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女郎蜘蛛

作者: 哀川 雅

 



 子宮を抉り取られた若い女の死体が、東京都内を流れるS川の河川敷で発見されたのは、太平洋戦争終戦の翌年、昭和二十一年の一月十日。冷え込みの厳しい朝だった。




 発見後すぐにおける検視の結果、以下の点が判明した。

 被害女性は十代後半から二十代前半。

 直接の死因は頚部を圧迫されたことによる窒息死だと思われる。現時点で死因が断定できない理由は、腹部が刃物で裂かれているのが死亡前か死亡後か、その点は司法解剖の結果を待たなければはっきりしないことである。

 衣類は上下ともに乱れていたが、性的暴行の痕はなし。裂かれた腹部からは子宮が切り取られて取り出されており、死体発見現場から下流に五十メートルほど下った川岸の葦の茂みに、それと思われる臓器が引っかかっているのが発見された。検出された血液は人間のもので、血液型は被害者女性のものと一致しているため、当該臓器は被害者女性の子宮で間違いないものと推定された。

 なお、被害者が身に着けていた手袋のうち左側の片方と、腹部を裂くのに用いたと思われる刃物は、現時点では行方不明である。

 この事件は、〝S川女性惨殺事件〟として、すぐに新聞の紙面を飾った。

 人々は、将来ある女性をかくも残忍に殺して捨てた犯人に対する恐怖よりも、むしろ被害者である若い女性の遺体が、それも女性の身体の中でももっとも無防備な臓器を引きずり出したという、グロテスクな有様で放置されていた点に対する興味本位で、この事件に注目した。まるで、自らのあずかり知らぬ遠い場所で起きている余興のように。新聞の中には、被害者は全裸で遺棄されていたとか、実は性的暴行の痕跡があっただとか、甚だしくは被害女性が実はパン助(進駐軍兵士を相手とする売春婦)だったなどと、紙面を憶測で飾り立て、売れ行きを増やそうとするものすらあった。

 それは先行きの見えない社会に対する不安から逃避するための、一種の娯楽の様相すらあった。犯行から数日を経てもいっこうに犯人やその手掛かりは見つからず、憶測は憶測を呼び、勝手気ままな犯人説があちこちで吹聴されるようになった。それが、敗戦を迎えてまだ半年も経たない終戦直後の、日本の精神的荒廃の有様だった。

 ……つい前年の昭和二十年、八月十五日。この日の正午、ラジオ電波に乗った天皇の声が、十五年近くも続いてきた大日本帝国の戦争の終わりを告げた。日本人が有史以来一度も体験したことのなかった〝敗戦〟が、現実のものとなって国民全員の肩にのしかかって来たのだった。

 そして同月末、神奈川県・厚木飛行場に、日本統治の責任者となるアメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー将軍が降り立ち、ここに連合国軍総司令部(GHQ)による日本の占領と統治とが現実に始まった。海の向こうからやってきた新たな支配者による統治の幕開けである。それは日本全国に、不安と期待が混ぜこぜになった、ある種の大きな興奮の嵐を巻き起こした……。

 敗戦直後に国内津々浦々で巻き起こっている種々の混乱は、年明けを迎え昭和二十一年が訪れても、まだまだ収まる気配はなかった。ほんの半年ほど前まで絶対とされていた権威や権力は軒並み否定され、西洋の新たな力と価値観とが、敗戦のショックで一億総痴呆となっていた日本中を席巻した。憲法も占領軍の……アメリカ人の手によって作り変えられることが既に発表されており、政治や経済もまた、日々目まぐるしくアメリカナイズされている。

 しかし、東京を見わたすと、辺りはほとんど一面の焼け野原のままだ。戦争末期の一連の大空襲で焼かれた東京の地では、生き残り薄汚れた人々が、瓦礫の焼け跡のあちこちにへばりつくようにバラックを構え、ただただ飢えないことだけを考えながらその日その日を疑心暗鬼の目で過ごしている。人通りの多い道路や駅前の通りでは、終戦の日の夕方からとっくに闇市が立ち、これまでどこに隠匿されていたのだろうかと驚くばかりの食料や生活用品や資材などが所狭しと並べられ、焼け野原の街で唯一の、異様とも言える活気の様相を呈している。闇市は確かに人々の需要に答え、日々の糧を提供してもいるが、並べられている商品はほぼ例外なく法外な値段で売り買いされている。それらの多くは米軍や旧日本軍の横流し物資であったりすることがほとんどで、こうした闇市での物価高騰は、日本中に蔓延していきつつある悪性インフレの温床となっていた。

 また、戦後の混乱に乗じ、闇市のあるところには必ずと言っていいほどヤクザが根付き、急速にその勢力を拡大していた。いや、闇市だけではなく、国内のいたるところが無法地帯になりつつあった。無秩序の中に人々が秩序を求めるのは当然のことだが、いわゆる第三国人グループや愚連隊に社会を荒らされるよりは、とヤクザや暴力団などの反社会的勢力が、人々から急激に求心力を得ているという事態が発生していた。

 そのような状況下であるにもかかわらず、警察行政は頼りにならない状況だ。終戦この方、すでに日本国内の警察は、社会秩序維持のための必要悪たるべき力を失っていた。信じられないことに、東京都内で年末に起きた朝鮮人グループの暴動に対し、警察は手出しが出来ず、あろうことか地元のヤクザ一家に応援を要請したという情けない出来事があった。これを知った心ある人々、ことに東京の司法関係者らは一人残らず唖然とするだけだった。

 そんな現状の東京では、連日、ヤクザ絡みだと思われる殺人事件が起きている。身元の分からない死体がどこそこの街角や裏路地、水路や川に棄てられているのが見つかったりもしている。それだけではなく、盗み、強盗、恐喝、強姦など、ありとあらゆる無法が、日常茶飯事のものとなっている。

 だからと言うべきか、日常化してしまった凶悪事件そのものに対し、純粋かつ健康的な憤りを感じている者は、多いとも言えないのが現実だった。

 その数少ない一人、弁護士の河合誠一(かわいせいいち)は、東京・虎ノ門に事務所を構える弁護士事務所に勤務している若手弁護士だ。彼は、事務職や給仕なども含めると総数二十数名にもなる事務所の、所属弁護士の中では最年少の二十八歳である。

 そんな彼が、昼食に立ち寄った事務所近くの大衆食堂で偶然にも警視庁・K警察署に所属する、中学時代の旧友で、最近でも付き合いを持っている刑事と出会ったのは、事件が新聞に載ったその薄曇りの日の昼過ぎのことだった。挨拶もそこそこに、河合は仲山泰三(なかやまたいぞう)刑事に、〝惨たるかな婦女殺人・咲き乱れるは惡の華〟と大見出しに記されたタブロイド判の、紙もインクもひどく薄い新聞記事を示してみせた。

「なあ君、どうしてこうも猟奇的な事件ばかりが後を絶たないんだ。昨年の暮れには渋谷で質屋の一家皆殺し事件、正月にも神田でダイナマイトを使った銀行強盗事件だ。上野の闇市辺りじゃあ、強盗傷害事件も引きも切らないじゃないか……そしてまた、今回の事件だ。無力な女性がこんな風にして殺害されたんだぞ。しかも、この事件管轄は、まさに君のいるK署じゃないか。まったく、君たち警察は何をしているんだ」

 その全国紙の紙面の中では、加害者よりもむしろ被害者の女性の方が、まるで後ろ暗い存在であるかのように取り上げられていた。普段は温厚な河合だが、さすがにこれには堪えようがなかった。そんな折に、たまたま河合は旧友と再会したのである。警察がしっかりしていなくてどうするんだ、という意味での喝を入れるつもりの河合だったが、自分の所属する署の管轄内で猟奇殺人を起こされてしまった立場の仲山刑事は、ばつが悪そうにうどんを啜りながら答える。

「仕方ねえだろうが。とにもかくにも、人手が足りねえんだよ」

 味の薄いうどんのつゆに映る自分の顔を力なく見つめる旧友のくたびれた面に、河合は言葉よりも雄弁に現在の警視庁の多忙さを見て取った。根が大人しい河合とは違い、よく言えば元気、悪く言えば鷹揚なところのある、根っからの江戸っ子の仲山だが、いま現在の彼の職務の多忙さが、持ち味であるはずの気力を削いでいるのに、古い友人である河合は気づいていた。仲山は続けた。

「終戦このかた、警察じゃGHQの指導による公職追放で、ベテランの刑事や警部クラスがめっぽう首を切られちまってるんだ。戦時中からずっと警察という国家権力の内部にいた人間は、日本の軍国主義の再来を招きかねないからだってな。特高警察や憲兵なんかは、もはや存在すら許されていない。それでいてこの社会不安と治安悪化ともなれば、それこそ猫の手も借りたいくらいだ」

「なんだ、じゃあ君はまた戦争中みたいに特高や憲兵が権力をむき出しにして堂々と闊歩する時代のほうが良かったと言いたいのか?」

 疲れ切った復員兵らしき男たちや、明らかに堅気とは思えない闇市がらみの男たちの喧騒に満ちた埃っぽい空間の中で、米粒よりもやたら水分のほうが多い芋雑炊の丼を置き、飯粒の付いた箸を右手にして仲山を指すようにしながら、河合は半分皮肉交じりに、そして半分は憤然としながら語気強く問うた。河合に限らず、戦時中から法曹界にいる関係者は、誰もが一人残らず国家からの見えざる力に翻弄され、あるいは法の下の正義を曲げざるを得ないという不条理な経験を否応なしにしてきた。

 十五年戦争と言われる一連の戦争の発端ともいえる、満州事変に始まる大日本帝国の膨張は、その憲法が規定していたはずの立憲主義をも形骸化させ、法制度やそれに伴う諸規定・諸機関は、その後に続く長い戦争の為の総力戦体制に資するべく、都合のよい道具と成り下がった。

 特に、反戦的な思想を持つ者、特に共産主義思想を持つ者らを取り締まる特高警察は、戦時下日本の思想警察として、恐喝や拷問など、法を逸脱した苛烈な取り調べなどにより、国民からは恐怖の対象となり、警察組織の中でも飛び抜けて絶大な権力を欲しいままにしていた。必然、終戦を迎えてから、国民から忌み嫌われていた特高警察は、日本陸軍の軍警察であった憲兵隊とともに、GHQ統治の下で解体され、消滅していった。

「そうは言っちゃいねえだろ。俺が言いたいのは、一事が万事、今は警察の人手があまりにも足りねぇということで、それを俺は弁護士先生にも是非ご了承頂けりゃってことだよ。……人も時間も足らないのに、そのくせ事件だけは日々、山のように降り積もっていく。捌ききれないっていうのが俺達の本音なんだがな」

 疲れと苛立ちをない交ぜにしてため息混じりに話す仲山。

「……それは分かる。分かるけどな、僕は個々の事件がぞんざいに扱われるのには我慢がならないんだよ」

 ぽつりと言った河合の溜息を、仲山は仲山なりに小さく頷きながら聞いた。

 河合は太平洋戦争さなかの昭和十七年の春に大学の法学部を卒業し、高等試験(司法試験)にも受かり、弁護士として登録をして、現在の法律事務所に入職していた。幼い頃から長年にわたり続いていた支那事変に国中が疲弊して冷静さを失い、やがて太平洋戦争に突入していくのを、法に基づいた自由主義者をひっそりと自負する河合はなすすべもなく見ていた。大政翼賛会と称する国策政治団体が国政を圧倒し、議会制民主主義は画餅と化し、異様な興奮状態に陥った国民の多くがそれを後押しし、〝聖戦〟はずるずると継続されていた。その〝聖戦〟がやっとのことで終わりを迎え、ほっとしたというのが河合にとっては正直なところだった。日本軍の武装解除が進められ、GHQの統治が始まれば、どういった政策がとられることになるのだろうかという不安もないではなかったが、これからは旧弊に束縛されない新しい日本が建設されていくのではないかと思うと、そこまで気落ちしていない自分に、天皇の玉音放送で日本の敗戦を知った河合は気付いていた。

 ともあれ、これからは戸締りさえしっかりしておけば、生命の心配などはせずに済む。もう空襲警報は鳴らないのだし、空から焼夷弾も降ってこないし、そして誰も河合に召集令状を届けに来ることもないのだから……。

 果たして、進駐してきた占領軍……GHQは、敗戦国に圧制を敷くことはなかった。彼らは鮮やかに統治体制を整え、着実に実行している。つい数か月前まで鬼畜米英と叫んでいた子供らは、街角で米兵が投げるチョコレートやチューインガムに群がり、先を争って奪い合っている。大人たちはそれを見て目をひそめているが、進駐軍の救援物資が国内の飢餓を抑制しているという事実を、彼らは果たしてどこまで知っているのだろうか。

 GHQは、日本における新しい憲法の制定にも着手しているという。どういった内容の憲法が出来るのかは分からないが、少なくとも、日本を破滅に導いた体制の基盤となった明治憲法などよりはもっと民主的な新憲法が起草されるだろう、というのが司法関係者らの間のもっぱらの話だった。

 だが、道のりは長いだろう。この国が自らの手で民主主義に基づいた法秩序を保てる日が来るまでは、苦しくともこの混沌とした社会情勢を、忍び難きを忍びながら歩いていくしかない……。

 ところが、その新国家への道の始まりには、一国の崩壊がもたらした治安の低下という混沌が待ち構えていた。それが、先述した通りの社会不安である。

「まぁ、いずれにしろ要は民主主義さまさまだ。日本を統治するのが単に軍閥からGHQに変わったってだけで、何かが劇的に良くなったわけじゃない。アタマのいいお前なら、分かるだろう?」

 河合にとっては身も蓋もないことを口にする仲山。だが河合も黙っていない。

「いいかい、民主主義は一日や二日で出来上がるものじゃない。我々国民が自ら行動して、社会をより良くしていこうと努力しなくちゃいけないんだ。GHQが何もしない我々に自由と権利を無条件に与えてくれると思ったら大間違いだぞ」

「何にしても、今の日本じゃあその日その日を食って生き永らえるのがどこでも精一杯だ。ま、俺が言うのもなんだけどな……。ただお前と違ってな、今の一般民衆は、とても国民主権だの平和主義だのを実感する暇もありゃしないんだよ。民主主義が手っ取り早く腹を満たしてくれればいいんだけどな」

「……」

 いよいよ身も蓋もないが、それはそれで肯定せざるを得ない仲山の現実的な言葉に、河合はぶすりと黙り込んでしまう。

「おいおい、あまり大仰に考えすぎるなよ。余計に腹が減るぞ。……もちろん、俺達警官だって、秩序の安定には全精力を注いでいるつもりさ。だがな、去年の夏の敗戦この方、お前が言う我が国の法秩序とやらはとうの昔に有名無実だ。司法にいるお前だって分かってるだろう?」

 そう言って、仲山は右手で自分のよれよれのワイシャツの胸ポケットを探った。しかし、ポケットには何も入っていない。物価が際限なく高騰していく折も折、大好きな喫煙を経済的な理由で止めている仲山は、それでも無意識下で煙草を求めている自分に嘆息する。そんな仲山に、河合は例の事件の詳細を尋ねてみることにした。

「君の言いたいことは分かった。……で、そのS川の殺人事件だけどな、捜査は進みそうか?」

「そう簡単にはいきそうにない」

「難航しているのか?」

「ああ。新聞報道に対してはまだ完全に解禁していないが、仏の身元はもう分かってる。死亡推定時刻は、午後六時から八時ごろだ。場所も新聞にあったろうから、だいたい見当はつくだろう?その時間帯、現場周辺には普段から人気はない。暗い中での犯行なのは多分間違いなかろうさ。遺体は司法解剖を受け、その後遺族に引き渡される流れになってたな」

「そうか……手掛かりはそれだけか?」

「今のところはそうだ。凶器もまだ見つかってはいない。……もっとも、被害者の生活拠点やその周辺の知人に対する聞き込みなんかはまだ手を付けられていない状況だ」

「なんだ、その確認も初動捜査では重要なはずだろう?」

「だから言ってるじゃないか。人手が足らねえんだよ」

 堂々巡りの議論の再開を予想して仲山はうんざりしかけたが、しばらく黙り込んだのちに口を開いた河合の言葉は、仲山を驚かせるものだった。

「僕が捜査を手伝ってやろうか?」

「……は?」

 刑事は間抜けな声を上げたが、弁護士は生真面目に続ける。

「僕が被害者女性の周辺で、自分なりに調べられることを調べてきてみるよ。そうでもしないと、人手不足というだけで貴重な時間が浪費され、その間に犯人が逃走や証拠隠滅を進めてしまったら、もうどうしようもなくなるんだぞ。司直の末席にいる者として、少しは僕も積極的に協力してみたいんだ」

「それは弁護士の仕事じゃないだろう。お前が普段から言っている、司法の中立性とやらはどこに行ったんだ」

「他意はない。要するに新聞記者にでもできる位の手伝いだよ。頼むよ、この事件の解決には僕にだって出来ることがあると思いたいんだ。大丈夫だ、君には迷惑はかけないようにする」

