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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

血塗られた遺産

作者: SS便乗者

「行って来まーす!」

僕はそう言って家を飛び出すと、まだ昼食を食べたばかりで些か重い腹を揺すりながら村外れの森へと駆けていった。

この人口200人にも満たない小さな村では同じくらいの歳の子供は数えるくらいしかおらず、今年で9歳になる僕は村から程近い森で遊ぶことの方が遥かに多かったのだ。

もちろん友人が全くいないというわけではないのだが、森での採集や狩りを生業にしている僕の両親とは違って他の子供達の親は自分の子供が森に入ることを余り良くは思っていないらしい。

僕は今よりももっと小さい頃からお父さんに連れられて森には良く遊びに来ていたし、森自体もそれ程深いものではない上に繁殖期を避ければ危険な獣の姿もほとんど見られないという理想的な遊び場にしか思えなかったのだが・・・

まあその辺りの事情を考えても僕が同年代の友人と遊ぶより森へ行くことの方を優先してしまうのは、寧ろ僕だけが両親から森で遊ぶことを許可されていると言うある種の優越感によるところが多かったのかも知れない。


今日は何処の木に登ろうか・・・?

そこらに落ちてる団栗や木の実を集めるのも良いな・・・

野兎とかも上手いこと捕まえて家に持って帰ることが出来れば、きっとお父さんが美味しい鍋を作ってくれるだろう。

そんな楽しい想像に、たった1人で遊んでいるというのに時間がどんどんと速く流れていく。

そして木々の梢の隙間から見える空が夕焼けに紅く染まり始めた頃になると、僕は服の裾一杯に集めた木の実を持ったまま汗だくの体を引き摺るようにして家路へと就いたのだった。

だが村へ向かって歩き始めて少しした頃、僕は突然周囲の木々の葉がザワリと激しい風か何かに煽られたような感覚を味わっていた。

やがて反射的に顔を上に向けてみると、濃い橙色に染まった空の下を赤黒い大きな影が勢い良く横切っていく瞬間を目撃してしまう。

「何だろう・・・あれ・・・?」

だが木々の間から垣間見ただけでは正体の判らなかったその影が僕と同じ方向・・・

つまり村の方へと向かっていたことに気が付くと、僕は何だか胸の内に黒々とした不安を芽生えさせていた。

とにかく、もうすぐ日も暮れることだし村へは早く帰った方が良いだろう。

僕はそう思って服の裾に貯め込んでいた大量の木の実をその場にばら撒くと、一日中走り回って疲れ切った体に鞭を打ってまだまだ随分と距離があるだろう村へと急いだのだった。


それから十数分後・・・

ようやくもう少しで森を抜けられるというところまで来た僕は、村の方角から何やら激しいざわめきが聞こえてきていることに気付いていた。

遠く離れていた僕にも届いてきた甲高い悲鳴や怒号、村の其処此処から立ち昇っている黒い煙と真っ赤な炎。

そして遠目から見ただけでも明らかにそれだと判る、全身に深紅の鱗を纏った巨大な災厄の元凶。

見上げる程に大きなドラゴンが村のあちこちを飛び回りながら真っ赤な炎を吐いては、無数の建物を、大勢の人々を、文字通り無差別に焼き払っていたのだ。


「そんな・・・お父さん・・・お母さん・・・!」

僕はその信じられない光景を目にして一瞬体を強張らせたものの、すぐに両親の危機を察してその場から走り出していた。

村までの距離が近付く度に、それまでザワザワとした喧騒のようにしか聞こえていなかった周囲を飛び交う言葉が辛うじて意味の判るそれへと変わっていく。

だがそのほとんどは命の危機を知らせる為だけに発せられる悲鳴と、燃え尽き崩れ落ちる建物の中から聞こえる助けを呼ぶ声、そして火達磨になった人や大怪我を負った人の苦悶と断末魔の叫び声に満ち満ちていた。

