分をきっと好きになってくれるだろう、という見返りを期待するに決まってる。性欲を発散するためならおぞましい事件を起こす男という性に対して、貸せる力なんてないわ」
桜はろくに息継ぎもせずに言い切った。
「おお!!」
パチパチパチ、と彼は拍手をした。
「馬鹿にしてるの?フェミニストとか言いたいわけ?」
「違うよ。透明人間に最もふさわしい人間は、性悪説論者であるべきだと思い知ったんだ。そのくせ、本人は極めて道徳的な使い方をしようとしている」
「それはどうも。ということで、私はあなたの願いがどんなものであろうと叶えない」
「そんなこと思って近づいていないさ」
「ふーん。何も不自由ない人生ってわけね」
「叶えられてないことがいっぱいあることと、それを叶えたいと思うことは違う。裏口入学を親から勧められたって、断るだろ?」
「じゃあ何が目的よ」
「見返りが一切ない行動をしている人間に興味をもっただけだよ。きっと、透明人間より少ないぜ。誰もそんな使い方しない」
「なにそれ。じゃあ聞くけどさ、透明人間になったら、あなたは何がしたいの?」
「…………」
「痴漢?覗き?もっとおぞましい行為?建前で答えないでね」
「……思いついたけど、言いたくないな」
「なによ」
「おぞましいかも」
「いいから」
「昔好きだった子の、日記を見に行きたい」
「日記?あなた、変わってるわね」
「気持ち悪いだろ。というか話変わるけどさぁ」
「面白そうじゃない。恥ずかしがらないでよ」
「というかさ、俺のことまだ思い出せないの?」
「…………あっ!傘届けてくれた人!中3の時だったよね?」
「好きだった子のSNSアカウント探しを中断して、届けてあげたんだからな」
「うわ、やばこの人、犯罪者予備軍。でもあのときは本当にありがとうございました。おかげさまで今日もあの日の傘をさすことができています」
「侮蔑と敬意を交えないでくれる?大学に入ってからは健全に合コンとかも行ったから」
「恋人はできたの?」
「気になる子いる?って聞かれてさ、正直に、転校した女の子に4年間片想いしているって答えたら白けたよ。やべ、話題戻っちゃった」
「4年間!純愛だ、すごいね!」
「すごくない男だから4年も引きずってるんだよ。もう忘れたいけどね。だから合コンにも行った」
「だったらミスしたわね。気になる子なんて相手の女の子の中から選ぶに決まってるじゃない」
「それくらいわかるよ。わかった上で、自分に嘘をつけなかったんだな」
「じゃあ行かなければよかったじゃない」
「過去は過去。今は今」
「よそはよそ、うちはうち、みたいな?」
「あの子と約束したんだよ。お互い二十歳までに恋人ができなかったら、付き合おうって」
「その約束の時まで、その子を待つの?」
「二十歳までに恋人ができなかったら付き合うっていうのはさ。お互い二十歳までには恋人をつくって、幸せになりましょうっていう意味だと思うんだ。だって、二十歳までにお互いの貞操を守るという意味なら、たとえ転校するとしても、なんとか会って付き合っていたはずだから。だから俺は大学デビューをめちゃくちゃ頑張ってる。恋人はともかくとして、サークルでもバイトでも人間関係はかなりうまくいってるよ」
「へー、いいわね、楽しそうで」
「そっちはどうなんだよ。花の一女だろ」
「……ほうっておいてよ」
「何だよ、急に暗くなって」
「苦手なの。飲み会とか、集まりとか、初対面とか、そういう疲れるもろもろが」
「人見知りなの?」
「そんなことないと思う。だけど、みんなの話題に全然ついていけないの。芸能にもスポーツにも興味ないし、アニメも漫画も見ない」
「じゃあ何してんだいつも?」
「何もしてないの。スマホをいじってたら一日終わってる」
「わりとみんなそんなもんじゃない?」
