身を知る雨
ターゲットの尾行、5日目
天気、雨。
前回の尾行から数週間が経った。今日が日記を盗み見る、決行の日だ。
日記を見ることを望んでいたのに、実行犯は僕じゃないのに、行きの電車に乗っていると朝から吐き気がこみ上げてくる。
とてつもないことをしていると思った。
SNSの情報を頼りに、女の子を探して、待ち伏せして、家を突き止めて、行動を把握して、忍び込む。
紛れもない犯罪行為だ。ストーカーだ。
こんなことをできたのは、神田桜がいたからだ。
それは単に、彼女が忍び込む能力を持っているというだけでなく、一人の女の子が自分の行動を認めてくれているから、大丈夫だと思えてしまったのだ。
慎重に行動している。
にもかかわらず、ハッピーエンドなんてありえないだろうなと思う。
弱者でなければ、こんなことをしないから。
弱者と結ばれてくれる女の子などいないから。
それでもいいから、日記を見たい。
これは過去への復讐でもあるのだ。
高校3年生の時は特に鬱屈していた。
駅でキスをしているバカップルなんかを見ては、死ねとつぶやきたくなった。
そんなに幸せを見せびらかしたいのかと。
そんなに愛に満たされた自分たちを披露したいのかと。
僕がやっていたことといえば、憂鬱な物語を読んだり、暗い音楽を聴くことだけ。
肉体も、知性も、人望も、何もかもがひたすら低い男だった。
自ら不幸を求めるような節があった。
陽のあたる世界で輝けないなら、いっそ闇の世界に沈んでしまおうと思った。
そうすることで、漠然と、自分はいつか大物になれると思えた。
これだけの心の闇を背負っているのだから、同じ心の闇を背負っている人を支配できると。
いつか、本か、絵か、音楽か、あるいは事業なんかを通して、自分の心の闇を世界に切り売りして成功するのだと。
これだけの不幸を抱えたのだから、それに見合った幸福が与えられるはずだと。
しかし、僕は普通の少年だった。
親の愛情と経済力に恵まれ、爆笑しあう友達もそれなりにいて、中途半端に幸せだった。
だから僕はきっと、何者にもなれやしない。
桜が僕に協力しているのも、僕が、身の丈を超えた行動をしようとしない、凡人だと判断しているからだろう。
「お隣いいですか」
待ち合わせ場所に着くと、桜が元気に声をかけてきた。会うのは久しぶりだった。
「よかったわね、予報通り雨で。無事犯行を終えたら、バケツに貯めた雨水で祝杯をあげましょう」
「病気になるよ」
桜はいつも通りの様子だった。
緊張している姿を隠そうとしているのかもしれないが。
「今日はビニール傘、持ってきてないんだな」
「雨に濡れる必要があるからね。私が透明になっている間、あなたにずっと持っててもらうのも悪いし。ターゲットの家まで近いんだから、相合傘をお願いするわ」
桜は、おじゃまします、と言って僕の傘の中に入ってきた。
「今日もこの黒い傘なのね。私の傘が盗まれた日にも貸してくれた」
「そうだよ。俺のお気に入りの傘」
「ふーん。あれ、受骨のところ、なんか貼ってない?」
「うけぼね?」
「俗に言う骨の部分よ。真下からだと見えにくいけど、私の角度からだと見える。前に借りた時は走ってたから気づかなかった」
桜はそういうと、手を伸ばした。
骨の部分は黒かったが、ペンか何かで黒く塗られた紙が巻き付けられていた。
広げると、数字が書かれていた。
029―228―0177
「何だこれ?」
桜の表情が、変わった。
「どうした?」
「……えーと、うーん」
「どうしたんだよ?」
優が疑問を投げかけた時、事態は動いた。
想い出の女の子が、マンションから出てきた。膨れたビニール袋を持っている。
