さくらの鈴守
「だからさ、ラノベのあらすじなんか読んでいると、嫌になっちゃうんだ。こんな都合の良いボーイミーツガールは、現実にはないんだよって思っちゃってさ」
「奇跡を信じたくないの?」
「奇跡を信じろと言われても困るよ。信じる前に、奇跡が嫌いなんだ」
大学生協の書店を二人で歩いていた。授業に重なる時間帯だったので、他に学生は少なかった。
「でも、そんなのナンセンスだよな。そんなに現実重視なら、本なんか読んでないで、現実を生きていればいいんだから。ありえたかもしれない青春に、囚われていないでさ」
「あなたが抱えてる症状、なんて言うか知ってる?」
「なんて?」
「青春コンプレックス」
「嫌な言葉だ」
「あなたみたいな人、なんていうか知ってる?」
「なんて?」
「青春ゾンビ」
「はは、やっぱり嫌な言葉だ」
「私は好きだけどな」
「青春ものが?」
「ううん。ご都合主義の、ボーイミーツガール」
二人は何も買わずに書店を出た。
外は晴天だった。
「あのさ。決行日についてなんだけど」
「ふふ。あのさだって」
「何がおかしいんだよ」
「いつも名前で呼ぶの避けるよね。多分それって私にだけじゃなくて、他の人に対してもそうなんでしょ。『あの〜』『そういえば』『すみません』とか言って話しかける」
「名前で呼ぶの慣れないんだよ。そっちだって全然呼んでないじゃん」
「千笠優くん」
「何?」
「嬉しいくせに」
「意味わかんねーよ」
「私も名前で呼んで」
「じゃあ、神田さん」
「桜でいいよ」
「神田さん、決行日についてなんだけど」
「あっ、無視した」
桜は携帯電話を開き、天気予報を確認した。
「来週の月曜日にしましょ。雨天決行。実際に日記を盗む日に限っては、雨天のみ決行よ」
「雨天のみ?」
「雨が降っている間しか、透明になれないの。チャンスが来たら能力を使う。あるいは、ピンチが来たら」
「雨天限定なのか」
「これを拾ったのが、雨の時だったからかもしれない」
桜はそう言うと、小さなお守りのようなものを見せてくれた。
花のサクラの模様が入った、ピンク色の球体だった。
紐をつまんで揺らすと、しゃりん、しゃりん、と鈴の音が鳴った。鈴守というらしい。
「雨が降っているときに、これをぎゅっと握って雨に打たれると、透明になれるんだ。身体に注がれた雨の量が一定値を超えると、全身が一気に透明になる」
「にわかには信じられないな。使い方をどの程度把握しているの?」
「自由研究みたいに色々試したよ。例えば、雨水をバケツに貯めて置いて、晴れた時にそれを被ってみる実験。でも、ただびしょ濡れになっただけだった」
桜は説明を続ける。
「雨の日に雨に打たれて、透明になった場合。そのあと屋根の下に入っても効果はしばらく持続する。『雨の日に、濡れている間は大丈夫』ってことみたい」
「その時、服とか持ち物も透けるのか?」
「ええ、そうよ。所有物も周囲の人には認識されない。銀行強盗がぶつけられるカラーボールなんかにあたっても、インクの所有権がこちらにうつるから透明になってしまうでしょうね」
「はっ!?それって最強じゃない!?」
「弱点があるの」
「副作用のこと?人間関係が崩壊するっていう」
「パンプスやヒールを履けないの、コツコツうるさいから。スニーカー履くしかない」
「何か問題が?」
「身長が低くなっちゃうでしょ」
「高くならないだけだろ?」
「デリカシーのないやつ」
「ごめんなさい」
「まあ、他の点に関して文句はないわ。わざわざ全裸になる必要がないから助かるのよね」
「それってどうなのかな、透明人間的に」
「ん?」
「古典的小説で透明人間の話を読んだことがあるけれど、それは肉体部分が透明だった」
「こちらは雨に濡れるという条件付きなんだからそれくらい許してよ。まぁ、ずぶ濡れになる必要もなくて、身体全体が湿れば良いんだけどね。だから例えば、ドライヤーでふとももを局所的に乾かしたところで、ふとももだけが出現することにはならないの」
「一定の割合を超えるとって感じなんだな。あとさ、透明になるって言うのは、幽霊みたいに透けることもできるの?」