「わかんないよ。とにかく、なんか、私って会話が下手なの。声が聞き取りづらいなぁって初対面の人達との会話でよく思うんだけど。誰も私に話しかけてないことに気づいたりしてさ」
「意外だな。そこら辺りのゆるふわ女子大生に見えるのに」
「それ褒めてるの?」
「もちろん。というか、今も俺と普通に喋ってるじゃん。ちょっと毒舌が強いけど」
「かなりコアな共通の話題を通してね。飲み会の席であなたと出会ってたらこんなに喋れてないわよ」
「普通にモテそうだけどな。彼氏とかいそうだし」
「女子校育ちだしできたことないよ。最近、告白はされたけど」
「うわー、これだから女子大生は。悩みが贅沢」
「そんなんじゃないの。なんというか、私のことを好きだから告白するという人がいないの」
「ああー、わかってしまう気がする。男が好きになるのに丁度いい女子なんだな」
「どういうこと?」
「見た目はいいのに中身が孤独に見えるんだよ。そして見た目も、かわいいんだけど華やかではない」
「……コメントに窮する」
「相手は誰?試しに付き合ってみようとは思わなかったの?」
「春に入ったサークルの幽霊部員だったんだけど。久しぶりに飲み会に顔を出したら、チャラめの一人の先輩が寄ってきてね。一緒に帰ってたらいきなり告白されたの。話題をごまかそうとして、透明人間になったら何したいか聞いてみたの」
「不思議ちゃんかよ。なんて?」
「女の子にHなことするって。それ聞いて、好きになれないなって思った」
「至極真っ当、健全な回答でしょ。男の99%はそう答えるよ。清廉潔白、純粋無垢。俺ならそいつに天真爛マンってあだ名をつけるほどだね」
「あなたの答えは違った」
「アルコールが入ってたら俺も違った答えだったかもしれない」
「ふーん」
「なんだよ」
「今日も飲み会あるの。誘われてたんだけど保留にしてて。行きたくないんだよね」
「行かなきゃいいじゃん。サークルとお店に迷惑がかかるだけだよ」
「やっぱり悪いわよね」
「性悪説の人間が何言うんだよ」
「……うん。性悪説だから飲み会を断ります。もうサークルも退部しよっかな」
「偉いぞ。あとはどこの団体にも所属せずに、ひとりぼっちで4年間を過ごして卒業だ」
「あなたの性格悪い説ある」
「えへへ」
「褒めてない。なんならさ、一緒に来てよ」
「はぁー!?行くわけないだろ!!」
「あなたがお酒飲んだら、どんなふうに答えるのか、本当のところはわからずじまいだしなぁ」
「知らない団体にいきなり行けるかよ。だったら二人で居酒屋行く方がマシだ」
「あら、積極的ね。別にいいわよ」
「なんだこいつ。ちなみに、俺酒飲まないからな」
「真面目ね。時代が時代だから?」
「お酒を一度もうまいと思ったことがない。体質も合わないし」
「よかった。私もお酒苦手なの」
「じゃあ居酒屋行く意味ないじゃん」
「ファミレスでいいわよ。行きましょう」
「当初の目的はなんだったっけか……あんたのキャラもよくわからない」
「あんたあんたってうるさいわね。神田っていうの。人のことは名前で呼んでよ」
「なんだよコミュ力の塊じゃんか。人を名前で呼ぶの慣れないんだよなぁ」
「あなた、名前は?」
「千笠」
「フルネームよ」
「千笠優」
「かわいい名前だね。千笠優くん」
「かわいいかな」
「どう、名前で呼ばれるのはうれしい?」
「そりゃあ、まあ。名前負けしてるけどね」
「名前負け?」
「何も優れてないってこと。ところで、そっちの名前は?」
「桜。神田さん、でいいわよ」
「それ許可出したことになるのか」
「私も人間だから名前負けしてる。さっさと行きましょう、千笠くん」
桜は嬉しそうに言った。
優は後で知ったが、命の恩人と傘の恩人が同一人物と知り、再会できたことを奇跡に感じていたそうだ。
二人はその日、どの大学生よりも、ジュースと烏龍茶で色んな話をしたのだった。




