賤ヶ岳の戦い6
天正11年正月。秀吉に対し、伊勢の滝川一益が挙兵。亀山、関などの城を攻略すると共に一益自身は長島城に入り、東海道筋を防衛線とするのでありました。2月。態勢を整えた秀吉は、大軍を以て一益を攻撃。両者の戦闘は激しいものとなるのでありました。その頃、柴田勝家の居る越前は雪深いため動くことが出来ず。その間秀吉は、亀山の城の奪還に成功。長島城への攻囲を強めるのでありました。この情勢を受けた勝家は、雪が融けきらぬ2月末。国境を越え、近江へと兵を進めるのでありました。その数3万。この報を受けた秀吉は織田信雄と蒲生氏郷に長島城の攻囲を依頼。秀吉自身は5万の軍勢を率い当初の予定通り木之本の地に本陣を。先に三成が設置した余呉の湖周辺の砦に各将を配備するのでありました。これを受け柴田勝家は、北国街道沿いの柳ヶ瀬から西方の内中尾に本陣を移すと共に、先に近江に入った佐久間盛政を行方山に。前田利家を茂山にそれぞれ配備。両者は余呉の湖北方で睨み合いに入るのでありました。
三成「吉継の発案により構築した砦について殿は満足されていた。近江と美濃のネットワークについても同様。そして勝家の布陣についても納得された様子。兵糧弾薬もきちんと行き渡っている。……しかし気になることが1つある。勝家が布陣した内中尾に対する我が方の備えに問題は無い。加えて柴田勢が加勢して来る北国街道沿いについても街道の東西の要地に砦を配備している。ただ問題なのは……。……殿と吉継が手を付けなくて良いと言った余呉と琵琶湖の間……。そのルートから本陣のある木之本を防ぐことが出来る術が無い……。しかもそのルートから侵入することになると思われる人物があろうことかあの2人とは……。」
三成が気にする2人の人物。
1人は佐久間盛政。尾張の名門。佐久間氏の一族である盛政は、身長6尺の恵まれた体躯を活かし猛将として名を馳せ。六角、朝倉、足利に越前一向一揆などのいくさで活躍した盛政は、叔父でもある柴田勝家の越前入国に随行。勝家の与力として加賀一向一揆、上杉との戦いにおいても活躍し、現在は加賀半国を治める金沢城主。
そしてもう1人が前田利家。信長の側近としてキャリアをスタートした利家は途中。信長の勘気をこうむり織田家から離れる時期があるも、いくさで成果を挙げ復帰。その後、織田の主だったいくさに参戦し、盛政と同様。勝家の与力として越前入国。越前一向一揆鎮圧後、佐々成政、不破光治と共に府中三人衆の一人として活躍。その後、能登一国を与えられた人物。
三成「この2名が西回りで入って来たとなると……。確かに琵琶湖の西岸には丹羽様が居る。ただ丹羽様が彼らの侵攻ルートに兵を送り込むためには……琵琶湖を渡らなければならない。琵琶湖を渡るまでの時間。我が方が余呉の西を守り切る術は無い……。一気に本陣のある余呉の東に兵を進められ。余呉の北との補給路を断たれるばかりか。……木之本の本陣をも脅かされることになる。……にも関わらず殿も吉継も『そのままで良い。』と申しておる。……あたかも西から敵が侵入して来ることを歓迎しているかの如く……。」
三成「……ん!?西から攻め込んでくることを歓迎している……。先に出した図面に対し殿は、『西は要らぬ。』と仰られていた。……と言うことは、殿は危険を冒してでも敢えて敵を本陣近くにまで引き入れようと考えている。加えて殿は近江と美濃を結ぶ伝達手段についても確認されていた。それを見ての『西は要らぬ。』であった。……と言うことはこのルートも活用しようと考えられている……。私が殿であったなら、これらを見てどのような方法で柴田を倒そうとするのか……。吉継!!吉継はおらぬか!!」