「駄目駄目。そうは言っても、そりゃ駄目だ。俺が刑事部長からどやされちまう」

「……」

 無理は承知しつつも、それ以上は言えないなと諦めかけた河合に、仲山が申し訳なさそうに声を掛ける。

「お前のその気持ちだけは頂くよ。しかし……分からないな」

「何がだ?」

「そのお前の正義感と言うか、何というか……何がお前をそこまで駆り立ててるんだ?」

 問うてみた仲山の目線から逃れるように目を伏せ、顔を曇らせた河合は、ややあって小さく言った。

「……後ろめたさ、かな」

「……?」

 河合の言うところの後ろめたさの正体は、仲山には正確には図り知れなかった。しばらく黙り込んでいた二人だが、不意に仲山が、思い当たることがあったとでも言うようにふと顔を上げた。

「……待てよ。そういえばお前、確かM大の法科の出身だったな?」

「ああ、その通りだ。それがどうかしたのか?」

「……それなら、前言撤回だ。お前にも捜査を少しだけ手伝ってもらおうか」

「もちろんだ。しかし、いったいどういう風の吹き回しだ?」

 喜色を浮かべて意気込む河合に、仲山はちらと周囲を見回し、声を潜めて言った。

「まだ未公開だが、被害者の女はな、M大の女子部の学生だったんだよ」



 ***



 願ってもないことに仲山の捜査の手伝いをできることとなった河合は、とりあえず被害者女性が在学していたという、河合自身にとっては母校のM大を、仲山と共に訪ねることにした。仲山としても、M大での聞き込みには自分だけでなく卒業生の河合を同行させる方がスムーズにいくという目論見があるのは言うまでもない。

 ところが、河合と仲山が動き出そうとする前に、事件は急展開を迎えた。

 死体が発見された四日後の夜のことだった。薄汚れたシャツと外套とズボンにゲートルと靴とを身に着けた男が、事件管轄署であるK警察署へ堂々と出頭してきたのだ。そして開口一番、S川の女殺しは自分がやりました、とさながら軍人のように直立不動で申告した。

 居合わせた刑事が話を聞くと、男は被害女性の殺害方法や現場の状況などについて、調書と寸分違わずに刑事に話してみせた。さらに男は、女物と思われる手袋の片方を持っていた。調べたところ、それは紛れもなく被害女性が身に着けていた手袋の片割れであった。

 驚いたK署が、すぐに男の緊急逮捕に踏み切ったのは言うまでもない。

 だがその男は、自分の名前は決して語ろうとはしなかった。その上、男は自分の身元を示す物も持ち合わせてはいなかった。仲山を含め、尋問に当たった刑事らは、その男から被害者女性の殺害についての一部始終の詳細は聞き出すことはできても、男がなぜ犯行に及ぶに至ったのかという動機を聞き出すことも出来なかった。男の正体も、殺意の根源も不明なまま、あっという間に一週間の時間が経過した。

 犯人が自首したところで仲山からはお払い箱にされかかった河合だったが、いっこうに自らの正体を明かそうとしない被疑者にほとほと手を焼かされる羽目となった仲山にダメ元という形で依頼を受け、再び捜査への協力に携われるようになった。

「H弁護士事務所に所属している弁護士の河合です」

 今、河合はK署の一室で、S川女性猟奇殺人事件の被疑者である留置中の男と、小さな机を挟んで向かい合う形で椅子に座っている。仲山刑事と、口述速記役の警官も同席している。喧騒で溢れた署内にあって、今この部屋だけは、異様な静けさに満ち満ちている。

 存外に物静かな第一印象の被疑者の男に、河合は冷静につとめ、まず自己紹介をした。弁護士という言葉に男はまず反応し、ぼんやりと落としていた目線を上げた。

 河合はその男の顔を見た瞬間、ある種の驚きを感じた。その正体を探った時、それが既視感であることに気づき、河合は困惑した。

 ……僕は、かつてこの男に会ったことがある……?

 しかし、記憶を探っても、目の前に手錠をかけられて座らされている殺人被疑者の男と面識を持ったことはない。人違いだろうか?だとしたら、かつて会ったことのある誰かに似ているということだろうか。しかし、ならばそれはいったい誰なんだ……河合は記憶の深みに落ちていきそうな自分を何とか押しとどめた。接見の時間が限られている以上、こんなことで時間を無駄にすることはできない。

 河合は、改めて被疑者を眺めてみた。風貌の印象から、被疑者は恐らく河合自身とほぼ同年代だろうと思った。背丈はおそらく河合や仲山よりも大きい一七五センチほどで、自首してきたときに身に着けていたのと同じであろうシャツとズボンを着ている。髪の毛は、坊主頭を半年近くもそのままにしておいたような感じで、全体的に六センチほどの長さになっていた。造りの良さそうな顔を薄く覆う無精髭を剃ってみれば、ややもすれば自分よりも若いのかもしれないと河合は思った。

 そんな河合をよそに、男が口を開いた。

「……あなたが、自分の弁護士になるんですか?」

 男にそう問われて、困ったなと河合は思った。自分の立場を、この男に対して正直に言ってしまう訳にもいかないからだ。言うまでもなく、少なくとも現時点において、この男は河合のクライアントではない。

 自首し、それでいて自分の素性は頑なに語らないという被疑者。K署としては、このまま男を送検できないこともないのだが、動機はおろか被疑者の氏名も調べ上げられないまま男を検察へ引き渡すというのも沽券に関わる話だ。今回、部外者である立場の河合が被疑者に接見することが出来たのは、被害女性の大学の先輩である司法関係者であれば、被疑者から新たに何らかの情報を引き出せるかもしれないと仲山の上司が判断したからだった。苦し紛れの判断ではあったが、敗戦を迎えてGHQの統治下となった今、戦前や戦時中のように手荒い手段……いわゆる恫喝や拷問によって、被疑者からの自白を引き出すことも当然にはばかられることが、異例ともいえる判断の根拠の一つであった。

 しかし男は河合の返答を待たずに言葉を続けた。

「弱ったな。自分は弁護士の先生を雇う金なんて持ち合わせていませんよ。そんなことくらいは当然ご存じだったでしょうに、それでもなぜ先生は自分に会いに来たんです?」

「それは……」

「単に、あれほどの事件を起こした犯人の顔が見たかっただけですか?」

 河合は目の前の被疑者から心の内を薄々と見透かされていることを悟り、内心で無様に震えた。しかし男はと言うと、特に感情を昂らせる様子も見せることなく、話を続ける。

「お越しいただいたところ申し訳ありませんが、自分は弁護などは必要としていません。無意味です。あれを成し遂げた今、自分に弁護などは無意味なのです。自分のしたことはしたこととして、どんな刑でも負いましょう」

 男は、毅然としてこう言った。

 河合は、これまで数件の刑事事件に関った経験がある。しかし、これほどにまで心穏やかにしている殺人事件の被疑者を見たことはない。この男は、単に投げやりなのではない、諦観しきっているのでもない。確かにこの男は、自分のしたことを隠そうとしていない。そして恐るべきは、後悔の念すらも一切持ち合わせていないであろうということだった。

 ……この男は、悄然と、そして誇らしく胸を張り、絞首台の階段を昇っていくつもりだろう。むしろ、男はそれこそを望んでいるのかもしれない。

 そう思って、河合は途端にこの男に対する敵愾心がむらと沸き上がるのを感じた。どんな理由かは知らないが、この男は一人の人間を殺しておきながら、自分は刑に処されて楽になろうと思っているのではないだろうか。そうか、だから殺した人数はわずかに一人でも、その殺し方を凄惨なものにして、意図的に極刑を狙ったのではないだろうか。

 仲山も仲山で、これまでの取り調べと変わらず非協力的な態度を見せている被疑者にいら立ちを隠せない。

「ちっ……てめぇ、いい加減にしねぇと……」

 気色ばむ仲山。しかし、男はまったく動じた様子もなく、投げやりな視線を机の上に落とし続けているだけだ。河合は片手で仲山を制しつつ、男に向き直る。

「君の言う通りだよ。僕はね、そんな大層なもんじゃない。興味本位で君と接見したかっただけじゃないかと言われても、それを強く否定することは僕には出来ない」

 その言葉に、男は顔を上げた。こいつは思ったよりも馬鹿正直な奴だな、とでも言うような微笑を男は口元に浮かべた。

「まず君に聞きたい。君の名前は?」

「……」

 男は答えない。織り込み済みだったので、河合はすぐに質問を進める。

「被害者の女性……葛原百合子さんを殺害したのは間違いなく君なんだな?」

「ええ。それは何度も他の刑事さんに話しました。あの女を殺したのは、間違いなく自分です」

「……葛原百合子(くずはらゆりこ)さん、鹿児島県出身。都内にあるM大の女子部に在籍中の、前途ある女性だった。面識こそないが、彼女は僕の大学での後輩にも当たる女性だった」

「……」

 男はちらと目線を上げた。一瞬だけ驚きの表情が男の顔によぎったが、河合も仲山も特に気に留めることはなかった。河合は胸ポケットから、生前の葛原百合子の写真を取り出し、机の上に置いた。上品なおかっぱの髪型で、ぽってりとした唇と細い眉、意思の強そうな眼差しを持つ葛原百合子の写真を見ても、男は特段の反応は示さなかった。

「……その葛原さんを、君はあんな風に無惨に殺して棄てた」

「はい。その通りです」

 男はすんなり頷いた。その返事には、誠実さすら垣間見えたように河合と仲山には感じ取れた。

「そうか……。そうなのか。だったら大したものだよ。常人には、あんなことはとても真似できない」

 推定無罪……何人も、有罪と宣告されるまでは無罪と推定される……という近代刑法の大原則も頭から吹き飛んでしまった河合は、わずかに声を荒げた。

「何とでも言って下さって結構です。他人が自分をどう評価しようと、自分は自分を恥じることはありませんから」

 男があまりにも冷静で、むしろ河合のほうが感情を昂らせつつある。つい先日まで、いま河合がしているようにこの被疑者の男と向かい合っていた仲山は、何も言わずに二人のやり取りを見ている。

「葛原さんと君はどこで知り合ったんだ?」

「……」

 この質問にも男は沈黙を守った。

「殺しの動機は何なんだ?」

「動機……ね。取り立ててお話するようなことじゃあないですが……先生、何だと思います?」

 面白がるような素振りを見せた男に、河合はついに感情を爆発させ、拳を机に叩き付けた。

「茶化すんじゃない!僕は真剣に聞いているんだ!」

 これにはむしろ仲山が仰天したが、男は全く動じた様子もなく、寡黙な表情を崩さない。

「答える義理はありません。弁護士は弁護士でも、あなたは自分の担当弁護士ではない」

 筋の通った男の主張に、河合は言葉を詰まらせる。

「……それに、答えたところで、あなたにはどうせ理解できない」

「当たり前だ!君のような異常者の考えることを、僕が理解できてたまるものか!」

「そうですか。だったら最初から自分に会いになど来なければいいではありませんか」

 仲山は、弁護士が被疑者に翻弄されているのをいくぶん冷静に見て取った。どうせ、これまでの尋問でも同じような態度でかわしてきた男だ。河合を対面させたところで、あまり意味はなかったか……そう結論付けようとした仲村だったが、しばらく黙ってそっぽを向いていた河合が、不意に口を開いたのを聞いた。

「……金が目的だったのか?」

「何ですって?」

 男の声がほんの少し揺らいだ。彼の冷静さに、わずかにひびが入ったようだった。

「若い女性が狙われた事件だが、性的暴行の痕跡はなかったと聞く。君がもし多少なりとも理性を持ち合わせているだと仮定すれば、他に想像できる合理的な理由としては、故郷を離れて東京に出た娘……それを大学にまで通わせることが出来るほどの資産家の子女だった葛原さんの、金銭目的の衝動的なじゃないかとも予想できるが」

「……ちがう、そうじゃない。俺は、あの女の金なんて一銭も盗ってなんかいない」

 先刻までの落ち着いた男の態度に、明らかに変化が生じている。

「他に合理的な説明がつかない以上、そう判断するしかないんだよ。君が動機について今後も黙秘し続けるのであれば、君の刑が確定しても、その判決理由には『金銭目的の犯行』と記載されるかもしれないね」

 そこまで言ったとき、男が引き攣った顔と声を上げた。

「違うっ!いい加減にしてくれ!先生、あんたは俺を冒涜したいのか!」

「ならば真実を言い給え!でなければ、君はただの猟奇的な物盗りか、さもなくば精神異常者だったという烙印を押されて、人生を終えることになるんだぞ!」

 負けじと大声を上げる河合。被疑者の男は、やがて静かにうなだれていった。

「……先生、これだけは知っておいて欲しい。金なんかの為じゃない。そんなものの為に、自分はあの女を殺したわけじゃないんです」

 ややあって、男はそれだけをぽつりと言った。

 室内の誰も何も口を開かない時間が数分すぎたのち、やがて河合が沈黙を破った。

「……まあ、金目的じゃないだろうなとは思っていたよ」

「え?」

 ぽかんとする被疑者に、河合は説明を続ける。

「恐らく、君と葛原さんは、以前に何らかの縁を持っていた関係だったはずだ。そうでなければ、夜の河原に君が葛原さんと二人きりになれた……恐らく誘えたであろうはずがない」

 男は唇をそれと分からないほどに歪ませた。

「……それに、首を絞めるのみならず、わざわざ刃物まで用意して腹部を切り裂くというのは、明らかに尋常ならざる深さの怨恨からきているとしか思えないからね。それも、計画的な……」

「……」

「君と葛原さんの接点はいったいどこにあるんだ?」

「……」

「君は、最初から自首するつもりだったのか?」

「ええ。罪は罪ですから」

「だったらどうして、すぐに自首しなかったんだ?」

「……」

「凶器はどうしたんだ?」

「……」

 黙り込んでしまった男に、河合はこれ以上の質問は無駄かと思ったが、しょせん自分は捜査関係者ではないからと思い直し、別の疑問をぶつけてみることにした。

「……君は葛原さんの首を絞めてから、腹部を刃物で裂いたのか?」

「ええ……それが?」

 男は素直に答える。

「どうして、わざわざそんな事をした?」

「……」

 男は黙り込んだ。

「決して、腹部を裂いてから絞め殺したわけじゃあないんだな?」

「……何を仰りたいんですか?」

 河合は少し迷ったが、男の質問に答えることにした。

「……つまりだね、殺してから腹を裂いたとなれば、これは殺人罪のほかに死体損壊罪に抵触する恐れが大なんだよ。首を絞めた上で腹を裂いたとなれば、これは明らかに死体損壊罪だ。だが、短剣で相手を殺し、その後にとどめとして首を絞めたとすれば、殺人罪は当然免れないにしても、死体損壊罪にまで問われるかどうかは微妙なところだ。もっとも、これは司法解剖の結果を待たなければ何とも……」

「ふん、馬鹿馬鹿しい」

 出しぬけに男はそう言った。

「そんな言葉遊び一つで、刑の重さが変えられてたまるものか……」

 男は、心外だとばかりに、軽蔑のいろを浮かべていた。

「先生、自分は死刑を望んでいます。自分は自分でしたことに後悔はしておりませんが、罪は罪として甘んじたいと考えています」

「しかし……、そもそも君は一体どこの誰なんだ。それが分からなければ、捜査も何も始まらないじゃないか」

「そんなことはないでしょう。自分は殺害の様相もすべて話しています。証拠だってある。それをもってしてもなお、自分が犯人ではないとする根拠はおありですか」

 河合にではなく、最後は仲村に向けて言った被疑者。整然と、〝殺害の様相も〟という言葉が被疑者の口から淀みなく流れ出たことに、河合は引っかかるものがあったが、それ以上に今は、被疑者に聞きたいことがあった。

「さっきから聞いているだろう。そもそも君が誰なのかも、そして君が葛原さんを殺した動機も、まったく分からない。これはまた別の想像なんだが、君はもしかしたら誰かから葛原さんの殺害を依頼されたのではないかね?そして君は、その依頼主である誰かを庇うために、今なお黙秘を続けているんじゃないか」

 河合は自分なりの推理を開陳してみせたが、男は呆れた顔をして見せて、すぐに失笑を漏らした。

「そんな事実はありません。先生、あの女を殺したのは自分です。自分は、自分の意思であの女を殺した」

「……では君がなぜその意思を持つに至ったのかを教えてくれ」 

「それは……」

 何かを口ごもりかけて、男は再び口を開く。 

「どうしても、生かしておけなかったからです」

 仲山も問いかけを投げる。

「てめぇは、なんだってそう強く死刑を望むんだ?」

 そう聞いた時、同席していた警官が、定められた面会時間の終わりを告げた。

「……弟に会うためです」

 河合と仲山と別れ、留置場へ戻された男が暗く冷たい牢の中で一人ごちた言葉は、誰の耳にも入ることはなかった。



 ***



 翌日、都内にある私立M大学の法科キャンパス内。

 被害者である葛原百合子が在学していた大学であり、河合の母校でもあるここM大は、創立を明治時代にさかのぼる由緒ある伝統校であり、また女子部を創設して女子学生をも受け入れてきた、先進的な大学でもある。

 しかしM大とて例に漏れず戦争という名の激動に翻弄され、ことに太平洋戦争開戦以降は、学問の自由を著しく制限され、翼賛体制の一つとして組み込まれ、多くの学生を学徒兵として戦場に送り出すための母体と成り下がってしまっていた……戦時下の日本中の高等学校や大学がそうであったように。