何て酷い・・・

例のドラゴンは相変わらず村の上空をあちらこちらへ旋回しては、まだ火の手の回っていない建物を目掛けて激しい炎を手当たり次第に吐き付けているらしい。

僕はそんなドラゴンに見つからないように黒煙と建物の瓦礫の陰に隠れながらまだ辛うじて損壊していなかった自分の家を見つけると、勢い良く扉を開けてその中へと入って行った。


「お父さん!お母さん!何処にいるの!?」

家の外からは相変わらずガラガラと何かが崩れる音や炎が煽られるゴオオオッという音に混じった無数の悲鳴が聞こえてきて、両親を呼ぶ自分の声が掻き消されてしまったのではないかという思いが胸を締め付けていく。

だがややあって奥の部屋に隠れていたらしい両親が揃って姿を現すと、僕は一先ず安堵の息を漏らしていた。

「早く!早くここから逃げないと!」

だがそう言って両親を家の外へ引っ張り出そうとしてみるものの、彼らがとんでもないとばかりに首を振る。

「駄目だ!あのドラゴン・・・家々を焼きながら逃げようと村の外へ出た人々を真っ先に襲って食い殺しているんだ」

そんな・・・それじゃあ、あいつはこの村の人々を皆殺しにしようとしてるってことじゃないか!

「だから中でじっとしてるのよ。もし家に火が付いても平気なように、あなたは井戸の方に隠れていなさい」

「で、でも・・・お母さん達は?」

「私達は風呂場の方に隠れているわ。無事でいてね・・・」

そしてそう言いながら僕の額にキスをしたお母さんが、僕を深い井戸のある水場の方へと案内してくれる。


同じ家の中にありながら、僕は普段余り立ち入ることのない水場・・・

確かにこの狭くて深い井戸なら僕が身を隠すには丁度良いだろうが、大人の両親には流石に些か狭過ぎるということなのだろう。

僕はその事実に納得すると、お母さんに言われた通りに井戸の中へと静かに身を隠していた。

それを見て、お母さんが安心したような表情を浮かべる。

「さあ、私達も・・・」

「ああ・・・」

そしてお父さんとお母さんがその場から立ち去ってしまうと、僕は次第に胸を締め付け始めた心細さに懸命に耐えながら外から聞こえてくる惨劇の音が聞こえなくなるまで必死に身を縮込めていたのだった。


それから、どのくらいの時間が経った頃だろうか・・・?

僕は何時の間にか辺りがすっかり静かになったことに気が付くと、長時間井戸の中で支えていたことで疲れた体をゆっくりと動かし始めていた。

やがて微かに焦げ臭さの立ち込めた井戸の外へ顔を出してみると、僕の家も焼け落ちてしまったのか周囲が燃え尽きた大量の瓦礫に覆われている光景が目に入ってくる。

屋根ももうすっかり無くなってしまっていたものの、夜の暗さのせいでそれに気が付かなかったのだろう。

お父さんとお母さんは・・・無事なのだろうか・・・?

もうほとんど原形を留めていない我が家の悲惨な姿に一瞬絶望的な想像が浮かんだものの、僕は取り敢えず周囲にドラゴンの姿が無いことを確認して井戸から這い出していた。


「お父さん?お母さん?」

まだ何処かにドラゴンが潜んでいるかも知れないという不安に余り大声を出す気にはなれなかったものの、両親へそう呼び掛けながら壁も天井も無くなった家の中を間取りの記憶を頼りに風呂場の方へと進んで行く。

そしてようやく風呂場があったらしき場所へ辿り着くと、僕はそこに2人の姿が無かったことに希望と落胆を同時に味わっていた。

お父さんとお母さんは何処へ・・・?

少なくとも自分達で逃げ出したのであれば、彼らが僕の存在を忘れているはずが無いだろう。

でもここに誰もいないということは・・・

だがそこまで考えたその時、僕はふとある恐ろしい想像に辿り着いてしまっていた。


もしかしてお父さんとお母さんは・・・僕の存在をドラゴンから隠す為にその注意を引こうと自ら外へ出て行ってしまったのではないだろうか?