「ターゲットが来たぞ、ゴミを捨てに行くんだ!」
「…………」
「鍵、かけてないみたいだ。数分で戻ってくる」
「え、ああ、うん」
「行かないのか?」
「えーと……」
「何か気になるか?」
「……行かなきゃ、だめかなぁ?」
「はぁ?ストーカー中なのをお忘れか?」
何もかもをこの子に任せているくせに、焦りから、僕は責めるような言い方をしていた。
今、この子は、僕のために人間関係を崩壊させようとしてくれているのに。
「……そうだね。さっさと終わらせなくちゃね。この雨が、やまないうちに」
桜は雨にうたれながら、巾着袋から鈴守を取り出した。
鈴守を握った途端、彼女の姿が一瞬で消えた。
信じてはいたけれど、それでも衝撃を受けた。
「それじゃあ、行ってきます」
何者もいないはずの空間から、桜の声だけが聞こえた。
一人の人間が透明になった。
そしてその強大な力をもってして、僕の代わりに今から女の子の部屋に忍び込み、ただ日記を取ってくるのだ。
マンションの2階を見ていると、何者もそこに見えないのに、ドアが開いた。
桜が入ったのだ。
数分後、想い人は戻ってきて、家の中に入った。
そこにもうひとりの女の子が入っているとも知らずに。
身体が濡れている限り、雨が降り続いている限り、屋根の下でも効力は消えないと言っていた。
うまくやってくれるだろうか。
引き出しをあけたりすれば、当然気づかれる。ポルターガイスト現象が起きたと思われて、騒がれてしまうだろう。
日記は毎日書くものだから、それも親のいない一人暮らしであるならば、枕元や机の上に置いていないだろうか。
僕は、何もせずに立っているだけだった。
この1秒1秒を通して、神田桜は誰かとの人間関係が崩壊し続けている。
もしも、僕との交友関係が途切れたら、彼女が戻ってきても僕はおかえりを言ってあげられない。
崩壊までの速度を把握しているから安心して、と彼女は言っていた。
人間関係なんてあいまいなものは、何分経ったから一人消えるとか、単純な一次関数で把握できるものではないだろう。
だとしたら、彼女は相当な経験を積んでいる。
親以外の交友関係を失うほど、彼女は能力を使用したと言っていた。
一体、何のために?
どれだけの願いを叶えようとしたら、それほど透明になる時間が必要になるというのだろう?
よほど手に入れたいものがあったのだろうか?
今、こんなことに協力をしてくれているということは、僕と同じように、どうしても結ばれたかった人がいたのだろうか。
僕は、神田桜のことを知らない。
自分の苦しみを伝えることに一生懸命で、彼女が抱えているものを何も知ろうとはしてこなかった。
下手に感情を害させて、協力してもらえなくなったら困ると正直思うこともあった。
さっきの電話番号を見て、彼女はなぜあんなに表情を変えたのだろう。
知らなければいけないはずのことを、僕は知っていないのではないか?
神田桜に尋ねるべきことを、僕は尋ねていないのではないか?
あるいは。
彼女が僕に話すべきことを、僕に隠している?
さっきの電話番号に、手がかりがある気がした。
急いで携帯電話を取り出し、電話をかける。
すると、無機質な女性の声が聞こえた。
『水戸地方気象台。6月15日。午前5時発表の、週間天気予報をお知らせします。茨城県の、天気予報と降水確率です。16日、日曜日は曇り時々晴れ。17日、月曜日は晴れ、時々曇り。降水確率は10%。17日……』
「なんだ、これ」
天気予報た。
今の時代に電話で調べる人などいるのだろうか。
そして、桜の心には、何がひっかかったのだろう?