 昨年の空襲で学舎のいくつかが焼失してしまい、瓦礫となっているここM大学だが、学問の自由を取り戻したという活気が、小春日和のキャンパス内を行き来する学生達の間から漂っている。空襲の猛火に晒されたプラタナスの並木も、寒風の下でいつか来る春を待ちながら揺れているように感じられる。

 この日、焼失を免れた学舎の一つ……M大法科棟の応接室のソファに、河合は座っていた。

「本当に、びっくりよぉ。まだあんなに若いのに……」

 河合は、自分の在学時代から事務員として法科棟の学生課で働いている還暦間際の小母さんと話していた。小母さんは、顔見知りだった河合の来訪をひとしきり懐かしがったのち、河合の来訪目的が、殺された葛原百合子と交友関係があった学生等の調査であることを知り、今は亡き女学生に時おり声を潤ませつつも、饒舌に話しだした。

 小母さんの話によれば、葛原百合子はいわゆるお嬢様然とした女学生であったようだ。躾はきちんとしていて丁寧だったが、恐らく乳母日傘で育てられたのか、我が強いところも時には見られたという。下宿も安いところではなく、大学からは少し離れた高そうなアパートに一人暮らしだった。お嬢様的な感情起伏の激しさは、もしかしたら月のものがキツい体質だったのかも知れない……等、思い出すままに喋る小母さん。

 生来の話好きで、いったん口を開けば機関銃のように止まらない小母さんが、本当に葛原百合子の死を悲しんでいるのかどうかすら怪しく感じてしまいそうになりかける河合だが、法科の事務所では一番の古株の小母さんでなければ知り得ない情報が貴重であることには変わりはない。

 河合は小母さんの喋りに気圧されつつも話を傾聴し続ける。

「葛原さんの学業のほうはどんな感じだったかご存知ですか?」

「成績はどちらかというと良い方だったわね。あまり勉強熱心というタイプの学生ではなかったようだけど、定期試験の結果は上位にはいたものねぇ。まぁ、でも葛原さん自身は学業よりは遊ぶ方に重点を置いていた感じだったかしらねぇ」

「遊ぶ方に?」

「ほら、あの娘、田舎から出てきてたでしょう……ええと、九州の……どこだったかしら」

「鹿児島だそうです」

「そうそう、そんな感じの訛りだったわね……だから入学してきた頃は東京のことなんてよく知らなかったみたいだけど、周囲からいろいろ教わって、帝劇や日劇とかにも行ったりしてるって話しているのを聞いたことがあるわ。映画なんかも好きだったみたいで、よく浅草なんかへ行くって言ってたわねぇ」

「交友関係なんかはどうでした?」

「付き合いは広くも浅く……って感じだったかしら。とりたてて言うほどの親友っていうのはいなかったわね」

「それは本人がそう言っていたんですか?」

「いいえ。女の勘よ」

 そもそも、女同士が親友になるっていうのは中々難しくて珍しいもんなのよ、と小母さんは意味深なことを言って舌を出した。分かったような分からないような河合だったが、小母さんはお構いなしに続ける。

「葛原さんは、誰かから恨みを買うようなことはありましたか?」

「そう……ねぇ、色恋沙汰になりかねないような美人ではあったけど、実際その辺がどうだったかは私じゃ分からないわね」

「そうですか……」

「そうそう……親友って言うのは違うかもしれないけど、しいて言えば、葛原さんと一番仲が良かったのは、啓子ちゃんかしら」

「ケイコちゃん?」

「ええ、河合君も面識があったでしょう?ちょっと呼んでくるから、待ってて頂戴ね」

 小母さんは、よっこらしょと立ち上がり、応接室を出ていった。

 しばらくして、トントントンと折り目正しいノックが三回なされた後に、ドアが開いた。入って来た人物を見て、河合は思わずソファから腰を浮かした。

「……驚いたな……」

「あら……お久しぶりです、河合先輩」

 上下に女もののスーツをきっちりと着こなした礼儀正しい若い女を、河合は良く知っていた。河合にとって、彼女は河合がM大に在学していた時の後輩だったからだ。河合が卒業を控えた最後の年に、彼女は……夷森啓子(ひなもりけいこ)はまだ法科に入ったばかりの一回生だった。

 法科女子部の学生の一人だった夷森と、河合とは特別に親しかったわけではない。しかし、当時の法科女子部にあって、また、いくら女子部を持つ大学とは言えどもその内部的にはまだまだ男尊女卑とは決別しきれない風潮下にあって、模擬裁判などの授業などで積極的に発言し、また学内討論会の場で、男女同権という理想を今後の日本の法曹社会においていかに実現させていくかを凛とした声で滔々と演じた夷森の姿は、当時の学内でもちょっとした名物になっていた。法科の最上級生だった河合は、自分の担当教授だったN教授の研究室にその夷森が入ってきたのを喜び、何度か個人的にアドバイスをしたり、法律論について語り合ったことがある。

 もっとも、一年ののちに河合が卒業してからは、互いに何かしらの連絡を取り合うこともなく、そのまま終戦を挟んで数年の月日が経っていた。

 ともかく、河合は反対側のソファを夷森に勧め、自分も再び腰を下ろした。夷森の甘美な香りが、河合には微かに感じられた。

「ええと……今日はたまたま登校していたのか?」

「私、今は大学で司書のアルバイトをしながら、卒論に追われている真っ最中ですわ。あとは高等試験の準備もしています」

「あ……そうか、君はこの春が卒業だったな。卒論はうまく仕上がりそう?」

「まずまず……です。〝新体制下に建つべき我が国の男女同権〟っていう長たらしいテーマですけれども」

「完成が楽しみだ。君は将来、男女同権を愛してやまない素晴らしい法律家になるだろうと思っているよ」

「まぁ、先輩ったらお上手」

「とんでもない。君のような女性法律家は、いつかこの国のミネルヴァ(ローマ神話で知恵を司る女神の意)になるだろうね」

「そんな……光栄ですわ」

 本気で言った河合に、夷森は少女のように頬を染めてはにかんだ。

「先生達はお元気にされているか?」

「……恐らく既にご存知だとは思いますけれど、N教授は去年の五月の空襲で亡くなられました」

「……ああ。聞いているよ。担当教授だっただけに、本当に残念だよ」

 場の空気が急にしんみりとなってしまったのに慌てたのか、夷森はすぐに言葉を繋いだ。

「あ、でも他の先生方はお元気にされてます!応召されていた非常勤の先生方も、戦地から次々に復員されて大学に戻られていますわ」

「そうか……良かった」

「……先輩は、弁護士のお仕事はもう慣れてこられましたか?」

「いやぁ、まだまだ雛っ子だよ」

「お話を色々お伺いしたいわ。今度、私をお茶にでもお誘いして頂けないでしょうか?」

「ああ、僕なんかで良ければ、今度ね……。で、卒論で忙しいところを済まないが、幾つか君に聞きたいことがあるんだ」

「はい。今しがた、事務の小母さんから話は少しだけ聞きました。葛原さんのことですわね」

 夷森は浮かべていた微笑を消し、姿勢を正した。

「本当に呆気ないことで……びっくりしました」

「……君は、亡くなった葛原百合子さんと面識があったんだろう?」

「ええ。葛原さんは、私の一つ下の学年にいた方です」

「なるほど、それなら僕と在学期間が被っていないわけだ。彼女とはどのようにして知り合ったんだ?彼女もN教授の研究室の一員だったのか?」

「ええ……でもそれだけじゃありません」

「と言うと?」

「……私と葛原さんは、同じグループにいたんです」

「グループ?研究室とはまた違う集まり……か?」

「ええ……今ならもう隠し立てすることもありませんが、学生だけのいわゆる地下グループのことです」

「地下グループ……と言うと……」

 戦前・戦時中の〝地下〟という言葉は、そのまま自由主義・反戦主義などのいわゆる〝反体制〟を意味する言葉だった。ということは、目の前にいる夷森啓子や殺された葛原百合子は、フランス各地でナチスに対し武力闘争をしていたというレジスタンス的な左翼活動をしていたのだろうか……と河合は思った。

 しかし、夷森は淡々と続ける。

「地下グループと言っても、戦争中に非合法団体だった日本共産党のように、体制転覆だと暴力革命か、そんな大それたことを計画したりしていたんじゃありません。私たちがやっていたのは、マルクスとかエンゲルスとかの発禁本の輪読会とか、戦争の今後についてや理想の国家像を討論し合うとか、そんな程度です。男の子が小さい頃にしていた秘密基地遊びみたいなものですわ。そこで私たちは、あまり大声では語れないような他愛もないことをこっそりとしていただけです。想像ですけど、私たちだけではなく、M大の他の学部や都内の他の大学でも、同じようなグループはあったと思いますけれども」

「……戦争中に、そんなグループを作っていたのか。君は勇気があるな」

「グループを立ち上げたのは私じゃありません。葛原さんです」

「何だって?葛原さんが?」

「ええ。当時まだ下級生でしたけれど、そうやって人をまとめたりする活動性は人一倍あった方です」

「そうだったのか……君もそうだが、葛原さんも勇気のある女性だな」

「先輩、勇気ある女性というのはおかしいですわ。女にだって勇気ある人はいますし、男性にだって勇気のない方もいらっしゃいますから」

「……そうだね。いや、失言だ。済まない」

 お気になさらないで、と夷森は上品にほほ笑んだ。都内の高等女学校からM大の女子部に進学してきた媛才の余裕を河合は感じた。

「だが、君らが危うい橋を渡っていたのは事実だ。恐らく、君らは特高警察にマークされていたんじゃないか?」

「でも、警察の手入れを受けたことはありません。周囲に誰かの監視の影があった気配もありませんでしたし……」

「そうか……いずれにしろ君らが無事だったのは何よりだった。他に女子学生のメンバーはいたのか?」

「いいえ、私達だけでした。今もそうですけれど、あの頃も女子学生の数は少なかったですし。だから必然、葛原さんと最も親しく交際していたのは私ということになりますね」

「では後は男子学生のメンバーだったというわけか。しかし、グループの内容が内容だから、誰でも彼でも仲間に入れたわけじゃあないだろう。彼らはどういった経緯で、グループへの参加を呼びかけられていたんだ?」

「全て、葛原さんが呼びかけていた方ばかりです」

「葛原さんが……」

「ええ。週に一~二度、人気のない資料室に集まって、先ほども言った輪読会や討論会をこっそりとしていました」

「なるほど」

「私もですけど、葛原さん本人も、あまり何かを発言されたりはしていませんでした。むしろ他の男子学生の皆さんの方が、熱心に討論されていましたわね。何しろ、男性の方にとって自分たちの将来のことは、生きるか死ぬかも分からない切実な問題だったでしょうから」

「でもなぜ、葛原さんはそんなグループを立ち上げようと思ったんだろう?」

「葛原さん、入学したての時はまだ右も左も分からなくて少し寂しそうにしてましたもの。鹿児島から出てこられたばかりで、言葉の壁もあって、私なんかよりも美人で綺麗でしたけど、他の学生たちとも最初の内はなかなか打ち解けられなかったようでしたし……」

「ではやはり、葛原さんが最も親しくしていたのは、やはり君ということで間違いはないんだね?」

「ええ……。だったら江戸っ子でもある私が東京のことを色々と教えて差し上げようと、私は葛原さんと一緒に帝劇や日劇に行ったり、浅草に映画を見に行ったりしましたわ。葛原さん、そういうのが元々お好きだったみたいですし、実際とても喜んでくれていました」

「ああ。さっき事務の小母さんもそう言っていたよ」

「でも一昨年の昭和十九年頃から、戦争の激化を理由に帝劇や日劇も閉鎖されて、映画も国策もの以外はほぼ皆無になってしまって、歌劇団も次々に解散してしまって……。娯楽はあっと言う間に消えていってしまったんです。そういう娯楽が好き元々お好きだった葛原さんにとっては、せっかく出てきた華の都がつまらない街になってしまったんですから、失望以外の何ものでもなかったでしょうから……」

「……少しでも大学の学生たちで集まれるような場を作りたいと思っていた?」

「けど、もちろんそれだけじゃないと思います。葛原さんが地下グループを立ち上げた理由」

「……」

「……あの時期、大学そのものが、戦時下の不自由な空気に鬱屈していたんですから。葛原さんに限らず、M大の学生は、ほとんど皆……もちろん、私もその一人でした」

「なるほど……」

「葛原さんにしても、日本に数少ない念願の女子大学生になれたというのに、ちっとも学問の自由を享有できなかったんですから、気兼ねなく思ったことを言い合える場が欲しかったのかも知れませんね」

 河合も、戦時下の空気を思い起こしていた。河合がM大を卒業する前、すでに真珠湾攻撃から一年が経とうとしていた。真珠湾攻撃の半年後には早くも東京が初めての空襲に遭って、その後に日本軍が南方の各地で劣勢になっていた。

「地下グループが立ち上がったのは、それまで制度上では軍隊への召集を免除されていた文系大学生の学徒動員が現実のものになろうとしていた時期ですから。もう学問の自由なんてどこにもなかったんですもの」

「政府と軍部の統制の下で、国策に反する学問的研究なんか出来るわけがなかっただろうしな」

「学内の教授や助教や学生の中にも、体制におもねったり同僚を密告するようなこともありましたから……」

「そんな息苦しい中で、本音で語り合える場が欲しいと考えていたのは、皆一緒だったということか。……そうか。いや、その気持ちは僕にも理解できるな。そのグループ内で、いや葛原さん自身の周囲で、人間関係のトラブルなどはあったか?葛原さんが、誰かに恨みを持たれるような……」

「さあ……」

「……済まないが、君が把握している限りで構わないから、葛原さんが主宰していたというその地下グループに参加していた学生の名前を教えてくれないか?」

「そう仰るだろうと思いまして、一覧を準備してきました」

 夷森の気の利きように感動しつつ、河合は夷森から手渡された大学ノートの切り取られた一頁を見た。葛原百合子と夷森啓子の他に、十数名の男子学生の名前が、女性らしい丸っこい文字で記されていた。しかし、それぞれの名前の下に記された情報が、河合を愕然とさせた。

「……何てことだ。ほとんどの男子学生が戦死してるじゃないか」

「ええ……。文系学生の学徒動員はM大でも徹底されていましたから」

 しばらく何も言えずに、今は亡き青年達の名前に釘付けになる河合。

「しかし……それにしても、よくここまでの情報を追うことが出来たね」

「M大には学徒として出征した在学生・卒業生のOB会であるM大戦友会がありますから、そちらへ問い合わせればすぐに教えてくれましたの」

「そうか……」

 面識のあったのも散見される戦没学生の名前の列を前に、なおしばらく打ちひしがれたようになっている河合に、しばらく間をおいてから夷森が問いかける。

「先輩は、先日の葛原さんのお葬式には行かれましたか?」

「行けるものなら行きたかったが、生前何のかかわりもなかった僕が顔を出すのもおかしな話かと思ってね」

「私も顔を出そうかとは思いましたが、でも結局、お葬式は身内だけでひっそりとされたと聞きました。ご実家があまりにも遠方ですから、こちらにあるご親戚のお家で……」

「まあ、亡くなり方が亡くなり方だったからね」

「……多分、葛原さんとご家庭との折り合いはあまりよろしくなかったんだと思います。葛原さんがご家庭のことを話されたり、お手紙を書かれたりすることは、少なくとも私は見たことも聞いたこともありませんから。本人の口から、ご実家は地元の旧家だとは聞いていましたけれども」

「葛原さんはご家族とは疎遠だった?」

「私の印象では、その通りです。日ごろ、家族や誰かに手紙なんかを出したような様子もなかったですし、戦時中も、まだ国内旅行が制限されていない頃ですら、葛原さんは里帰りなんか一度もしていませんでしたもの。大学生活には何不自由なく過ごせる程度には、ご実家から十分に仕送りがなされていたみたいですけれどもね。そう言えば、ご実家の方からご家族や親戚の方が葛原さんを訪ねて来られるようなことも、私が知る限りでは一度もありませんでした」

「そうか……ところで君自身は、葛原さんのことをどう思ってた?」

 微妙な間を挟んで、夷森は微笑んだ。

「可愛らしい後輩だと思っていましたわ」

「あとは、葛原さんのことで何か他に知っていることはないか?」

 少し何か考える様子を見せた後で、夷森は言った。

「いいえ、特に何も」



 ***



 M大で夷森と会った三日後、河合は本業の合間にK署へ赴いた。K署は、今日も相変わらず喧騒と足音に溢れ、せわしなくバタバタと走り回る警察職員らの様子は、人手不足の現状を雄弁に物語っていた。

 河合を待ち構えていた仲山は、開口一番に申し訳なさそうに言った。

「葬儀のために上京していた葛原百合子の家族に話を聞こうとしたが、無駄足だったよ。両親をはじめ、誰も彼もから迷惑そうにあしらわれちまった。『今は娘の冥福を静かに祈りたい。大騒ぎするのは止めてくれ』とか何とか言ってたが、要するに事件の真相究明なんかどうでも良さそうというか、むしろ、問題の多い娘からようやく解放されたってな印象だったな。いいとこのお嬢さんだったみたいだが、果たして家族間の絆とやらはどれほどのものだったんだろうな」