村の人々を皆殺しにしようと無数の家々を1つ残らず焼き尽くしたあの凶悪なドラゴンのこと・・・

中から誰も逃げ出して来ない家があれば、きっと焼け落ちたその瓦礫を押し退けて家の中に誰かいないか調べるくらいのことはしたかも知れない。

だけどお父さんとお母さんが揃って家から逃げ出したとあれば、僕の存在を知らないだろうドラゴンはこの家の中まで調べることはしなかったのだろう。

そのお陰で僕は無事に生き延びられたものの・・・

それは同時に、2人がドラゴンに見つかってしまったという最悪の前提の上に成り立っている話だった。


取り敢えず、2人を探しに行こうか・・・

僕はそんな暗澹とした思いを胸に抱えながら家の外に出ると、そこに広がっていた想像以上に悲惨な村の姿に激しく打ちのめされていた。

決して大きくはない村ではあったものの、原形を留めて残っている建物はただの1つも見当たらない。

その多くは既に跡形も無く燃え尽きて黒々とした瓦礫に変わっていて、僕の家も含めた幾つかがまだ赤い炎を上げて燃えている最中だった。

更には道のそこら中に無惨な姿に変わり果てた村人達の屍が横たわっていて、きな臭い何かが燃える臭いに混じって噎せ返るような血の臭いまでもが鼻に届いてくる。

あのドラゴンは、きっと無力な人間達を殺戮することを愉しんでいたのだろう。

巨大な爪で逃げようとした背中を引き裂かれた人、両足を踏み潰されて逃げることも出来ず徐々に衰弱したらしい人、それに親子諸共激しい炎を浴びせられて一塊の消し炭に変えられたらしい、無惨な亡骸の数々。

何て酷いことを・・・

余りにも希望の見当たらないその終末的な景色に、両親を探そうという意思までもが儚く先細っていく。

こんな状況で2人が生きているとはとても思えなかったものの、それでも僕は煙に咳き込みながら村の中をフラフラと歩き回っていた。


駄目だ・・・何処にもいない・・・

両親が他の人の家に入るとは思えないから、この周辺にいないのであれば村の外へ逃げたのかも知れない。

そしてそんな思いに何時も遊びに行っている森の方へ向かって村を出てみると、僕はそこでずっと探していたものを見つけてしまっていた。

「お・・・父さん・・・お母さん・・・!」

村から逃げようとしたところをあのドラゴンに見つかったのだろうか、恐らくは巨大な手で握り潰されたのだろう惨たらしいお父さんに縋るようにして、両足を焼かれたお母さんが息絶えている。

何故・・・何故こんなことを・・・

腹を満たそうとして人間を食い殺すというのならまだ理解出来るというのに、どうしてこんな・・・人間を甚振って殺すことを愉しむような真似をするのだろうか・・・

そんな理不尽な仕打ちに対する怒りと、両親の死を目の当たりにしてしまった深い悲しみ。

だが赤黒い炎のように激しく燃え上がったその激情は、突如として目の前に姿を現した災厄の前に敢え無く踏み消されてしまっていた。


ドオォン・・・

何処からとも無く舞い降りてきた、見上げる程に巨大な真紅の巨竜・・・

その巨体が大地に着地した地響きが、凄まじい恐怖心となって僕の全身を焼いていた。

「あ・・・ぁ・・・」

体高2メートル余りもあるようなそのドラゴンの冷たい紺色に染まった竜眼に睨み付けられて、まるで蛇に睨まれた蛙のように体が硬く硬直してしまう。

「おやおや・・・まだ生き残りがいたのかい・・・クフフフ・・・このあたしを謀ろうだなんて、愚かだねぇ・・・」

雌・・・なのだろうか?