携帯電話をポケットにしまう。
考え事に夢中になっていると、突然、肩を叩かれた。
透明ではなくなった桜がいつの間にか隣にいた。
「うわ、びっくりした」
「駄目だった」
「駄目だった?」
「男性がいた」
「兄弟?いたっけな……」
「そうかもしれないって思った。ずっと布団に潜ってたから、構わずに引き出しの中を漁っていたの。運よく日記はすぐに見つかったけど、彼女何年分も溜めてるみたいだった」
桜が手ぶらでいるところを見ると、持って帰ってこなかったようだ。
「色々手段は考えていたのよ。携帯で動画をずっとまわしていたから、必要なページだけを撮って千笠くんに見せるとか。いっそ全部持ってきてしまうとか。でも、ターゲットが戻ってきてね。その、二人がね。私もう、ここにいちゃいけないなって思ったの」
「何してたの?」
「……恋人だったみたい」
「…………」
「手段ばっかり考えてて、あなたの気持ちについて考えきれていなかった。あなたが、今あの人と結ばれることではなく、過去の想い出を確認することに価値があると思っているのなら、私は出てくるべきではなかった。混乱して逃げてきてしまったの。でも、玄関の鍵はまだ空いたままだから……」
「はぁー、セックスかぁー。そうかー、おセックスかー。朝っぱらから、仲のよいことで」
「やめてよ」
「大学4年生だもんなぁ。尾行した時にいなかっただけか。恋人いるならSNSで匂わせとけよ。はぁー、解散解散。俺も風俗にでも行ってくるかなー」
「やろうとしてもいないことをやるだなんて言って、自分を傷つけないで」
「馬鹿みたいだな、俺。滑稽だよな」
「そんなことないよ」
「神田さん、ずっと前に良いこと言ってたよ。俺がやろうとしていることは、虹の足元に行こうとしてることだって。そうだよ。遠くから見てたから綺麗だったんだ。公園の水道に親指を被せて霧状に噴射させたら虹が出たことがある。中に突っ込んだけど、ただ濡れただけだった。近づくもんじゃないよな、虹って」
「…………」
「悪かったな、人間関係、無駄にしちまって。日記はもういいよ。もう、過去なんていらないよ」
惨めだった。
とぼとぼと駅に向かって歩いた。
無様に雨に打たれる。
傘は桜に渡した。
相合傘をする気には到底なれなかった。
後ろからピチャピチャという足音と、りんりんという鈴の音が聞こえる。
気を遣って話しかけないでくれているのだろう。
一つの想い出に縋って生きていたせいで。
その想い出を失ったら、自分には何もなくなってしまった。
重い。
雨が、重い。
気だるくて、退屈で、つまらなくて、痛い。
嫌な物語だなと思った。
僕というひたすら醜い男が、神田桜という女の子の人間関係を犠牲にして、人のセックスを覗き見させただけの物語。
僕の人生の程度がしれた気がした。
幸せの総量というものは、ひとりひとりに生まれた時から割り振られていて、きっとあの夏の日の夜に僕は全て使い切ってしまったのだろう。
どうしようかな、と思う。
このまま大学を卒業して、就職して、孤独に働き続ける人生なのかなと。
ふと、さきほどまで自分が考えていたことを思い出す。
自分は、神田桜のことを何も知らない。
彼女は、僕が彼女のことを何も知ろうともしないのに、多大な時間を費やして、結局大きなリスクを負って、ストーカーの手伝いなんかをしてくれた。
天啓が降りてきた気がした。
そうだ。
何も失うものが、本当になくなってしまった今だからこそ。
せめて、神田桜という女の子には、何かを手に入れてもらおう。
僕の人生を賭して、彼女が望むものを。
彼女が透明人間の力を使い切っても手に入れられなかったものがあるのなら、僕が協力してそれを手に入れにいこう。
後ろを振り返った。
「神田さん!」
「へへっ?」
上ずった声で、彼女は返事をした。
見逃さなかった。
彼女は笑っていた。
面白い出来事でもあったかのように。
透明であることの余韻が残って、誰にも見られていないかと思っていたかのように。
「何がおかしいんだよ」
「ええと……」
「今、笑ってただろ」
「……笑ってないよ」
「やっぱり、滑稽だったんだよな」
一つの閃きが浮かんだ。
「そうか。透明人間にしか手に入れられないものがあるんだ。君はそれを手に入れたかったんだ」
「な、なに?」