「……」

 河合はそれを聞いて悲しく思ったが、何となく想像できた結果だとも頭の片隅で思っていた。夷森の言っていた、葛原百合子とその実家との関係性を鑑みると、特に不自然なことではなかったからだ。

「次に司法解剖の結果だが、腹部が裂かれたのは絞殺の後だそうだ。被疑者の言ってたことは正しかったな」

「そうだったのか……しかし、その物凄い怨恨というか怨念は、いったいどこから……」

「それと、お前が手に入れたM大の地下グループのリストだが……生存している男子学生もその他の女学生も、当日の夜のアリバイが確認されたよ。全員だ。犯人が地下グループの一員だった……つまり、グループ内で何かのトラブルがあったのではないかという線は、なさそうだな。お前の後輩の夷森さんの言ってた通りだ」

「そうか……」

 ひょっとしたら被疑者の男の正体に繋がる手がかりになるかと思っていた夷森のリストだが、空振りに終わったのを知って河合は肩を落とす。

「せっかく手に入れてきてくれたのに、何だか済まねえな。俺も昨日は先輩達と一緒に葛原百合子の下宿先を当たったが、特に収穫はなしだ。M大じゃそこそこの成績の学生だったらしいが、日記を毎日つける程まめじゃあなかったようだな。他に事件の手掛かりに繋がるようなものも全くなしだ」

「そうか……しかし……それにしても、特高警察が彼女らの地下グループの存在を見落としてくれていて、本当に良かった。そうでなければ、葛原さんはおろか、夷森さんだって今頃は……」

「そんなはずがあるか。調べてみたんだが、特高は例の地下グループの存在を知っていたぞ」

「何だって!?」

 河合は思わず大声を上げ、周囲の刑事や警官らの視線をしばらく集めてしまった。

「間違いない話さ。捜査班の別の連中が、特高が残した内部資料に当たってみたんだが、その中に戦時中のM大での地下活動の実態報告書があった。特高はM大で葛原達が地下グループを作っていたことを、間違いなく把握していた」

「……」

 驚きに言葉を失う河合に、さもありなんといった風に仲山が続ける。

「まあ、考えてみりゃ当然だ。そもそもお前や夷森さんや葛原百合子の担当教授だったというN教授は、明らかに自由主義的な立ち位置にいた学者だったんだろう?海千山千の思想警察のプロ連中が、そんな教授の影響下にあった学生連中の反体制的グループの存在を見落とすと思うか?」

「じゃあ、葛原さんは特高警察の監視下にあったのか?」

「いや、それがノーマークだったみたいなんだ。これも夷森さんが言っていた通りだ」

「ノーマークだと?活動を把握されていたのにか?」

「特高は葛原百合子が地下グループの一員であり、しかもどうやら中心的人物であったらしいことは把握していたようだが、あくまで記録に留めていただけらしい。実際に葛原や他のメンバーを署へ引っ張ったり尋問したりなどの何かしらの手出しはしていない。そうでなきゃ、お前の言う通り、あの悪名高い特高相手に、いち女学生の葛原百合子が終戦まで五体満足で過ごせたわけがないだろう。むろん、夷森さんもな」

「信じられない。あの特高の連中が、学生相手とは言え思想犯グループを見逃すなんて……。何か特別なコネでもなければ、あり得ないことじゃないか?」

 戦前から強引な取り調べと苛烈な拷問で恐れられ、政府に批判的なプロレタリア文学作家だった小林多喜二などの著名人の命すら奪っていた特高警察。それが、葛原百合子の地下グループには目こぼしをしていた?河合には疑問だったが、仲山が説明を続ける。

「そこなんだよ。一見不可解なことなんだが、事このM大のケースに関しては、実はあり得ない話じゃないと分かったんだ」

「どういうことだ……?」

「今朝、被害者の故郷の鹿児島県I郡を管轄するI署から、上京してM大に入学する前の葛原百合子とその周辺についての情報照会の結果が届いてな。その中に、興味深い記載があった」

 仲山は大判の封筒から、薄い書類綴りを取り出し、河合に示して見せた。

「ところでお前は、〝鹿児島二区選挙無効事件〟を知っているか?」

「もちろんだ。君は僕の職業を忘れたのかい……あれは戦時下の我が国において、司法権力が唯一下した〝正義の鉄槌〟だったからな。そうか、そういえば判決からもう一年になるな」

 それは太平洋戦争さなかの昭和十七年の衆議院議員選挙での出来事だった。鹿児島二区において、選挙期間中に、政府や軍による明らかな選挙干渉・妨害があり、選挙結果が翼賛系すなわち体制側の候補者をのみ一方的に利することなり、選挙の公平性が大いに歪められたとして、非大政翼賛会派だった落選候補者が選挙後に選挙無効を求めて提訴した。大審院は、翌年の三月一日、衆院選挙法第八十二条違反であるとして選挙の無効を認め、選挙はやり直しとなったのだ。そして葛原百合子の出身のI郡は、まさにその鹿児島二区内にあった。

「提訴から三年も経っていたが、それでも戦争が終わる前に、戦時国策体制批判とも受け取られかねないあの判決が出たのは、まさに壮挙だったな」

 感慨深げに口にする河合に、仲山も頷く。

「葛原百合子が特高からそれほど厳しい監視を受けていなかったのは、恐らくそれが影響しているんだろう」

「と言うと……?」

「判決の中で、翼協(翼賛政治体制協議会)の影響のもと、鹿児島二区の地元各地の学校や行政機関、そして地域に影響力を持つ名家や旧家が、選挙運動に対して露骨に関与していたことが明らかになっている」

「ああ。僕もその判決はしっかり読み込んだよ。大審院の民事第三部は、確かにその事実を認定していた」

「I署の資料によれば、葛原百合子の生家は、まさにそのうちの一つ、薩摩旧家臣団の家系に連なる名家だったんだとさ。葛原家は、地元の議会やらの利権団体には、かなり強い繋がりを今なお持っている」

 それを聞いて河合の頭の中で点と点とが結びつくのに、それほど時間はかからなかった。それを追うように、仲山は続ける。

「鹿児島にいた頃の葛原百合子だが、〝積極性旺盛なるも感情過多な一面あり〟と高等女学校時代の内申書に記載されているが、反戦思想への傾倒は確認できなかったと、I署の資料にも特高の資料にも記されている。ここから察するに、葛原達が地下グループの件で特高から手入れを受けなかったのは、名の知れた名家たる葛原家の家風に、東京に出て自由の味を覚えた娘が少しばかり反発してちょっと冒険したっていう感覚だったんじゃないかと思う。夷森さんが言っていたように、葛原百合子が実家とそりが合わなかったというのは事実なんだろう。高等女学校時代には、学校や両親と意見を衝突させたり、家出事件を起こしたりと、中々奔放な女学生だったとも記録にあるしな」

「そうか……地元では有名な体制側の名家で、翼賛選挙にも協力的だったから、その子女である葛原さんの東京での行動は、特高も慎重に静観していた……ということか」

「それに、昨年の判決後に鹿児島二区で施行されたやり直し選挙では、翼賛会派の議員は軒並み得票数を減らしたようだしな」

「つまり、官憲としても、鹿児島二区の体制側の有力者の娘……とその周囲のグループのメンバーには下手に手出しするわけにもいかなかった、という訳か!」

「特高の連中が蜘蛛の子よろしく四散しちまった今となっては裏の取りようもないが、状況的にそう考えて間違いはないだろうさ。ま、そもそもが地下グループと言っても学生主体の人畜無害な集まりだから、どこまで特高が本気で監視していたかは疑問だがな。下手に葛原達をつついて、鹿児島の訴訟にまで飛び火するのを恐れたってのが妥当なところじゃないかな」

 仲山はそう結論付けたが、河合は内心、言いようのない感慨にとらわれていた……葛原百合子は、ただの女学生ではなかった。戦時中という狂気の国家統制下において、仮に火遊び感覚だったとしても、下手をすれば命を失いかねないような危険な行動を取っていたのだ。そう考えれば、葛原百合子はやはり勇気ある女性だったのではないか。河合は改めて、この事件の被害者に哀悼の意を感じた。M大は、いや日本は、惜しむべき若い女性を、将来有望な法律家の卵を永遠に失ってしまったのだ……少なくとも河合はそう評価した。

 だが、なお疑問は残っている。仲山がそれを口にした。

「しかし、被害者像はだんだん見えてきたが、被疑者との接点がまだ分からねぇな。被疑者の男……あいつはいったい何者だ?」

「実はね……僕はこの間はじめて彼を見たとき、ひょっとしたらどこかで会ったような気がすると思ったんだ」

「何だと!?それで、お前は一体いつどこであいつを……」

「いや、それが思い出せないというか、分からないんだよ。でも、どうしても初めて会った気がしなくてね……」

「ふぅん……まあ、思い出したことがあったら言ってくれ。俺は、あの男の言葉遣いから見て、何となく復員兵臭さが感じ取れるんだよな」

「いや、ただの復員兵くずれじゃないだろう。僕は、あの男からはインテリの匂いがするような気がするんだ。地頭はかなり良いんじゃないかと思う。君も聞いていただろう?絞殺が先だったのか、それとも腹部を裂いたのが先だったのかという話の中で、彼はそれを『言葉遊び』だと一蹴したじゃないか」

 仲山はしばらく記憶を探ったが、やがてはっとして手を打った。

「そうだ……そう言えばそうだったな。あいつは法律を少しばかりかじってるのかもな」

「僕がM大に行くと言ったときに、君が被疑者の写真を貸してくれていたら、彼がM大の関係者かどうかだけでも分かったかも知れないのにな」

「それは流石に無理だ。お前は警察官じゃねぇんだぞ。被疑者の写真まで持たせられるかってんだ。お前は、被疑者がM大の関係者だと思ってるのか?」

「可能性はなくもないだろうが、低いと思う。学徒兵が、終戦後もなお〝自分は〟みたいな軍人言葉を使い続けるとは思えない。やっぱり旧軍関係者だと思うが、地下グループのメンバーにしろ他の法科学生にしろ、ほとんどが学徒出陣で戦死している状況だし……」

「いずれにしろ結局、こいつは役に立たなかったな」

 仲山は、夷森が用意してくれた地下グループのメンバーのリストを、人差し指でぴんと弾いた。リストは机の上を滑り、河合の目の前で止まる。すでにこの世にいない青年たちの名が記されたリストをぞんざいに扱った仲山に眉をひそめながら、河合はリストに目を落とし、〝戦死〟と添えられたM大生の一人一人の名前を改めてなぞってみた。ふと、一人の学生の名に目が留まる。その名前をしばらく凝視し、河合は不意に憑かれたように両手でリストを持ち直した。

「……そうか。そうだったのか……!」

 怪訝そうな様子の仲山をよそに、河合は一つの確信に辿り着いた。



 ***



「やあ。吉川惣一(よしかわそういち)、元憲兵上等兵殿」

 河合が被疑者との二回目の接見の冒頭でそう言ったとき、男はまるで魂の底を見透かされたかのように目を見開いた。彼は拳を小刻みに震えながら、やがて力なく俯いた。

「やっぱり、そうだったか」

 納得するように頷きあう河合と仲山に、男がすがるように問う。

「どうして……分かったんですか?」

 河合は男に向き直った。

「吉川惣一くん、君は大正十年に東京近郊のT村で生まれているな。地元の中学校を卒業後、陸軍に召集され、管轄区の歩兵連隊で初年兵となった。軍隊生活を始めて数年後、憲兵学校の試験を受けて合格。歩兵連隊から中野の憲兵学校に籍を移し、修了してからは憲兵として晴れて東京憲兵隊に勤務するようになった。間違いはないな?」

「……よく調べ上げましたね」

「君にはインテリ臭さがあったが、法律実務と縁の深い憲兵だったとはね……どうりで前回、死体損壊の件の話の飲み込みがいいと思ったんだ」

「……」

「君の家族だが、両親は既に死去しているな。あとは一歳下の弟の浩二さんがいたようだが、残念なことに去年……神風特攻で戦死されているな」

 俯いた吉川惣一の肩がはっきりと見て取れるほどに震えた。河合は見ていないふりをした。まだ若いみそらの弟が死んで英霊となってしまったのであれば、殺人犯とは言えどもさすがに辛かろうと思ったのだ。河合にとっては意外な事実ではあったが、しかしそれでも弟は弟、兄は兄であり、その兄である吉川惣一が殺人を犯したのは疑いのない事実なのだ。

「いくつか聞かせてもらいたいことがある。まず、君は戦争中に憲兵として、職務領域が重なることもある警視庁の特高警察と情報提供等の連携を取ったことはあるか?」

「ありません。世間は特高も憲兵も一緒くたにしていますが、そもそも彼らは内務省の人間です。我々のような軍人ですらなかった。情報提供どころか、我々陸軍の軍警察官たる陸軍憲兵は、彼らが普段どこで何をしているのかも知りませんでした。それは特高の連中にしても同じでしょう」

「じゃあ、たとえば地方人(民間人の意)の思想犯に対する捜査を合同で行ったりするようなことはなかったんだな?」

 河合はそう言って、吉川惣一の表情を注視した。思想犯、という単語に、吉川惣一のまばたきが不自然に止まったのを河合は見て取った。

「……それは完全に特高の連中の仕事です」

「君は憲兵時代に職務上の理由で葛原百合子さんを知った。違うか?」

「断じて違う。調べてもらえばわかると思いますが、自分は東京憲兵隊司令部の庶務勤めをしていました。思想犯だの何だのには、そもそも関知しえない部署にいたんです」

「おや、不思議だな」

「何がですか」

「僕は、葛原百合子さんが思想犯だったと一言でも口にしていたか?」

「……今の先生の話の流れでは、そう受け取ってもおかしくないと思いましたが」

 少しどもりながらも呟く吉川惣一。見え見えの誘導にはそうそう引っかからなかったか、と河合は思った。

「単刀直入に聞こう。葛原百合子さんが、M大の地下グループに所属していたことは知っているか?」

 しばらく黙っていたが、男はややあって答えた。

「知りません」

「知らないはずはないだろう。何せ葛原さんは、同じM大の同級生だった君の弟さんと間違いなく面識があったと推定されているんだからな」

「!!」

 吉川惣一は苦し気に顔をしかめた。それを認めつつ、河合は続ける。

「葛原さんが地下グループに属していたこと、そして君が憲兵だったこと。この二点において君たち二人に接点がないことは分かった。そりゃそうだろうな。世間は陸軍憲兵も特高警察も同じもののように見ているが、そもそも国内における民間人思想犯の取り締まりは、厳密に言えば、内務省の指揮下にある特高警察の領分だ。君が言うとおり、陸軍省管轄の憲兵が出てくる幕は、基本的にない」

「……」

「つまり、君らの接点は、葛原さんが立ち上げていたM大の地下グループに君の弟さんがいたという事実、その一点しかないんだよ」

 吉川惣一がなおも動揺を押し隠そうとしているのが、河合にも、傍の仲村にも見て取れた。

「僕はとあるM大生の証言から、君の弟さんがM大の地下グループに所属していたことを知っているんだよ。先日君に初めて会った時、僕はなぜか、君とはどこかで会ったことがあるような気がしてならなかったんだ。実際にはそんなことはなかったんだが……」

「……?」

「前回も言ったが、何を隠そう、僕もM大法科の卒業生だからね。だから僕は知っていたんだよ……吉川浩二(よしかわこうじ)君という、好青年の後輩がいたことを。特段に親しくしていたわけじゃないが、とても礼儀正しくて、向学心に燃えた真面目で気持ちの良い学生だったよ。いつもレポートや論文の執筆に精を出していたのもよく覚えている。そして美青年だったよ、君に似てね」

「弟を……ご存じだったんですか……?」

 震える声で、吉川惣一が問う。

「ああ。だが時期的に、僕は葛原さんが結成していたという地下グループのことは何も知らない。それに君の弟さんが参加していたらしいということも」

 再び、地下グループと聞いて、吉川惣一が身を固くする。

「君が葛原さんを殺害したのは……つまり、地下グループ内で、弟さんの……浩二君のことで何かがあったからということだろう……?」

 吉川惣一は黙って目を閉じ、しばし天井を仰ぎ見て、口を開いた。

「俺たち兄弟は、ほとんど双子みたいなものでした」

 河合も仲山も、押し黙って吉川惣一の顔を見つめた。

「……他に兄弟はいませんでしたからね。ただ、出来の悪い俺とは違い、弟は頭も良くてとても優しい奴でした」

 ぽつりと話し出した吉川惣一の声に、河合は手元の資料を見た。吉川浩二という元M大法科の男子学生が学生服姿で写っている顔写真がある。その利発そうな青年の略歴が、ノートに貼りつけられた写真の左側に書き並べてあるのを、横あいから仲山も覗き込んだ。誠実そうな美男子の風貌は、確かに兄弟に共通していたのが見て取れた。

「俺達の親父は村役場の官吏でしたが、そこまで暮らし向きがよろしくはありませんでした。躾は厳しかったですがね。親父は俺たちになるべく学はつけさせようとしてくれました。経済事情を鑑みて、親父は出来のいい弟だけを何とか上級学校にやることにしたんです。俺だって地元の中学までは出してもらい、その後は兵役に就きました」