険しい表情に深い皺を刻んだ老竜らしいそのドラゴンの声に、底の知れない残忍さが滲み出している。


「お前・・・さてはそいつらの息子だね・・・?やっぱりあたしが思った通り、自分の子供を匿ってたわけかい」

え・・・?思った通り・・・僕を匿っていただって・・・?

それじゃあこいつは・・・このドラゴンは・・・お父さんとお母さんが村の何処かに僕を隠していることを見抜いていたというのだろうか?

確かにそう考えれば・・・両親がどうしてこんな殺され方をしたのかにも想像が付く。

きっと2人は、このドラゴンに拷問されたのだろう。

僕の居場所を吐くまでお父さんを痛め付け、それが無駄だったと知ると今度はお母さんの足を焼いてじわじわと苦しめながら殺したのだ。

でも・・・それでも確信にまでは至らなかったということは、きっと2人は最期まで僕の存在をこのドラゴンには明かさなかったのだろう。

こいつがここで僕のことを待ち伏せていたのは、底意地の悪い勘のようなもので2人の嘘を見破っただけなのだ。


そんな想像に、胸の内で渦巻いていた恐怖心がやがて強烈な怒りへと変わっていく。

よくも・・・お父さんとお母さんを・・・村の人々を・・・

「う、うわああああああっ!」

僕はそんな甲高い雄叫びを上げると、眼前で獲物を見定めるように身構えていた巨竜に無謀にも殴り掛かっていた。

ガッ!ゴン!ガシッ!

まるで鋼のように硬い鱗と甲殻を纏った雌竜の顔に、必死に握り締めた拳を打ち付ける。

その度に重い衝撃と痛みが跳ね返って来たものの、雌竜は相変わらずその顔に悪辣な微笑を浮かべたまま無力な獲物の抵抗をただただ甘受していた。


ゴッ!

「うあっ・・・!」

だがやがて勢い良く振り抜いた拳を雌竜の顔に打ち込んだ瞬間、骨でも痛めたのだろうか鋭い激痛が右手に走る。

そして手を覆ってその間に蹲った僕を、雌竜が巨大な手でガシッと掴み上げていた。

「うわぁっ!」

恐らくはお父さんを握り潰したのだろう恐ろしい巨掌に握り締められ、その圧倒的な力の差に抵抗の意思そのものが崩れ落ちていく。

ギュッ・・・ミシ・・・ミキ・・・

「あっ・・・は・・・ぁ・・・や・・・め・・・」

更にはゆっくりと全身を締め上げられると、僕は徐々に徐々に体が圧縮されていく鈍い苦痛と息苦しさに喘いでいた。

「クフフフ・・・非力な小僧の癖に、このアタシに楯突くとは良い度胸じゃないか・・・」

そう言いながら、雌竜が苦悶の表情を浮かべていた僕の顔を舌先でペロリと舐め上げる。

「ひっ・・・」

「それに、肉も柔らかくて旨そうだねぇ・・・取り敢えず、続きはあたしの塒で愉しむとしようかえ・・・」

そしてそんな独り言を呟くと、雌竜は僕を掴み上げたまま背中から生えていた大きな翼を左右に広げたのだった。


バサァッ!

「う、うわああああっ・・・!」

次の瞬間、雌竜が大地を蹴ったドンッという重々しい衝撃と共に目一杯大気を煽った巨翼が僕を遥かな高空へと一瞬にして連れ去っていた。

そして燃え尽きた故郷の村が小さな広場くらいにしか見えなくなる程の高度まで達すると、そのまま北の方角へと鼻先を向けた雌竜が僕を掴み上げたまま緩やかに翼を羽ばたき始める。

「あ・・・あぁ・・・」

今は軽く握られているだけで特に痛め付けられたりはしていなかったものの、僕はこのまま何処とも分からぬ雌竜の住み処へと連れ去られてしまうという余りにも無情な現実に力無い嗚咽を漏らしていた。

"続きはあたしの塒で愉しむとしようかえ・・・"