「手に入れたいのは、金でも、誰かの秘密でもない。透明人間の力を利用した者の末路を君は目にしたかったんじゃないのか?それが、ハッピーエンドでもバッドエンドでもどっちでもいいから。怪しまれないように消極的なふりを最初は装って、最後には協力するんだ」
「違うよ!!」
「はじめからそう言ってくれればよかっただろ。そしたら存分に利用させてやったさ。良い観察対象だったな。透明人間の人生の、前例なんてない。だったら、つくればいい。他人を利用してな。そうして、いくつもの末路を観たかっただけじゃないのか?そもそも副作用なんてのも、本当にあるのか?」
「ひどいよ!何を根拠に!」
「もう二度と会わないでくれ」
「優!」
彼女は名前を呼んだ。
「……あなたが好きなの」
「…………」
「恋人になってほしいの」
「……名前で呼べば好きになるような、簡単に誤魔化せる男だと思ってるのかよ。そうやって、俺の人生をたぶらかして、他にどんなバッドエンドが見たいんだよ」
「そんなつもりじゃないよ。私は……」
「ああ、俺、今どうかしてるな。八つ当たりしてるんだろうな。きっと、家に帰ってから罪悪感で死にたくなるんだろうな」
「優、あなたは……」
「君の優しさは、もうわかったからいいよ。さよなら」
「ねえ……」
「ついてくるな」
冷たい言葉を残して、僕は歩いた。
彼女の足音はついてこなかった。
僕は、生きている価値がないな、と思った。
「……お隣いいですか」
「ごちそうさま」
大学近くの定食屋で、カレーを食べていた。
声を聞いただけで、神田桜だとわかった。
食べかけている食事を残して、席を立った。
「ちょっと、ひどいよ」
「何か用か?」
「これ、返しに来たの。傘」
「晴れてるのにご苦労なことだ。それじゃあ」
「ちゃんと話しましょう」
「学食で食べてろよ。俺はもう傘を探すのを手伝ったりはしないから」
「あなたは誤解してるの」
「じゃあ今すぐ話せよ。どうしてあの時笑っていたんだ」
「……正直に言うよ。あなたがあの子に振られて、嬉しかったから。私と付き合ってくれるかもしれないと思ったから」
近くの女学生の会話がぴたりと止んだ。
「ストーカーをしたいという男が現れて。そのストーカーを手助けして。それで、好きだったっていうのか。めちゃくちゃだな」
「色々あって……」
「もう、疲れたんだよ」
その後も何度か、神田桜は姿を現した。
その度に、僕は冷たく突き放した。
彼女が僕を好きになる道理なんてない。
見えない秘密を抱えている女の子に、利用されて、傷つくのはもう嫌だ。
叶わない希望に裏切られて絶望するくらいなら、希望がない日常の方がマシだ。
やがて、神田桜は、姿を現さなくなった。
安心すると同時に、少しの不安も生じた。
もしかすると、これは、副作用なんだろうか。
あの日、彼女が力を使ったことの副作用として、僕は彼女との人間関係を無意識に崩壊させようとしているのだろうか。
副作用の詳細については詳しく教えてもらっていないからわからないけれど。
それならそれで、いい。
好きであるべき人を好きに思えないのなら、好きになろうと頑張るべきではないのだ。
僕は、僕の人生の主人公ではない。
当然王様になんて一生なれない。
ただの、当事者だ。
だから、被害者になった。
そして、加害者になった。
性懲りもなく、数年後には高校時代の親友なんかに、この不思議な出来事を話すのかも知れない。
居酒屋で好きでもないお酒を片手に、俺に優しくしてくれた女の子がいたんだよ、なんて言って。
頭のおかしいやつだと思われないように、透明人間だということだけを隠して。
俺に告白してくれたんだけど、素直になれなくて振っちゃってさぁ。あの時OKしてたら、今も彼女と二人で雨の日の中、楽しく話していたんじゃないのかなとか。あの時ああしておけばよかった。こう言っておけばよかった。そんな後悔ばっかりの人生だよって。
そして、あのときの告白は本当だったのかと確かめたくて、また、待ち伏せでもするんだろうか。
次は神田桜のストーカーにでもなるんだろうか。
きっとその頃には、彼女にはふさわしい恋人ができているのだろう。
僕はまた、特別に深い闇を抱えた気になって、過去の傷を舐めながら無様に生きていくのだ。
これが僕の人生の、物語なんだ。