「……」

「一度は召集された俺が憲兵を目指したのは、単に歩兵になるのが嫌だったのもありますが、それよりも、少しでもあいつに近いところで仕事をしたかったというのが理由です」

 思いがけず殺人事件の被疑者の男の人間臭いところに触れ、河合と仲山は不意に心が揺らいだのを自覚した。

「弟はM大に予科を経て入り、法科で熱心に勉強していました。たまにあいつは俺の下宿に来て、法律実務やら何やらについて、俺に教えを乞うてきたんです。……そりゃあ、嬉しかったですよ。出来の悪い俺が、ようやくあいつに兄貴らしいことをしてやれたって思えたわけですから」

 河合は、今目の前で独白しているのが猟奇的殺人事件の被疑者ではなく、どこにでもいそうな優しい青年のように錯覚してしまいそうになった。その青年が、不意に言葉を鋭くした。

「……あの女は、俺の弟を殺した」

 河合も仲山も呆気にとられた。ややあって、河合が疑問を呈した。

「殺した?何を言うんだ、浩二君は海軍飛行予備学生からゼロ戦のパイロットになり、神風特攻に志願して戦死したんだろう」

「あいつは、自分から進んで特攻に志願するような奴じゃない!殺されたんだ」

「……君の言いたいことはこうじゃないのか?神風特攻は、志願を建前にしていたが、現実には上官が志願を強要していたと聞いている。浩二君は、国家に殺されたようなものだ……そう言うことだろう?」

「国家……?何を分かったようなことを……」

 呆れもここまでくれば凄みと言えるほどの苦々しそうな表情で、吉川惣一は問うた。

「違う。弟を殺したのは、そんな大層なものじゃない。さっきから言ってるでしょう、浩二を殺したのは、あの女郎蜘蛛だ」

「女郎蜘蛛……だと?」

「ああ。あいつは、葛原百合子って女は女郎蜘蛛だ。まさにそんな女だった。弟という若葉を蝕み尽くした害虫だったんだ。とても生かしてはおけなかったんですよ、先生」

「ちょっと待ってくれ、僕には全く理解できない。どんな事情があったのかは知らないが、弟さんのためとはいえ、かよわい女性をあんな風に殺してしまう程の理由はあったのか?」

「かよわい女性!?」

 吉川惣一は高らかに哄笑した。同じ部屋にいた河合と仲山刑事、そして口述速記役の警官一人が気圧されるほどの強い笑いだった。ひとしきり嗤って、吉川惣一は最後に寂しそうに漏らした。

「……しょせん先生には、自分の……いや、弟の無念は分かってもらえませんか」



 ***



 翌日。

 仲山は、K署内の自分の机で、これまでの〝S川女性惨殺事件〟を文書にまとめ直していた。順調に進みだしたこの事件の捜査を、いったんこの辺りで整理してみようと思ったからだ。

 あまり威張れることではないが、仲山が呼び込んだ河合弁護士のお陰で、被疑者の身元が割れた。これでK署としても、吉川惣一を堂々と送検できる。あとは、彼がどうしてあのような事件をしでかしたのか、事件の動機をはっきりとさせなくてはならない。

 ただ、それも時間の問題だろうと仲山は思っていた。その調査の為に、河合は今日も本業の合間を縫って出かける所があると言っていた。結局のところ、この事件捜査の大部分を、俺達捜査班は河合の正義感に頼りっぱなしではないか……と仲山はひとり苦笑した。

 ……女郎蜘蛛、か。地元の有名な官立高等女学校を優秀な成績で卒業して、M大の法科にまで進んだ葛原百合子が、どうして女郎蜘蛛なんだろう。葛原百合子と吉川浩二の間に、何らかのトラブルがあったのだろうか。しかし、それにしても、葛原百合子が吉川浩二を〝殺した〟とは……?

 ふと考え込んだ仲山を、同僚の刑事が呼んだ。

「おい、何をボーっとしてるんだ。刑事部長が君を会議室に呼んでいるぞ」

「刑事部長が?おかしいな、定例報告なら朝に済ませたけどな」

「……その話じゃなさそうだぞ。刑事部長な、さっきまで署長と一緒に対応してた来客が帰ってからというもの、物凄く不機嫌そうだぜ。おい、何かまずいことでもやらかしてしまったんじゃないのか?」

 声をひそめながら言う同僚の言葉を、仲山は信じられない思いで聞いた。確かに、外部の弁護士に捜査を手伝ってもらっているのは、刑事として褒められた話ではない。しかし、その件については、既に刑事部長や署長の許可も取っているのだが……。

「なあ、署長と刑事部長への来客って誰だったんだ?」

「……アメ公さんだよ。それもGHQのお偉いさんだ。ほら、窓の外を見てみろよ。でっかいリンカーンが帰っていくぜ」

 仲山は驚愕した。見ると、確かに進駐軍旗を翻したアメリカ製の黒い高級乗用車が、今まさにK署の正門から出ていこうとしているところだった……GHQの高官が、どうしてK署などにまでやって来た?そして、署長と刑事部長に何を話していったのか?

 ……何か、仲山の想像もつかないような、もっと何か大きな力が、仲山や河合にとって……いや、捜査そのものにとって、不穏な方向に動いているのではないか。仲山は、とてつもない不安に襲われた。



 ***



 河合は、真っすぐK署へ向かって雑踏を足早に歩いていた。この日、河合は吉川兄弟の生まれ故郷であるT村まで出かけていたのだ。吉川の遠戚の人々からは残念ながら話を聞くことは出来なかったが、あきらめて村はずれにある墓地に吉川浩二の骨無き墓に線香を手向けようとしたとき、思わぬ手掛かりを、寺の住職が河合に手渡してきたからだ。今すぐに仲山と一緒に精査する必要がある……と彼は早足で歩を進めて、目指すK署の建物が見えるバラック街にさしかかった時だった。

 暴力的なエンジンの轟音が、不意に河合の背後に迫っていた。

 危険に気付いた河合は、慌てて身を翻した。間一髪で河合の横を高速で通り過ぎたのは、運転席と助手席にそれぞれ白人のアメリカ兵を乗せた、見まごうことなき進駐軍のジープだった。どんな悪路をも走破するという四輪駆動の軍用車は、あろうことかそのままバックして再び河合に迫って来る。

 驚く暇もなく、周囲の人々が悲鳴を上げる中、手近な狭い路地に逃げ込む河合。しかし、その薄汚れた泥の路地も、車一台を通す幅は持っていた。ジープはすぐに頭を路地に突っ込ませ、走って逃げる河合にぐんぐん追いすがる。

 生命の危機を間近に感じてあきらめかけた瞬間、河合は横合いから誰かの腕に引っ張られ、乱雑に立ち並ぶ闇市のバラック小屋とバラック小屋の間に吸い寄せられるようによろめいた。河合に救いの手を差し伸べたのは仲山刑事だった。仲山はバラックの陰から油断なくジープの様子をうかがう。

 少し距離を置いて停車していたジープがいつこちらへ戻って来るかと、仲山と河合は身構えたが、二人の米兵はあっけらかんとした笑い声をあげ、何ごともなかったかのように、そのままジープを走らせて行ってしまった。遠巻きに見ていた人々は、関わり合いになるのを恐れてか、誰も何も見なかったかのようにそそくさと散っていった。

「怪我はないか?」

 身を案じる仲山。河合は息を切らし、左手をじめじめした地面に突いてへたり込んでいる。しかしそのくせ、書類カバンだけは右手でしっかりと胸に抱いていた。

「ああ……大丈夫だ。まったく、酷い目にあった。助かったよ、ありがとう」

 礼を言う河合だが、仲山は硬い表情を崩さない。不審に思った河合の頭に、疑問が浮かんだ。

「ところで、君はなぜ今ここにいたんだ?」

「……別に大したことじゃねぇ。たまたま煙草を買いに出てただけさ」

 見ると、仲山の安背広の胸ポケットに、アメリカのキャメルという銘柄の煙草の箱が覗いている。煙草は止めたはずじゃなかったのか。それなのに、今になって米軍放出品の闇煙草なんかをどうして……と訝しむ河合に、仲山はぼそりと口を開いた。

「なぁ……俺が前に言った通りだろう。今の日本に、秩序も糞もない」

「……」

 いつかの議論を持ち出してきた仲山の顔が、これまで見たことがないほどに真剣に曇っているのを見て、河合は何も言えなくなった。

「あんな連中が作る新憲法なんぞ、期待するだけ無駄じゃないのか。……あいつらは国内で大手を振って日本人に乱暴しているんだ。日本の司法力なんか、屁とも思っていない。……その身で分かっただろう」

「……一体どうしたんだ。君は何が言いたいんだ?」

「すまん、もうこの事件からは身を引いてくれ」

 辛そうに言った仲山に、河合は知らずに大きな声を上げた。

「どういうことだ。もう少しで事件の全容が見えてきそうなんだぞ。やっと事件の真実が……」

 河合の話をろくに聞こうともせず、仲山はキャメルの一本を咥えてマッチで火を点け、久方ぶりの煙草を苦い表情で深く吸い込み、紫煙を細く長く吐き出した。湿気てやがる、不味い……と呟きつつ。

「……真実なんて、今の日本じゃ糞の役にも立たねぇよ」

 力なく言う仲山に、河合は思わず憤りを感じた。

「何てことを言うんだ……!どうしてそんなことを……」

「俺はお前を守るために言ってるんだ!」

 唐突に語気強く言った仲山に、河合は呆気にとられて何も言えなかった。

「さっきのあれは、進駐軍からの……GHQからのお前に対する警告なんだよ。これ以上、事件に首を突っ込むなって言う……」

「GHQが……?どうして」

「どうしてだっていい。さあ、もう終わりにしよう。とても探偵の真似事なんかとは言えないくらい、お前は良くやってくれた。感謝してるよ。あとは俺達警察に任せてくれ」

 仲山は口調を和らげて言ったが、河合は頭を横に振った。

「納得できない!僕は、GHQを敵に回すようなことなんて何もしていない!猟奇的殺人事件の捜査に携わることで、法の正義の実現を目指しているだけなんだぞ!それがどうして、GHQに命を狙われることになるんだ!」

 河合の言葉は、しかし仲山には駄々をこねているようにしか聞こえなかった。

「まだ分からねえのか!?だったら教えてやる!GHQは、自分たちの統治下で猟奇的な事件が起きていることをなるたけ対内的にも対外的にも伏せておきてぇんだよ!そうでなくても、今の国内の治安状況は最悪だ。そこを突いて、旧軍の連中がまた勢力を回復させたり、最悪、アメリカ単独の統治能力のタカを知った他の連合国……ソ連や支那共産党なんかの共産勢力がこの国の占領統治に介入してきた時のことを考えてみろってんだ……GHQにとっても、俺たちの日本にとっても、もう目も当てられない事態になるぞ!」

「……どうして、君が今になってそんなことを言うんだ?」

「……」

 不気味に押し黙る仲山に、河合もやがて考えたくもない予想に思い当たった。

「ひょっとして、君達警察にも、GHQから圧力があったって言うんじゃないだろうな……?」

 河合の問いかけに、仲山は肯定も否定もせずに続ける。

「お前は法曹関係者だから、恐らくあいつらも命までは取らなかったんだろう。だがそうでないただの日本人だったら、お前も容赦なく殺されていただろうな。何しろ、お前が捜査に介入してからと言うものの、捜査そのものはかなり進展して、それを追うようにして新聞各紙も捜査状況をネタにして、ますます事件を盛り上げている。こんな類の事件を隠蔽したい側のGHQとしちゃあ、黙っていられない状況ってこったろうさ」

「……」

 淡々と言った仲山の言葉に、河合は背筋を寒くした。

「さっきも言ったが……河合、お前には本当に感謝している。事件捜査がここまで進展したのも、お前なしにはあり得ないことだったと思う。ただ、これ以上は本当に危険だ。この事件の報道も過熱しすぎている。今回、GHQはその点を一番憂慮していたんだ。今後、警察はこの事件の捜査情報はなるべく非公開に切り替えていくことになった。だからお前にも手を引いてほしい。そして、世間のこの事件に対する注目が自然消滅していくのを待つんだ。……頼む、これは友達としてのお願いだ」

 目を伏せて河合に頭を下げる仲山。これまでになかったことに、河合はしばらく黙っていたが、ややあって彼は胸に抱いていた書類カバンに目を落として言った。

「……今日、僕は吉川浩二の手記を手に入れることが出来たんだ」

「被疑者の弟の……手記をだと?」

 思わず顔を上げる仲山。

「そうだ。僕は、この手記にこそ、吉川惣一が事件を起こした動機が書かれているんじゃないかと思うんだ」

「待てよ……!だから言っただろう、もうお前はこの事件に関与すべきじゃない」

「吉川惣一が言っていた無念の正体を、僕は知りたいんだ。猟奇的殺人事件の被疑者が、果たして人を一人殺すだけに足る理由を持っていたのか否かを。世間を騒がす必要はない。ただし、捜査に関与した僕らだけでも、彼と彼の弟の無念を共有してやるべきじゃないだろうか。……野次馬根性だと言われてもいい。ただ、それは恐らく、吉川惣一も望んでいることじゃないかと思うんだよ」

「……」

 仲山は何かを言おうとして、しかし果たせずにまた俯いた。

「頼む。あと一度でいい。一度っきりでいいから、吉川惣一と接見させてくれ」



 ***



「この手記に見覚えがあるだろう?」

「あ……」

 吉川惣一が小さく声を上げる。手垢と日光とで色あせ、表紙もボロボロになった数冊の手記が細引きで括られているのを、河合は書類カバンから取り出し、机の上に置いた。

「これは、浩二君の墓参りに言ったとき、寺の住職から渡されたものだ」

「えっ……浩二の墓参りに、先生が行ってくださったんですか……?」

「ああ。もちろん捜査のためでもあるが、何より……同窓の後輩の墓参りには、僕自身どうしても行きたかったからね」

「ありがとうございます……本当に、ありがとうございます」

 吉川惣一は、机に手をついて河合に頭を下げた。それが河合と仲山には、あまりにもいじらしく見えた。この接見は仲山の独断で行われているため、口述筆記の警官は同席していない。

「君は、この手記を住職に託しているね。住職の記憶によれば、それは君があの事件を起こした翌日のことだ。そして君は、生まれ故郷の村を後にし、戻っては来なかった……」

「……」

「住職は、君がこの事件で逮捕されていることを後になって新聞で知ったんだ。村内に住む君の親戚の方に渡そうにも、関わり合いを恐れてか、寺で焚き上げでもして処分してくれと受け取らなかったという。……住職が手記を処分するにもできずにいるうちに、僕がT村に現れて、君の家の……浩二君の墓参りに来たって訳だ」

「……先生は、それを読まれましたか?」

「いいや。僕だけの立場で読んでもいいものだとは思えないからね。こちらの仲山刑事にはいずれ読んでもらうことになるだろうが……」

「……」

「残念だが、僕が君と会えるのはもうこれが最後だ。事情があって、僕はもう君とは接見が出来ない。今日はそのお別れを言いに来たんだ」

「そうですか……」

「正直なところを言おう。僕は、君がどうしてあんな猟奇的な殺人事件を犯したというのか、まったく理解できなかった。先入観を排して見れば、君は弟想いで優しいただの青年だとしか思えなかったからだ」

「……」

「僕は精神医学の専門家ではないが、君はいわゆる異常者ではないと思う。しかし、君が実行したと疑いを掛けられているのは、明らかに異常者がしたとしか思えない事件だ。この二点のどうしようもない重大な乖離について、僕は何とかしてその真実を追いかけたいと思った」

「……」

「だが、僕はもう君に何も言う資格はない。あとはただ、もし君が……」

「先生、自分は先生になら、全てを知ってもらいたい。……全て、お話します」

「ありがとう……仲山刑事が一緒でもいいか?」

「もちろんです」

 吉川惣一の同意を得て、河合と仲山は、吉岡浩二の手記をその場で一緒に椅子を並べて頭をくっつき合うようにしながら読んだ。手記は、明らかに他人から読まれることを考慮していなかったが、理知の光に溢れる大学生が記した文章は、河合と仲山の心を瑞々しく打った。

 数冊あった手記のうち、吉川惣一が指定した手記は、ちょうど昭和十八年の元旦から始まっていた。時期的に、前年の春にM大の法科女子部に入学していた葛原百合子が、いわゆる地下グループを立ち上げた頃のことで、吉川浩二からすれば社交的で明るい新入生が、大学の統制に属さない学生だけの自主的勉強会グループに自分を誘ってきたことが記されていた。

 地下グループの活動内容としては、夷森啓子が語ったそれとほぼ同じものが手記の続きに記されていた。

 国内外の、いわゆる左翼系の内容の小説や哲学書の輪読会に始まり、当時の太平洋戦争の戦局についての学生の視点からの分析、更には日本の将来をどう考えるか、どうすれば現状の暗い状況を打破し、再び平和が訪れるかという討論会が、大学の法学部棟の二階の片隅にある、うず高い本の山に埋もれた書庫代わりの小さな一室で、ある時は昼に、またある時は陽が沈んでから、葛原百合子が彼女なりに選び誘ったメンバーらによって催されていた。

 自由主義的とされていた書籍は全てご法度とされ、国策に沿う授業と軍事教練だけが実施されていた当時のM大の中にあって、吉川浩二もまた、学問の自由のない大学環境に窒息しかけていた。そこへ、葛原の主催する地下グループへの誘いだった。