雌竜が最後に放ったその言葉が、今頃になって僕の脳裏で反芻されていく。


このまま住み処に連れ込まれたら・・・僕は・・・

腹を満たす為でなくただ己の快楽の為だけに村の人々を情け容赦無く皆殺しにしたこの残虐非道な雌竜に、僕はこれから一体どんな恐ろしい仕打ちを受けることになるのだろうか・・・

高空を吹き荒ぶ強風は北へ向かうにつれて更にその冷たさを増していったものの、僕はそんな寒さなどどうでも良いと感じる程の凄まじい恐怖と絶望に焼かれ続けていた。

時折体を捩ろうとする度にミシッという骨の軋む音が聞こえる程に全身を握り締められ、疲弊し切った体にただただ底無しの無力感だけが募っていく。

た、助けて・・・誰か・・・

空を飛んでいる間雌竜は僕の顔を一瞥すらしなかったものの、僕はその顔に意地の悪い優越感と嗜虐的な笑みが浮かんでいるのだろうことを確信しながら静かに後悔の滲んだ涙を流すことしか出来なかったのだった。


それから、1時間程も経った頃だろうか・・・

まだ冬と言える程の季節ではないにもかかわらず凍えるような寒さが襲う遥かな北方にまでやってくると、僕は雌竜がゆっくりとその高度を下げ始めたことを全身で感じ取っていた。

そして微かに身を震わせながら足の竦むような眼下の景色に目を凝らしてみると、一面を針葉樹の森に覆われた大きな山の中腹に漆黒の闇に染まる大きな洞窟がまるで異界への入口であるかのようにぽっかりと不気味な口を開けているのが目に入る。

きっとあそこがこの雌竜の住み処であり・・・僕の人生が幕を下ろす場所なのだろう。

そんな自身の最期を最早他人事のように感じてしまうのは、黒々とした絶望に長時間苛まれ続けたことによって発現した一種の防衛本能の成せる業だったのかも知れない。


バサッ・・・バサッ・・・ドオォン・・・

やがて初めて僕の目の前に姿を現した時と同じように激しい地響きを轟かせて森の切れ間から山の中へ降り立つと、雌竜が僕をその掌中に収めたまま近くにあった大きな洞窟の中へとその身を滑り込ませていった。

ズシ・・・ズシッ・・・

人間の僕の目には文字通り一寸先も見えない、完璧な暗闇の中・・・

重厚な足音と共に感じる震動と微かな疲労に荒ぶっている巨獣の息遣いを感じ取りながら、僕はいよいよ終末の地が近付いて来た気配にゴクリと息を呑んでいた。

先程から決して悲鳴だけは上げないようにと震える歯を食い縛ってはいたものの、堪えようの無い恐ろしさにボロボロと熱い涙が双眸から溢れ出してきてしまう。

そしてついに雌竜の足がピタリと止まると、僕はついにガチガチと暴れ出す歯の根を押さえ込むことが出来なくなってしまっていた。


「クフフフ・・・恐ろしいだろうねぇ・・・?」

無言のまま手の中で体を震わせているらしい少年の恐怖が直に伝わってくるようで、あたしはその残忍な悦楽に顔を綻ばせながら彼を自身の眼前に持ち上げていた。

とは言え、この真っ暗な洞窟の中では彼にはあたしの顔など全く見えてはいないことだろう。

その証拠に、あたしは間近から少年の顔を見つめているというのに彼の方はまるで見当違いの方向へと視線を向けてはブルブルと底知れぬ恐怖にその身を震わせていた。

ベロォッ・・・!

「う、うわあぁっ!」

そして試しにその無防備な頬を熱い唾液をたっぷりと纏った舌で舐め上げてやると、これまで必死に堪えていたのだろうう悲鳴があっさりと洞内にこだまする。

「あ・・・は・・・ぁ・・・」

そしていよいよあたしに食い殺されると思ったのか、少年があたしの掌中で力無くもがき始めていた。


メキッ!