「いいえ、カメレオンみたいに擬態するようなものなの。だから困ったことに、私の髪の毛や肩に雨が吸収されてしまう。なので人とぶつかるのはもちろん、意識して目を凝らしたら、透明人間がそこにいることがわかってしまう」
「それって透明人間じゃないじゃん」
「東京駅で誰も七三分けの角逆立てた男に気づかないのだから、雨の中に目を凝らす人なんていないよ」
「あのさ。その鈴守に力が宿ってるんだったら、俺も使え……」
「私以外は使えないの」
「本当?」
「さあね」
「まあいいよ。君に従うよ」
「他に質問は?」
「鏡には映るの?鏡を平行に置いて、その間に立って見たら何が見えるの?」
「それは試してないな。無限の鏡合わせが見れるね。確かに、そそられる実験ではあるね」
「なるほど」
「他に質問はある?」
「例えば1chの生放送に繋がっているカメラを担いでいるとするじゃんか。そのカメラで1chを映しているテレビ画面を真正面から捉えたら何が映るんだ?」
「もはや透明人間関係ないじゃない。無限鏡に興味持っちゃってるじゃない」
「だって難しくてよくわかんないんだもん。透明人間はいうまでもなく、雨の定義がわからなくなってきた」
「理科で習ったでしょ。大気中の水蒸気が気温の低い高空で凝結して雲になって、その中で水滴が成長して地上に降ってきたものが雨」
「ええと、一滴空から降ってきただけでも、雨なのか?」
「呼び方のことかな?」
「呼び方?」
「1時間あたりの雨量によって、雨の呼び名は変わるの。1ミリ未満なら『小雨』。3ミリ未満なら『弱い雨』といって、地面がすっかり湿める。8ミリ未満で『雨』と呼ばれる。地面に水たまりができる程度ね。『強い雨』『激しい雨』『非常に激しい雨』と続き、一番強い表現が『猛烈な雨』といって、50ミリ以上の場合。滝のように降る雨ね。雨しぶきであたり一面が真っ白ぽくなる程度」
「なんでそんなこと知ってんの?」
「おじいちゃんが気象学者だったから」
「じゃあテレビ出たことあるの?天気予報とかさ」
「気象予報士とは別だよ。それに、気象予報士の資格を持ってるアナウンサーはごく一部だよ」
「ほ、ほーん」
「空返事してない?」
「空の話だけにな。難しい話はさておき、来週は雨降りそうなんだな。日本は雨が多いだけはある」
「日本の上空には空の水道が集中しているからね。台風、梅雨前線、温帯低気圧、雷雲、冬の季節風による雪雲の行列。単純に世界の国の年間の降水量ランキングだと全然上位じゃないんだけどね。国土面積が小さいから。年間降雨日数だと上位なんだけど、それでもトップ10入りはしてなかったような」
「意外だな」
「ただね、日本人の傘の年間消費量はおよそ1億2000万本以上。日本の傘の消費量は世界1位なのです」
「適当に言ってない?」
「日本洋傘振興協議会の調査よ。無駄にインテリぶらないわよ」
「年間に一人一本買ってるってこと?多いような、少ないような」
「多寡は問題ではなく、傘は大事に使わなくちゃ駄目だよ」
「一度失った傘は戻ってこないもんな」
優は自分の発言が桜を傷つけてしまったんじゃないかと咄嗟に気づき、焦った。
けれど桜は気にするそぶりも見せず言葉を続けた。
「そんなことないわよ。確かにことわざでもさ『雨落ちれば天に上らず』って言葉がある。『一度降った雨は天には戻らない。一度冷めた愛情が、元にもどることは難しい』っていう意味なんだけど。実際には、雨は巡回して空に戻る。降ったその場で蒸発して大気に戻る水もあるくらいだし」
「その言葉初めて聞いた。覆水盆に返らず、みたいなものか」
「大雨のことを『盆雨』っていうこともあるのよ。お盆をひっくり返したみたいに降るから。盆から水がこぼれて空になっても、空の盆から水が降り注ぐから大丈夫だよ」
「やり直しは聞くってことだ。明るい話だ」
「そうね。そうだといいね」
桜は俯いたまま返事をした。
優は思う。やはり、傘のことを諦めきれていないのだろうか。
しかし、自分だって落ち込んでばかりはいられない。
ついに、想い人との寄りを戻しにいくのだから。