 果たして、その空間は、若き学問の血をたぎらせる青年らにとっては、学内で唯一深呼吸の出来る空間であった。

「弟は、その地下グループのことを『心のオアシスだ』と書いています」

 頭を突き合わせながら吉川浩二の手記を読み進めている河合と仲山に、吉川惣一は言い添えた。

 男子学生らは、特に討論に命を燃やしていた。学徒たる者として、この国をどのように導いていけばいいのか。この国があるべき姿は、果たしてこのままでいいのか。現状の帝国主義体制が、果たして人々を幸福にするのだろうか。七~八名の男子学生が、議論を戦わせた。参加していたのは、必ずしも現在の日本の体制に反発していた学生ばかりではない。太平洋戦争を〝聖戦〟と呼び、大東亜共栄圏の確立のためには、我々学徒も、いったん危急あらばペンを剣に換えて戦場へ赴かねばならないと主張する男子学生も数名はいた。吉川浩二はそうした意見に肯じることはなく、ある時は冷静に、またある時は感情を昂らせながら議論を戦わせた。そして場が白熱するたびに、紅二点の葛原百合子と夷森啓子がお茶などを出しながら空気を和やかにさせる、そんな時間だった。グループに参加していた男子学生たちも、思想の違いはあっても、それを互いの人格への攻撃に供したり、あるいはそれを他に言いふらすようなことはなかった。誰もが、現在の大学内の硬直した空気そのものに反発していたし、それ故に、思想を超えた団結心があったのは事実だったようだ。

 やがて新たな年度が始まり、季節は初夏に移っていく。他愛もない日々の雑想の合間に、吉川浩二は地下グループのことを記し続けていた。彼の学生生活には、地下グループの存在は欠かせなくなっている様子が伺えた。地下グループを明るくしている存在の女子学生二人についても、彼は時おり書き記していた。葛原百合子も夷森啓子も、河合が抱いていたのと同じように、先進的で聡明な女性であるという印象を持っていたらしい。

 夷森啓子への好意的な記述が、葛原百合子へのそれよりも相対的に多いように感じることに、河合は途中から気がついた。

 が、葛原百合子への好印象が一気に逆転する出来事の記載が、昭和十八年の七月のある日付に唐突に出現した。

 河合と仲山が、思わず顔を見合わせ、そして吉川惣一を見た。

「昭和十八年、七月十五日のところをお読みになられましたね?」

 吉川惣一はそう言って、たった今河合と仲山にショックを与えた手記の文章を諳んじた。

「『或ル夜、我ハ百合子嬢ニ例ノ集マリヲスルカラト呼集ヲ受ク。果シテ、部屋ニハ我ト百合子嬢ノ他ニ人影ナシ。百合子嬢ハ電灯ヲ点ケル様子モナシ。何ガ何ダカ分ラヌママ、月明リノ眩シキ明カリ取リノ窓際ノ藤ノソファーニ座ラサレル。百合子嬢ハ我ガ傍ラニ座シ、一緒ニ「シェイクスピアー」ノ詩集ヲ読マント我ニ寄ル。然シ、少シモ頁ヲ進メヌウチニ、百合子嬢ハ不意ニ詩集ヲ投出シ、〝月ガ綺麗デスネ〟、ト呟キ、我ガ肩ニ凭レ、両ノ腕ヲ我ガ肩ニ廻シタリ。ソノ上、百合子嬢ハ我ガ唇マデ強引ニ奪ヒタリ。アマリノ驚キニ、一言モ発スベキ言葉ヲ知ラズ。タダ動転シテ部屋ヲ飛出シタリ。外ニ出テ、欠ケタル月ヲ振リ仰グ。今日ホド月ヲ恨メシト思ヒタル日ハナシ』」

 まるで自分で書き記したもののようにすらすらと言葉にする吉川惣一の声を、河合と仲山は黙って聞いていた。

「そして、その記述はこう締めくくられているでしょう。『大和撫子ノ貞操観念、遂ニココマデ堕落シタルカ。コレマデ同窓ノ友ト思ヒタリシ女性ダケニ、ヨリ失望ノ甚ダシキヲ禁ジ得ズ』」

 被害者女性の隠された裏の顔が、河合と仲山を凍りつかせた。何とも形容できない苦々しさが、二人の心にじわりと広がっていく。

「……つまり……葛原さんは君の弟さんに……浩二君に好意を抱いていた。いや、そればかりか……」

 河合が何か言いかけて、仲山が後を引き継いだ。

「……これが本当なら、葛原百合子はとんだ淫売女じゃねえか」

「弟は、純情な奴でした。別にそれを俺は罪だとは思わない。法律家を目指していたのであれば尚更だ」

「でも待ってくれ……浩二君のことを疑う訳じゃないが、この記載が間違いなく正しいものかどうかが……」 

 河合が遠慮がちに言ったが、吉川惣一が答える前に、仲山が口を開く。

「そりゃそうだが、見りゃ分かる通り……文語体で書かれているのを見りゃ一目瞭然だが、そもそもこの手記は他人に読まれることを前提に書かれちゃいないと思う。手記にわざわざ嘘を書く意味はない」

 吉川惣一も続ける。

「それに、弟はこの手記を俺にすら見せるつもりもありませんでしたしね。これは、終戦後に分かったことですが」

「……となると、やはりここに書かれた葛原百合子さんの行いは、ほぼ事実だと推定されるわけか……」

「そうです……。いずれにしろ、弟は葛原の願望を受け入れなかった。いや、受け入れられなかった。夏目漱石流の愛の告白もどきもそこそこに、いきなり肉体関係を迫って来る淫乱な女です。先生も刑事さんも、そんな女から言い寄られたらどうします?喜んで女の上に乗っかりますか?」

 河合も仲山も、口を結んで首を横に振る。それに頷き、吉川惣一は続ける。

「誓って言うが、そんな女は俺も迷わずに跳ね除けます。弟も、俺より若い肉体を持ちながら、それを拒んでみせた。男の勲章ですよ。あいつが死ぬ前に俺がそのことを知っていたら、俺はあいつを褒めてやりたかった……!」

「……そうだな」

 仲山の頭が、はっきりと頷いた。

「これを見ると、葛原百合子が地下グループを作った動機も怪しいもんだな。死人にゃ悪いが、単に男漁りが目的なだけだったのかも知れねえな」

「しかしいずれにしろ、その後も大学生活は続くはずだ。これじゃあ、お互い気まずかったんじゃないのか……」

 河合が疑問を呈する。

「ええ……その後も、弟は葛原から一度だけ言い寄られたことがあったと手記の続きに書いてあります。もちろん、弟はその時も相手にしなかった。そして弟は、葛原の地下グループにまったく誘われなくなってしまうんです。いや、地下グループそのものも消滅の時がやがてやって来るんです……昭和十八年秋の、あの学徒出陣ですよ」

「……」

「秋の終わりに、弟はペンを捨てた。手記にははっきりとは書かれていないが、弟があの学徒出陣にすんなりと応じて大学を逃げるように去り、海軍の航空隊に行ったのは……ほぼ間違いなく、葛原との一件で大学に居づらくなってしまったからでしょう。居づらくなって、弟は地下運動からも大学からも完全に身を引いたんです。さっき先生の言った通りですよ。だからあいつは学徒出陣で早々に海軍へ行くことにしたんです。そうでなければ、あいつが、愛していた大学から逃げるように去る訳がない」

 学徒出陣。河合も仲山も、当時、ニュース映画で昭和十八年の晩秋の東京における学徒出陣の壮行会の様子を見たことがある。雨の降りしきる神宮外苑。ほんの数日前まで大学生たちが競技を戦わせていたその競技場のトラックを、観客席を埋め尽くす女学生達の万歳を受けながら、学生服に学帽を被り、足にはゲートルを巻き、歩兵銃を右肩に担いだ文系学生たちが、大学ごとに隊列を作って行進してくる。学帽や学生服の全身をずぶ濡れにさせながらも、学生達は一言も恨み言を言わず、ただひたすらに進んでいく。行進の先には明確な死のみが待ち受けている、荘厳たる学徒達の現世との別れの営み。

「壮行会の日、俺は警備憲兵として神宮外苑にいたんです。M大の学生の隊列の中に、大切にしていた学生服をびしょ濡れにしながら銃を持って行進する弟の姿を見た時、俺はあいつがあまりにも不憫でしょうがなかった……」

「……だが、その後が分からない。浩二君は大学を離れて、海軍に行ったはずだ。常識的に考えれば、浩二君と葛原さんの関係は、物理的にもその時点で切れてしまうと思うんだが」

「先生は、女の恨みの底深さをご存じありませんね」

「……」

 吉川惣一の異様な言い方に、河合も仲山も押し黙る。

「もちろん俺だって、これを読むまではそんなことなんか知りませんでしたよ。……だが、まさかあいつが、それこそ女郎蜘蛛の執念深い糸に絡め取られていたなんて……」

 続きを読むように促され、河合と仲山は吉川浩二の手記を読み進めた。海軍飛行予備学生となり、軍人として海兵団で日々厳しい教育を受けていたことが、時おり書き記されている弱音や不安と共に記されていた。

 その苦しさにも耐え、M大の学生だった吉川浩二は、海軍将校となり、有名なゼロ戦のパイロットとなった。

 しかし、戦局も悪化に悪化した昭和二十年五月。すでに沖縄本島で激しい地上戦が繰り広げられ、沖縄周辺に展開するアメリカ軍の機動部隊には、陸海軍が共同で、飛行機による体当たりの特攻作戦を実施していた。

 海軍に入ってから、完全に男だけの世界の描写となっていた吉川浩二海軍少尉の手記に、唐突に〝女〟が再び現れたのは、その頃のことだった。

 五月の半ば。吉川浩二少尉の所属する海軍横須賀航空隊を、なんとあの葛原百合子が訪れていたのだ。面会に与えられた一室で、二人がやり取りした内容は、手記に以下のように記されていた。



 ***



 面会の客が来ていると基地の衛兵から聞き、横須賀航空基地内の面会室に向かった吉川浩二海軍少尉は、質素な洋装で彼を迎えた面会者を見て驚愕した。再会の挨拶もそこそこに、葛原百合子は吉川浩二に噛みつくように言った。

「随分お久しぶりですね。私、吉川先輩のこと、かなり探し回ったんですよ……。お別れも言わずに去って行ってしまうなんて、酷くはありませんこと?」

 見まごうことなきあの女が、なぜここにいるのか。自分をたぶらかそうと試み、それが叶わないと分かるや、逆恨み同然に自分を地下グループから排斥しようとした女が……。

「……叶うものなら、君とはもう二度と会いたくなかったな、僕は。今頃また、いったい何をしに来たんだ?」

 吉川浩二は、偽らざる本音を葛原に叩きつけた。怒ることが得意な方ではないが、葛原に対しては、努力しなくてもふつふつと怒りが沸き上がってくる。

「私は絶対に忘れませんわよ……吉川先輩、貴方は、私の気持ちをよくも踏みにじってくれたものですね」

 憎々し気に言う葛原に、吉川浩二は呆れを感じる余裕すらなかった。

「僕の気持ちはどうなるんだ。我儘と鬱憤をぶつけるために、わざわざ基地にまで押し掛けてくるなんて。もう帰ってくれ。君はもう、僕とは何のかかわりも……」

「いい加減にして!」

 葛原が机を両手で叩く。衛兵が置いていった麦茶入りの湯飲みが倒れ、床に落ちて割れた。吉川浩二は押し黙るしかなかった。

「よくも……よくも、私にあんな恥をかかせてくれましたわね。私がどれだけ、勇気を振り絞って吉川先輩を誘ったか……そんな私の気も知らないで……っ!」

 兎のように目を真っ赤にしながら、百合子は吉川浩二を睨みつける。

「それはこっちの台詞だ!僕だって、君があんなにふしだらな女だとは思わなかった。ろくに相手のことも知らず、交際だってしていなかったのに、男を誘惑して情交を迫るなんて……挙句の果てには逆恨みか。いったい君はどういう教育を受けて来たんだ。自分の欲情の為には何だってしようとするんだな、君は」

「どうしてそんなっ……そんなことを言えるんですか!私を侮辱するおつもりなの!?」

「本当のことだろう!君が淫靡な女性だというのは」

「何てことを……私は、純粋に貴方のことを……」

「残念だよ。僕は君を、まったくの対等に考えていた。崇高な社会的使命と改革意識を持った、素晴らしい女性だと思っていたよ。まさかそれが、どうしようもない色魔だとは想像もしていなかった」

「酷い……!酷すぎるわ……!」

 身を震わせ、唇を噛みしめる葛原。傷心に打ちひしがれたように見える彼女に、しかし吉川浩二は爪ほどの憐憫も感じられなかった。彼が目の前にしているのは、化粧の濃い、ただのヒトの雌にしか思えなかった。人の優しさを勘違いし、一方的な想いをぶつけ、それが叶わないと悟るや想いを憎しみに変じさせた、不愉快で腹立たしさ極まりない女。

 不穏な沈黙の時間が流れる。吉川浩二は早く部屋から出ていきたくてたまらなかった。葛原百合子とこれ以上顔を合わせたくなかったのもあるが、いつ空襲警報が出て出撃命令が下るかも分からなかったからだ。ことに最近は、白昼堂々敵の戦闘機が関東地方にも出没し、民間人にまで機銃掃射を加えるという事態も発生している。

 しかし葛原は、諦めるということを知らなかった。しばらく黙り込んでいた彼女は、不意に不敵な笑みを浮かべて吉川浩二に向きなおった。つい先刻までの様子が信じられないくらいの情緒の不安定さ……豹変だった。

「ねえ……あなたが、あのグループに参加していたことを軍に暴露してもいいかしら?」

「なんだって……?」

 吉川浩二は、百合子の唐突な攻撃に、頭の中が真っ白になってしまった。

「海軍士官の貴方が、かつて地下グループで反体制的な書物類に触れていたことを軍当局に知られてもよろしいのでしょうか、とお聞きしているんですけれど?」

「な、何を言うんだ。あれはそもそも、君が立ち上げたグループじゃないか……」

「けれど、貴方がそれに参加していたのは事実でしょう?」

「それを当局に話したら、グループのリーダー格だった君もただじゃ済まないぞ。それでもいいと言うのか?」

「あら、お優しいのね。今さら、私の心配までして下さるの?」

「茶化すんじゃない!真面目に答えてくれないか」

「さあ、どうでしょう。私がリーダー格?それはどうやって裏付けを取るのかしら?むしろ私や他の在学生の皆さんが口裏を合わせれば、そのリーダー格はあなたご自身にしてしまえるのよ。あなたお一人が何と主張しよう……とね」

「何だと……!?それを当局が信じると思うのか……?」

「あなたは大学から逃げ出したけど、あなたが残していった論文集は、まだちゃぁんと大学に保管されているのよ。N教授の自由主義思想の影響を色濃く受けた、当局から見れば反体制的にも取れるような法学論文が……!」

 葛原は、傍らに置いていたボストンバックを膝の上に置き、ファスナーを開いて吉川少尉に中身を見せた。吉川少尉がM大在学中に記した論文の綴りが、雑然と詰め込まれているのを見て、吉川少尉は愕然とした……内容的に、見る者が見れば、それが反体制的と判断されうるものであることは、誰よりも執筆者の彼自身がよく知っていた……この女は、最初から自分を陥れるつもりで、今日ここに赴いたというのか。

「今日ここに持ってきたのはほんの一部ですわ」

「……」

「それに貴方、確かお兄様が憲兵隊にいらっしゃるってお話をしていなかったかしら?」

「な……!」

 律儀で面倒見がよく、優しい兄の顔を思い浮かべた吉川浩二は、目の前の女が何を企んでいるかが分かってしまった。

「立場が悪くなるのは、あなたお一人で済むという問題ではないご様子ね。お兄様は憲兵隊から追放されて、悪くすれば最前線送りかしら?」

「いい加減にしろ!兄さんは……兄は関係ないだろう!ふざけるな!」

 取り乱す吉川浩二。そんな彼を、葛原百合子は冷ややかに、楽しげに見ている。

「私にそんな口の利き方をしてもよろしいと思って?」

「どうして……どうしてここまでするんだ。一体それで、誰が救われるって言うんだ!」

「あなたに踏みにじられた、私のか弱い心に決まっているでしょう」

「僕は……だとしたら僕は、君の情夫になるしか救われる道はなかったと言うのか!」

「……私はあなたをお慕いしていますわよ、今でも」

 急にしおらしさを見せる葛原百合子。吉川浩二は押し黙るしかなかった。

「ねぇ……もう一度だけお尋ねするわ。今でも私は、貴方のことをお慕いしています。M大で初めて会った時から、私は貴方の理知と優しさとに惹かれていましたわ。今でも遅くはありませんから、どうか、私の想いを……」 