「ぎゃっ!」

いよいよ現前にまで迫って来た死の恐怖に耐えかねて身を捩った瞬間、僕は今度こそ明確な殺意の込められた締め付けに甲高い悲鳴を上げていた。

一瞬体が握り潰されたのかと錯覚する程の激痛が全身に注ぎ込まれ、決してそれだけは口にしまいと固く誓っていた助けを求める声が喉のすぐそこまで競り上がってきてしまう。

だがどれ程必死に慈悲を懇願してみたところで、この残虐非道な雌竜がそれを聞き入れてくれるとは到底思えない。

それだけに、僕はこれが獲物から無様な命乞いを引き出す為の拷問でしかないことをすぐに悟っていた。

ミシ・・・メ・・・キ・・・

「うあぁっ・・・!」

巨大な雌竜にしてみれば、小さな人間の子供などまるで壊れやすい玩具のようなものでしかないのだろう。

そんな余りにも脆い壊れ物を甚振るように、雌竜がなおもゆっくりと僕の体を握り締めてくる。

く、苦・・・しい・・・息が・・・

手足の骨の軋みと共にきつく締め付けられた肺が呼吸の自由をも侵し始め、いよいよもって死の瞬間が近付いて来たことを否応無しに思い知らされてしまう。

だがそれでも両親を殺された恨みと怒りを儚い矜持に変えながら懸命に沈黙を貫いていると、僕は力加減を誤ったのか一際強く握り締められた苦痛と衝撃に意識を失ってしまったのだった。


メシッ!

「ぁっ・・・」

まだ年端も行かぬというのになかなか音を上げない少年の強情さに業を煮やして、あたしはついつい苛立ちを込めてその小さな体をきつく握り締めていた。

それが止めになったのか、それともしばらく息も出来ない程締め上げてしまったせいなのか、やがて少年がか細い呻き声を残してぐったりと気を失ってしまう。

「おや・・・こいつはちょいとばかりやり過ぎちまったかねぇ・・・?」

そして苦しげな表情を浮かべて項垂れているちっぽけな獲物の姿をしばし眺めると、あたしは彼を捕まえたまま自身の寝床へと静かに蹲っていた。

身の程知らずにもその非力な拳であたしの顔を殴り付けたこの生意気な小僧は、その愚かさを心の底から後悔させてから腹に収めてくれようか・・・

だが、今日はもう夜も遅い。

こんな気を失った獲物を本人の知らぬ間に食い殺したところで溜飲が下がるわけでもないし、あたしは胸の内で沸々と煮え滾るそんな怒りの感情を一先ず押さえ込むと取り敢えず今夜は眠りに就くことにした。

「フン・・・取り敢えず、今日のところは命拾いしたね・・・」

そして相変わらず手の中で苦悶に顔を歪めているらしい少年をジロリと睨み付けると、あたしはフゥと長い息を吐き出してゆっくりと目を閉じたのだった。


「う・・・ぅ・・・」

翌朝・・・

僕は何だか遠い遠い闇の中を彷徨っていたような陰鬱な気分で意識を覚醒させると、自身の置かれている状況が全く分からないまま閉じていた目をゆっくりと開いていた。

その瞬間、洞窟の天井に空いているらしい岩の割れ目から差し込んでいる微かな陽光が余りにも殺風景な景色を僕の視界へと映し出していく。

辺りに見えるのはただただゴツゴツとした黒い岩壁ばかりで、他には比較的平らになった地面の上に敷かれている無数の細い草木を踏み拉いて作ったと見える大きな寝床とその傍に堆く積み上げられた枯れ木の山くらいのものだ。

昨日僕は確か・・・あの雌竜に住み処へと連れ去られて・・・

それじゃあ、ここは雌竜の住み処の洞窟なのだろうか?

昨夜は周囲が完全に真っ暗闇だったお陰で全くと言って良い程に周りの状況が分からなかったのだが、仮にその想像が正しいとするのならどうして肝心の雌竜の姿が何処にも見えないのだろうか・・・?