「冗談じゃない……!誰が、君のような淫靡で汚らわしい悪魔のような女と……」

 この期に及んでなお自分に対する軽蔑の色を隠そうとしない吉川少尉を、葛原百合子はしばらく憎々し気に黙って見つめていたが、ややあって目をつむり、かぶりを振った。

「本当に……残念ね。もうお終いよ、貴方は」

「どうあっても君は、その論文を使って僕と兄を陥れる気か……?」

「でもお幸せね。あなたはともかく、お兄様が救われる道が、一つだけありますわ」

「何だと……?」

「……神風特攻隊でしたっけ?飛行機に爆弾を抱いて、敵の船に体当たりをするんでしょう?」

 吉川少尉は、葛原がなぜいきなり神風特攻の話を始めたのかが理解できないでぽかんとしていた。彼の部隊では、隊員からの熱烈な志願と、上官からの家庭環境調査に問題がない限り、特攻隊員となる必要はなかった。しかし、続く言葉は、冷酷な最終通告の響きを持っていた。

「ニュース映画で見ましたの。神風特攻……とても尊いお仕事だと思うわ。あなたも志願なさったら?」

 満面の笑みの中で細くなった葛原の目の奥の瞳に、徐々に顔色を失っていく吉川浩二の顔が写る。

「それも、なるべく早くなさい。さもなければ、この論文が当局の目に留まることになって……貴方もお兄様もお終いね」

 百合子が、自分になびこうとしない男を最終的にどのような運命に突き落そうとしているのかを知った吉川浩二は、呆然と言葉を失った。とるべき道を、葛原百合子は一つしか残そうとしなかった。何も言えずに絶望の底に沈みこんでいく吉川浩二を残し、百合子は目を伏せ、「さようなら」と憮然と、そして冷え冷えと言い、ボストンバックを引っ掴んで面会室を出ていった。



 ***



 葛原百合子の執念に、河合と仲山は慄然としながら顔を上げた。

「……その時の弟の心情を、先生は想像できますか?俺は……俺は、弟に何をしてやれた?いったい……いったいどんな救いになってやれたと……」

 吉川惣一は鼻をすすり、溢れた涙を右手の甲で拭う。仲山が見かねて自分のハンカチを貸してやった。

「これが、……浩二君が……君の弟さんが神風特攻に志願した、本当の理由だったのか……」

 河合は言葉を途切れさせながら言ったが、吉川惣一は嗚咽を押し殺すのに精一杯であった。

「酷ぇ……こりゃあ酷過ぎる」

 仲山刑事が、怒りを堪えきれずに呟いた。

「つまるところ、吉川浩二は葛原百合子に嵌められたんじゃねえか。自分のことはまるっきり棚に上げて、相手の脛の小さな傷を殊更に暴き立てて、吉川浩二の人生を終わらせようと画策した……」

 河合もそれに頷きつつ、口を開く。

「浩二君はお人よし過ぎるじゃないか。葛原さんの言うことを真に受ける必要なんて、最初からどこにもなかったって言うのに」

「弟は優しすぎたんですよ……!」

「ああ。弱さともとれるその優しさに付け込んで、葛原は吉川浩二を脅したんだな。もし本当に軍当局にタレ込んだとしても、自分だけは上手く言い逃れをするなり実家のコネで守られるなりで累は及ばないと踏んでたんだろうな……計算高い女だ……!」

「ええ……それこそ、自分の身など顧みないほど弟はお人よしの決断をしてしまいました……。それもこれも、俺を守るためにです。海軍将校になった学徒兵が、実は地下運動家だった、そんなことが真実味を帯びて明るみに出ちまったら、あいつ自身はもちろん特高警察に逮捕されちまうし、憲兵である実兄の俺もただじゃあ済まなくなる。憲兵の職を剝奪されて、特高の連中に半殺しにされるか、さもなきゃ南方の最前線送りにされて戦死させられる。事は自分だけでは済まされない……そう思ったからこそ、弟は自分で全部背負い込んじまったんです。そうして、俺のことを守ろうとしたんだ。自分の口さえ永遠に閉ざしてしまえば、兄貴である俺にまで累は及ばないだろうからって……あいつは俺を守ろうとしただけだったんだ……。ちくしょう、俺がこの時点でこのことを知っていたら……!」

 河合も仲山も、この一人の青年の死に対して、発すべき一言がなかった。出撃即ち死、二度とは還れない片道燃料の自爆攻撃という神風特攻を自ら選んだというには、あまりにも哀し過ぎる理由ではないか。彼の場合、そこには愛国心とかヒロイズムといった虚構は欠片もない。欠片もないがゆえに、それがあまりにも哀し過ぎる……。

「その直後、あいつは神風特攻に志願しました。俺との最後の面会でも、あいつは本当のことを言わなかった。五月の末に、俺は弟が特攻に志願したと聞いて、仰天しながら面会に行きました。『兄さん、お別れだ。僕は死ななくちゃいけない』。あいつはそう言った。けど、その理由までは答えてくれなかった。上官に特攻を強要されたのかと思って尋ねてもみましたよ。もしそうだとしたら、俺は自分の上官に頭を下げるか、さもなければ俺自身が陸軍憲兵の威光と権限を振りかざしてでも、海軍に弟の特攻命令を取り消させてやろうと思った。俺は本当にそこまで思ってたんです」

「……」

「けれども弟は首を横に振っていた。もう訳が分からなかったですよ。強要されてもいないのに、行きたくもない特攻に行かされるというのは一体どうした訳なのか……ってね。ただ、日本や兄さんを守りたいから僕は征くんだと言っていました。今それを想うと、健気で、不憫でならねぇ……!あいつは、敵から日本を守るなんて崇高な理由じゃなく、どうしようもない同胞のアバズレ女から兄貴を守るってだけの為に、自ら死を選んじまったんだから……!」

 無念で身体を震わせる吉川惣一に、河合も仲山も、かける言葉が見つからない。

「せめてその時にでも本当のことを明かしてくれていたら、俺なんかが憲兵を辞めて最前線送りになったところで、どうってことはなかったのに……!」

「……」

「訳の分からないまま面会時間が過ぎて、最後に見た弟の顔は、存外に晴れやかだったんです。結局その時は分からなかった。なぜあいつが最後にあんな顔が出来たのかって。戦争が終わって、あいつの手記を読んでやっと分かりました……あいつは、これで兄貴を、俺を守ることが出来ると思って、そこでやっと自分の死に納得し、安堵したんですよ。あいつは笑ってた。力の入らない笑顔だけど、あいつは笑っていたんです。あいつはあの時、俺を守れたことを満足したんだろうな」

「……」

 吉川惣一の顔は、とめどない悔恨に満ち満ちていた。

 ともかく、吉川浩二は第三次菊水特攻作戦に参加することとなった。とうに父母もいなければ女房子供持ちでもない、さりとて長男たる兄がいるので、実家が断絶してしまうというわけでもない彼の特攻志願を、上官が取り下げる理由はどこにもなかったのだ。

 その後の手記には、吉川少尉の特攻出撃は六月五日と決まり、それに先立ち、攻撃目標であるアメリカ軍の機動部隊が集結している沖縄近海を睨む特攻作戦の最前線、九州方面への進出することが決まった。当初、出撃予定地は鹿児島の海軍・I基地となっていたが、吉川少尉は、それだけは嫌だと上官に出撃基地の変更を懇願していた。

「……俺には分かる。あいつは、自分が最後に踏む祖国の地を、なるべくならあの女の故郷の地にはしたくなかったんだ。だから鹿児島に行くことだけは嫌がったんだ。あいつの、最初で最後の我儘だったんですよ」

 河合は、もはや何も言えなかった。手記には、奇跡的にその懇願が上官に認められ、熊本の陸軍・K基地が出撃基地として認められたとあった。あまりにも異例なことではあったが、それが認められたのは、単に菊水特攻作戦が陸海軍合同作戦であったからというだけではなく、吉川少尉が横須賀海軍航空隊の中で、学徒出身者ではありながら、上官らからも人間的に一目置かれていたからであろうことは、河合と仲山の想像に難くなかった。

 特攻出撃を前に、六月一日に横須賀基地でゼロ戦を受領し、翌日に空路熊本に進出した吉川少尉のその後の手記には、K基地の隊員や要務士のみならず、基地周辺の住民や、たまたま沖縄から熊本へ疎開してきていた学童達が、明日には命を散らすことが確定している浩二をとてもよくもてなしてくれたと、感謝の言葉が綴られていた。ある婦人が差し入れてくれた芋団子の味は、死んでも忘れることはないだろうとも書かれている。

 そして、特攻出撃の日付である六月五日の日付が記された頁には、浩二の絶句らしきものが墨痕鮮やかに記されていた。

『我ガ人生 遂ニ蒼天見エズ』……。

「そして、あいつはその日の早朝、他の陸軍特攻機とともにK基地を出撃しました。特攻機が三十機、そして特攻機を沖縄まで護衛し、戦果を確認して基地に報告する直援機が三機だった」

「……」

「……出撃して数時間、帰ってきたのは直援機の隼が一機だけだった。特攻隊はすべて、沖縄まで辿り着く前に敵の戦闘機隊の待ち伏せに遭って全滅した……それだけが報告されました。要するに、弟は特攻本来の目的を達することすら出来ず、空に散っていったってことです。もう、一片の骨も還っては来ないんだ。この顛末を、俺は終戦後に海軍復員局に問い合わせて知りました」

「……」

「もう、これで十分にお判りでしょう。俺がやりたかったのは、たった一つだけ。弟の復讐です」

「……そうだったのか」

 河合は、それしか言葉に出来なかった。

「戦争に負けて、憲兵である俺はお払い箱になりました。上官や同僚連中は敗戦を知るや、憲兵隊からさっさと逃げ出していきました。元憲兵だと知れたら、占領軍から処刑されるからってね。別に俺はそうなるのであればそうなったって構わないって思って、規定通りに除隊して下宿もさっさと引き払い、故郷へ帰ったんですよ。叔父貴に頼んで、吉川家の墓に浩二の名前を彫ってもらうのが、俺の故郷での最初の仕事でした。叔父貴は、特攻隊員だった浩二の名前を墓に彫ったら、占領軍から墓を荒らされるとか駄目だとか何とか言っていましたから、俺はそれを強引に押し切りましたがね……。その後も、俺が元憲兵だったっていうのが付いて回って、叔父貴一家のみならず、村中から俺は白眼視されましたよ。俺だけじゃない、ガキの頃の同級生だった復員兵の連中も、同じような目にあっていました。情けないったらありゃしなかった。そりゃ戦争中は軍人にも色々いたでしょうが、戦争に負けてからというもの、十束ひとからげで元軍人というだけで軽蔑されるってのは、まったくもってやり切れなかった。気が滅入ったせいで、弟みたいに死んでいれば良かったかもと思ってしまったことすらありますよ」

「……」

「そして俺は、ついに村を出ました」

「そこまで居心地が悪かったのなら、仕方がないかもしれないな」

「そんなんじゃないですよ。俺が村を出たのは、M大から手紙を受け取ったからなんです」

「手紙……?」

「ええ。その手紙がなかったら、俺は弟の死の真実を知ることはなく、葛原を殺すこともなかったでしょう」

「待ってくれ。その手紙と言うのは?」

「弟の母校だったM大から届いたものです。弟の遺品が海軍復員局経由でM大の戦友会に戻ってきているので、引き取りに来て欲しいとありました」

「……M大が、君にそんな手紙を直接出したのか?」

「……ええ。まあ……」

 どもるように答える吉川惣一の様子に引っかかるものを感じつつ、河合は話を続けるように促した。

「そこで初めて、俺は浩二の遺品がM大の戦友会で保管されていることを知った。だから実際に受け取りに行って、司書から受け取りました」

「遺品というのは、この手記のことだね?」

「他にもう一つありました」

「それは?」

「あいつの海軍士官短剣です。浩二はそれを、俺への形見として、特攻出撃の直前に熊本の基地の司令に託していったと聞きました」

「……」

「俺は、弟の手記を全て読みました。何度も何度も読み返しました。その度に、俺は涙を禁じ得なかった。弟の無念が、あいつの文字から立ち昇ってくるようでした。その瞬間から俺は、今こうして生きている俺の命は、何のことはない、弟の死によって贖われたものだと知ったんです。それを否応なく知ってなお、俺はそれを忘れてのうのうと生きていくことは出来なくなったんですよ、先生、刑事さん」

「……」

「そんな思いは押し隠つつ、俺は後日再びM大に行って、葛原百合子の消息を聞いてみました。すると、葛原は今もM大に在学中だというじゃありませんか。だから俺は、何とかして葛原を呼び出そうと……」

「そこが疑問だ。てめぇはどうやって葛原百合子を殺害現場に呼び出したんだ?てめぇが直接、葛原百合子に声を掛けたのか?それとも、誰かを間に立てたとか……」

 仲山が尋ねる。

「……刑事さん、こんなことを頼める義理じゃないが、ささやかな司法取引だとでも思って一つ約束してくれませんか?」

「何をだ?」

「確かに俺は、葛原を呼び出すのをある人に依頼した。だが、その人は俺が葛原に対して復讐心を抱いていることは知らないはずですし、俺だってそんなことは話してもいない。捜査上、その人の名前を聞きたいと言うんでしたらお答えしますが、その代わり、その人に事情聴取やらをするのは控えて欲しい。その人は……あくまで善意だったんですから」

 絞り出すように言った吉川惣一の言葉に、やがて仲山は頷いた。

「……分かった。約束してやろう」

「ありがとうございます。俺が葛原を呼び出してくれるように頼んだのは……そもそも、俺に弟の遺品についての手紙をくれたのは、M大の……夷森さんという司書の女性です。下の名前は知りません」

 河合は思わず仲山と顔を見合わせた。……これは、単なる偶然なのだろうか。

「夷森……さんは、それに応えてくれたのか?」

 河合が戸惑いながら吉川惣一に問う。

「ええ。葛原の近況を聞いてみたのにしろ、葛原を呼び出してくれと頼んでみたのにしろ、夷森さんは訳も聞かずに、快く俺の頼みを聞いてくれました」

「……」

 河合と仲山は再び顔を見合わせたが、吉川惣一は話し続けた。

「あの日の夕暮れ、俺はM大から少し離れたS川の河川敷に、葛原を呼び出しました。俺は、弟の遺品の短剣をベルトに差して、葛原を待った」

「……君はその時点で、葛原さんを殺してしまおうと考えていたのか?」

「俺だって……人を殺したくはなかった。もし葛原が、自分の行いを認め、そして弟の死を心から懺悔したなら、命を取るつもりはなかったんです。本当です」

「……そう思いつつ、君は葛原さんを待った」

「ええ……辺りが薄暗くなり、やがて現れた葛原は、血色も身なりも良かった。何不自由なく戦後からの混乱をしのいでいたんです。そして思いがけないことに……あの女は、海軍士官短剣を着けた俺を……弟と間違えたようでした」

「……」

「〝神風特攻で軍神となったと新聞で見たけど、ご無事だったんですね。良かった、本当に良かったですわ。やっぱり、貴方は私のもとに帰ってきてくださったのね〟……頬を上気させながら、あの女はそう言って、いきなり俺に飛びついて、俺の唇を奪った。そして、こう言ったんだ。


『もう二度と離しませんわ。貴方は死ぬまで、私のものよ』


「ああ、こいつは根っからの女郎蜘蛛だ。そしてこいつは、一度ならず二度までも弟に取り付いて蝕み殺そうとしている……俺はそう思った。気付いたら俺は葛原を両手で絞め殺し、短剣で腹を裂いて子宮を引き千切っていた」

「……頭に血が上って、衝動的に殺したんだな」

「……詰まるところはそういうことです。ですが、後悔はありません」

「どうして、子宮を切り裂いた?」

「俺は、あの女を、同じ人間だとはとても思えなかった。肉欲に突き動かされ、淫らに光るけだものだとしか思えなかったんです。俺はそんな奴が弟に付きまとっていたのが恐ろしく思えた。そしてあの女は、今なお何も変わらずにいた。……理性的じゃありませんでしたが、子宮を切っちまわなければ、この女は死なないと思ったんです。それだけです」

「しかし……君も元憲兵だろう。理由があるにせよ、君は法を犯し、元憲兵の名を汚したんだぞ?」

 河合の静かな声に、吉川惣一は小さく俯いた。

「それは……そうかもしれません。しかし、弟がこんな無念を背負って死に、弟をその運命に追いやった女が今ものうのうと生きているのが、俺は兄としてどうにも我慢ならなかった。弟の死の真実を俺が知ってしまった以上、俺は弟の無念を雪いでやるか、さもなくば憤死してしまうか、二つに一つだったんですよ。俺が今生きていられるのは、浩二がああして命を散らしたからなんだ!」

「……」

「俺だけは忘れてやりたくはない。それが義務だ。忘れないだけじゃなく、知らしめてやりたかった。これは俺の意地であり、義理です。俺は兄貴なんだ。無念に死んだ弟の兄なんだっ……!」

 河合も仲山も、吉川惣一の無念を前に、反論をすることは出来なかった。

「……凶器に使った短剣はどうしたんだ?」

 仲山が問う。

「葛原を殺した後、俺はT村に戻り、弟の墓前に復讐を報告して、住職に手記を託しました。その足で俺は、弟の所属基地があった横須賀に行き、砂浜の海水で短剣を清め、海に投げ入れました。沖縄の海がある方角に目がけて……」

「そうか……だから自首するまでに数日かかったんだな?」

「はい。お手間を取らせました」

 しばらく沈黙が続いたが、ややあって、仲山が頷いた。

「……もう分かった。いずれにしろ、お前の今の証言は、間違いなくお前の罪を確定するものだ。それは構わないんだな?」

「ええ。もう、俺には何も思い残すことはない……」

 吉川惣一は深く息をつき、微笑した目を閉じた。事件の核心に辿り着いたという達成感を、河合弁護士と仲山刑事は得ることができなかった。真実の後味の悪さだけが残された。

 あ、と吉川惣一が思い出したように言った。

「そうそう、思い残すことが二つだけありました。一つは、世話になった夷森さんには改めて礼を言いたかったです。それと……」

「それと何だ?」

「誰かは知る由もないが、K子という女性にも、俺は会ってみたかった」

「ケイコ……?」

「ええ。ここを見てください」

 吉川惣一は、弟の手記の最後の見開き頁を開いた。そこには、こう書いてあった。

 『K子様 左様ナラ 僕ハ君ニ恋シテタ 君ノ一日デモ健ヤカナラント祈念シツツ 僕ハ特攻スル』




 ***



 数日後、河合はM大を訪れ、夷森啓子と会った。人々をさむざむと凍えさせる風の吹く曇った午後だった。粗末にささくれ立った木材のベンチに、二人並んで腰かける。元々あった格調高い金属製のベンチは、屑鉄屋に売れば金になるということで終戦後に誰かに盗まれてしまったらしい。

「新聞報道の通り、葛原さんを殺した犯人が判明したよ。吉川浩二さんの実兄の吉川惣一が……事件の犯人だったんだ」

 河合が口を開いたが、夷森はとりたてた感情の揺らぎも見せることなく、そうだったんですねと呟いた。

「君のお陰で、事件の真相に近づけたよ。君の協力がなければ、僕らは被疑者の身元にすらたどり着けなかったんだからな」

「そんな大したことはしていませんわ」

 夷森は微笑を浮かべ、眩しそうに河合を見たが、河合の顔は曇り切っていた。

「……いくつか、君に聞きたいことがある」

「あら、何でしょう?」

「吉川惣一さんに浩二さんの手記を渡したのは、君だろう?」

「ええ。その通りですわ」

「浩二さんの海軍士官短剣も……?」

「もちろん」

「君には申し訳ないが、想像したくないことを僕は想像している」

「……」

「間違っていたとしたら申し訳ないが……君は、浩二さんの手記を全て読んでいた……?」

 うふふ、と夷森啓子の唇から微笑が漏れた。何も言葉にせず、夷森は悪戯っぽい笑みを目に浮かべて河合を見返すだけだった。

「その上で君は、ひょっとしたら、こうなることをすべて予見していながら、吉川惣一さんに浩二さんの手記を渡したんじゃないだろうな?」

「……それを立証することは可能ですか?」

「立証は出来ない。これはあくまで、僕の想像だ」

 夷森は、無邪気にはしゃぐように言う。

「先輩は、警察官僚にもおなりになれるわ。さすが、私が見込んだだけの方でいらっしゃるのね」

「君は……何を考えていたんだ……?君は、吉川惣一が実の弟の死について真実を知ったならば、何らかの行動を取るかもしれないことを……予見しておきながら、あえて浩二さんの手記を……」

「……もっとはっきりおっしゃったらどうです?私が、吉川惣一さんに、葛原さんを殺すよう仕向けた……言い換えれば、吉川惣一さんを善意の内に教唆したって」

 河合は愕然とした。やはり、夷森は確信犯だったのだ。

「何てことだ……どうして、どうして君が……」

「嬉しいわ、本当に嬉しいですわ。前回お会いした時はあえて核心には触れずにいたのに……こんなに早く真実に辿り着くなんて、先輩は私が見込んだ通り、本当に優秀な方なのね」

 夷森は、悪びれるどころか、どこかはしゃいでいるようにすら見えた。なぜ僕を試そうと思ったんだ……という疑問が浮かんだが、河合は夷森の様子に空恐ろしさすら感じ、口を開くことが出来ないでいた。

「浩二さんの遺品ですけど、熊本からこちらに届くまでに、相当時間を要したようなんです。戦争も末期のことですから、郵便列車が機銃掃射や空襲に遭ったりして、大変だったんでしょう」

「……」

「東京に遺品が届いた時には、すでに戦争は終わっていたみたいなんです。お兄さんの住所も、下宿を引き払っていたからということで結局宛先不明。しかも海軍復員局は、浩二さんのご実家の住所は把握していませんでした……ご両親が既に亡くなっていたから、浩二さんも海軍には身元引受人にはお兄さんだけを記載していたんでしょうね。だから遺品は、迷い迷って結局母校のM大に戻ってきたということです」

「……」

「だけどM大戦友会としても、戦後すぐの混乱の中、遺品をいちいち遺族へ転送する手間も時間も取れない。同級生づてに浩二さんの遺品の話を聞いた私は、代わりに浩二さんの遺族の方にお渡ししますって言って、手記と短剣を受け取ったんですの」

「それを……君の手の内に入った手記を、君は読んでしまったんだな」

「その手記だって、M大に届けに来た海軍復員局の方の話によれば、浩二さんは出撃前に、手記だけは処分してくれと基地の方に頼んでいたみたいです。ただ、陸軍の基地司令が海軍の特攻パイロットの遺品を勝手に処分するのも憚られたようなので、結局は短剣と一緒にお返しすることになった……ということだそうですわ」

「……」

「私がその手記を最初はほんの興味本位だったんですけれどもね……だって、同級生の書いた文章って、読んでみたくなるものじゃありません?それも、私的な文章なら、なおさら。果たして浩二さんの手記は、本当に、とぉっても面白かったわ!」

「……」

「ごめんなさい、回答になっていませんでしたね。なぜ、私がこんなことをしたか、でしたわね。難しい話じゃありません、私は葛原さんが大嫌いだったんです」

 夷森啓子の表情が、瞬時に憎々し気に染まったのを見て、河合はいっそう背筋を凍らせた。

「葛原さんは、常日頃から私を邪魔者扱いしていました。それも、傍目には分からないように、陰湿に。表向きには私を先輩として立てているように見せかけておきながら……そもそも、葛原さんがあの地下グループを立ち上げたのだって、一番の目的は、男子学生を集めてちやほやされたいってだけ……というより、浩二さんと定期的に会って話せる場をお膳立てする目的でグループを作っただけかもしれません。そう……間違いありませんわ。葛原さん、入学して数か月してから、私に打ち明けたことがありましたから」

「打ち明けた……?何をだ?」

「一学年上の先輩である浩二さんのことを、異性として気になって仕方がないって」

「……!」

「ふふふ、でもそういうことって、お生憎な結果に終わってしまうものですものね。あの娘、甘やかされて育ったんでしょう、無駄に自尊心が高すぎて、自分の口で直接浩二さんに想いを伝えることもできない哀れな方だったわ。その想いが裏切られるのが怖かったから、最終的には色仕掛けで既成事実を作ることしか思いつかなかったんでしょうね。本当に愚かな女だわ!うふふふっ!」

「……」

「でも一方で、当の浩二さんは、どうやら私に好意を持っている風だったんですから。集まりを重ねるにつれて、流石の葛原さんもそれを薄々感づいて、次第に私を妬ましく思うようになったんでしょう。入学したての頃にあれほど親切にしてあげたのに、あの田舎者の芋女っ……!」

「……」

「浩二さんが大学から、いやこの世からいなくなってからもそれは変わりませんでした。裏であの女は猫のように教授連に取り入って、私ではなく、自分が大学に研究生として残れるように画策していたんです。可愛い子ぶって……!ああ、思い出しただけでも本当に腹が立つわ。私が地下グループに誘われたのも、殿方が多い空間で女は一人というのは避けたいから、私をおまけみたいな感じで添え物にしたかっただけに決まっていますわ。あとは、自分より容姿のレベルが劣っている女子をあえて呼び込むことで、自分自身を相対的に引き上げるか……そんなところでしょうね」

「だから君は、吉川浩二さんの手記を利用して……彼のお兄さんを焚き付けることを容易に予想しておきながら、あえて渡したと……」

「それ自体は何の罪にもならないんじゃありません?若くして亡くなった同窓の学徒兵だった方の遺品をご遺族に渡すことの、どこに違法性があるとおっしゃるんですか?」

「……」

「でも、興味本位でも手記に目を通しておいて良かったですわ。あの手記が、まさかあんなに役に立つものだとは思いも寄りませんでしたもの。書き手の浩二さんそのものが、そもそもそんな魅力的な男性でもありませんでしたし」

「……しかし君は、その浩二さんから好意を受けているのを分かっていたんだろう」

「おっしゃる通りです。手記の最後の頁にあるK子というのは、恐らく私のことでしょう」

「……」

「さっきも言った通り、浩二さんが何となく私に気をお持ちになっているのは何となく感じていましたわ。浩二さんがそれを言葉にすることはありませんでしたけれども……だけど、私からすれば、浩二さんは単に優しいだけのつまらない男性でした。葛原百合子のような程度の低い女に好かれるだけの男だったんです、しょせんは」

「本気で言っているのか?何てひどいことを……!」

「そして結果的に言っても、浩二さんは自分の弱さゆえに自分で死を選んだだけ。みっともないったらありゃしないわ」

「何ていうことだ。君は……そんな陰湿なことを考えて……」

「私は何もしていませんわよ。私の思い描いた通りに、葛原さんや浩二さんのお兄さんは動いただけです。私は単にほんの少しだけ、舞台装置の歯車を廻してみただけですわ。ああ、本当にうまくいきました。私がしたことはあの手記を憲兵上がりの男に見せただけですけれども、思ったよりも血気に逸ってくれたおかげで、邪魔者は消え、そればかりか思いがけないことに、こうして河合先輩と再会までできるなんて……!」

「君は……君がそんな冷酷な女性だったとは、僕は……」

 河合は夷森に心底絶望した。吉川惣一が自分の名前を黙秘し続けたのは、明らかに夷森に迷惑が掛かるまいとしたからだという事を、どうせ伝えたところで夷森という女は何とも思わないだろうと河合は嘆息した。そんな河合に、不意に夷森が向き直る。

「あら、酷いわ。先輩、私だって、誰かのことを想い慕うことはありますわ」

 いきなり何を言い出すのかと河合は思ったが、そんな彼に、夷森は熱っぽい双眸を向けた。

「私がお慕いしているのは、河合先輩、貴方です」

 言葉よりも一瞬先に河合の内面で想像された恐るべき事実を、夷森はゆっくりと言葉にした。

「ずーっとお慕いしていました。私がM大に入って、初めて先輩にお会いした時から、ずっと、ずっーと。本当なら、卒業して弁護士になってから、私は先輩に想いを伝えようと考えていました。けど、今回のことで、時計の針を早く進めることができたわ……」

 言いながら夷森は河合に傍らから身体を密着させ、河合の胸と腰を撫でるように両手を廻した。夷森の甘美な香りが、今の河合には恐怖にしか感じられなかった。

「やめろ!やめてくれ!」

「どうして。私はこんなにも、先輩のことをお慕いしていますのに」

「僕は君とは違う!君のように、誰かを操ったり、騙したりなんかするような人間じゃないんだ!」

「あら、先輩がそれをおっしゃるのかしら?」

「……何が言いたいんだ?」

 夷森の、あたかも蛙を睨む蛇の目のような暗い輝きに、河合は真正面から射すくめられた。

「だって先輩は、戦争中に徴兵逃れをしたでしょう?」

 目の前が真っ暗になった。足元の感覚がなくなった。瞬時に廃人と化してしまうような衝撃を受けた河合の耳元で、夷森啓子が囁く。

「あの時期に、文系大学の卒業生が徴兵を逃れられるわけがないじゃありませんか。それも、先輩のように、間違いなく甲種合格の体格をお持ちの若い男性が」

 夷森の両手が、河合の胸と背中とを愛おしそうに撫でまわす。

「……知っていたのか、君は」

「先輩が、N教授にその件のとりなしをお願いしていたのを、私はこっそり聞いていましたのよ」

 それを知っていながら、夷森は何も知らないふりをして自分と接し続けていた……河合は慄然とした。

 うふふふふふふ、と笑う夷森啓子。理知のあるその美しい顔は、いまや狡猾な雌の顔に豹変してしまっていた。

「疚しかったんじゃありませんこと?自分の後輩たちが従容として戦場に……特攻に赴いたのに、先輩はのうのうと銃後で机仕事をしていたんですから」

「言うな……そのことを言うな……!」

「いくら良心において戦争に反対していたとはいえ、当時ほとんどの若い男性の方が逃れられなかった兵役と戦死の運命から逃げおおせ、戦後となった今なおこうして何事もなかったように弁護士として生きていく……。同業の法曹界の方々が……いえ、一般の人々がそれを知れば、先輩はどうなってしまいます……?」

「やめろ……」

「正直に言って、N教授が空襲で死んだと知った時、先輩はどう思いました?喜んだに決まってますよね?だって、これで先輩の徴兵逃れのお膳立てをした人の口が好都合にも永遠に封じられたんですから!」

「やめてくれ!」

 河合は自分の両膝が震え出すのを抑えられず、頭を抱えて座り込んだ。ああ、全てが、必死に隠してきた自分の全てが暴かれる!

「心配なさらないで。私だって疚しいところはありますわよ。だって、大学に残っていなければ、私は女子挺身隊に入って軍需工場に行かされる羽目になっていたんですもの。冗談じゃないわ、汚い工場で汗と油にまみれて、敵の空襲にも狙われる危険まで冒さなきゃならなくなるなんて」

「……」

「先輩の徴兵逃れなんて、私にとってはどうでも良いこと。むしろ私は、そんな先輩の逞しさが愛おしくてたまりません。先輩が、私のお願いを聞き入れて下さるのならば……」

 自分も地面に膝をつき、目を潤ませながら語る夷森に、河合は毒に刺されたように苦し気に問う。

「何が……望みなんだ……」

「私を、愛してください。全身全霊で愛してください。そして死ぬまで、私のものになって……」

 驚くほど熱く火照った両手で、夷森は河合を引き立たせ、河合の冷え切った頬を捉える。そして河合の唇を自分のそれで塞いでしまった。夷森啓子の長く真っ赤な舌に荒々しく口腔内を蹂躙されながら、河合誠一は絶望の味が……あたたかい毒の味が、自分自身の空っぽな満腔にじわりと広がっていくのを、為す術もなく知覚した。



 ***


 数日後、K警察署。

 仲山刑事は、その日の新聞記事の一面を、椅子に力なく座り込みながらぼんやりと眺めていた。

 紙面には、二つの記事があった。一つは、S川女性惨殺事件の全容が解明され、被疑者も概ね事実を認めており、刑は早急に確定するであろうというものが、小さく控えめに記載されていた。

 そしてもう一つは、都内の連れ込み宿で、若い弁護士が女子大学生と情交に及び、絶頂の果てに女を絞殺し、直後に自身もその場で首を吊って死んだという、興味本位も手伝ってか、比較的大きめの記事だった。

 ……仲山には、まさか河合が夷森とこのような最期を迎えようとは、まさに青天の霹靂の思いだった。なぜ河合がこんな行動に駆られたのか……様々な憶測が飛んだが、仲山にはだいたいの察しはついていた。恐らく、葛原百合子殺しの捜査の中で、河合は何かパンドラの函のようなものを開いてしまったのだろう。恐らく、その函は夷森啓子の内側にあり、女の暗い欲望や嫉妬などがぎゅうぎゅうに詰め込まれていて、それを河合が迂闊にも刺激してしまい……。

 一つ言えることは、河合誠一にとって、夷森啓子という女はミネルヴァなどではなく、メフィストフェレス(悪魔)だったのだろう。吉川浩二にとっての葛原百合子がそうであったように。

 仲山はやるせなかった。結果的にとはいえ、俺は、河合を女郎蜘蛛の巣にまんまと放り込んでしまった……河合をこの事件に関わらせるべきではなかった……!

 相変わらず、都内にしろ国内にしろ、市井の治安は回復にはまだほど遠い。〝戦後〟はこのまま永遠に続いていくんじゃないか、と仲山は思ってしまうこともある。戦争は終わった。しかし同時に、何か得体のしれない魔物のようなものが、この日本に降臨してしまったのかもしれない……そんな思いに仲山は頭を振り、新聞を畳んで机の上に放り投げ、やにわに煙草に火を点けた。


 昭和二十一年五月、日本国憲法が公布・施行されるのを前に、多くの重罪人に対して恩赦がなされた。吉川惣一もそのうちの一人として申し渡しを受けていた。しかし惣一は、恩赦の朝、手洗いで手拭いをロープ代わりにして縊死しているのが発見された。光を失った穏やかな瞳は、靖国神社のある九段の方角に向けられていた。遺書はなかった。

 その日、何事もなかったかのように新憲法は公布され、これに基づく男女同権と名の付くさまざまの出来事が日本中に溢れかえるようになった。

 この時から現在に至るまでの戦後政治と現代日本の有様は、読者諸氏の周知の通りである。                                    

 完 



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― 新着の感想 ―
[良い点] 被疑者や事件を取り巻く人々に共感できない面があったり、時代背景のせいで楽しいと思える部分が少なく、読むのがむずかしいはずですが、この作品は最後まで読みたいなと思えました。 めずらしい終戦直…
2020/05/22 16:00 退会済み
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