「うっ・・・さ、寒い・・・」

だがどういうわけか取り敢えず今のところは差し迫った脅威の中にいるわけではないらしいことを理解すると、僕は途端に激しい寒さを感じてまだ着のみ着のままだった自身の体を抱き抱えていた。

昨日は恐ろしさの余り雌竜に連れ去られた時のことはほとんど覚えていないのだが、ここが故郷の村よりもずっとずっと北にある寒冷地らしいことは想像が付く。

幸い深い洞窟のお陰で外の寒風は中まで入ってこないものの、それでもじっとしているのが辛い程度に気温は低いらしかった。

一体・・・ここは何処なのだろうか・・・?

それにあの雌竜は、どうしてあのまま僕を殺さなかったのだろう?

あの怪物がその気になれば、気を失った上に手の中に捕らわれていた僕の命を摘み取ることなど造作も無かったはず。

それが殺されていないばかりか特に何の拘束もされないまま独りで洞窟の中に転がされていたことで、僕はどうにも詳しい状況が今一つ理解出来ないでいた。


ドオォォン・・・

だがそんな疑問に首を捻っている内に、洞窟の外から重々しい何かが大地に降り立ったかのような大きな音と微かな震動が届いてくる。

きっと、何処かに出掛けていたあの雌竜が帰って来たのに違いない。

だが奥行きが深い割には特に入り組んでいるわけでもなさそうなこの洞窟の中では、何処かに隠れるわけにもいかないだろう。

それに・・・仮に無事に雌竜の目を盗んでここから逃げ出せたとしても、周りの状況も地理も全く分からないのではすぐにまたあの雌竜に捕まってしまうだろうことは容易に想像が付くというものだ。

ズシ・・・ズシ・・・

そして特に急いでいる様子も無く徐々に近付いてくる巨竜の足音に怯えていると、やがて薄明かりの中に洞窟の主がゆっくりと姿を現していた。


「ひっ・・・」

次の瞬間、光の下で間近から目の当たりにした余りにも凶悪な悪しき獣の姿に思わず引き攣った悲鳴が漏れてしまう。

まるで血のように赤い真紅の鱗を身に纏った、体高2メートル半はあろうかという凄まじい巨体。

目を合わせただけで体が凍り付いてしまうかのような、冷たい殺気を湛えた切れ長の双眸に収まる紺色の竜眼。

その巨大な体躯を宙に浮かせるのに十分過ぎる程の大気を煽る乳白色の翼膜を張った広大な翼に、翼膜と同じ色の柔らかそうな皮膜に覆われた、ふくよかに揺れる太鼓腹。

手足の先にはまるで刃かと見紛う程に鋭く研ぎ澄まされた長大な竜爪が生え伸びていて、つい先程朝食の獣でも仕留めて来たのかその数本に赤黒い血の跡がこびり付いていた。

そして凶悪な大小無数の牙がびっしりと隙間無く生え揃った恐ろしげな顎を微かに開いた雌竜が、目覚めていた僕の姿を目にしてそこからチロリと真っ赤な舌先を覗かせる。


「クフフ・・・お目覚めのようだねぇ・・・」

やがて底意地の悪い妖しげな笑みを浮かべたその雌竜の声を聞いた瞬間、僕はまるで腰が砕けたかのようにその場にへたり込んでしまっていた。

だ、駄目だ・・・今度こそ・・・僕は食い殺されるんだ・・・

強大な捕食者を前に逃げる術も抗う術も失った獲物にとって出来ることは、なるべく苦痛の少ない速やかな死が与えられることを天に祈ることだけ・・・

だが気を失った僕を生かしておいた以上、この雌竜には僕を楽に死なせてくれるつもりなど毛頭無いのだろう。

そしてその紺色の冷たい竜眼が微かに細められると、僕は恐怖に耐えるように力一杯両拳を握り締めたまま無慈悲な現実から逃避するべくギュッと両目をきつく瞑ったのだった。


ズシッ・・・ズシッ・・・

「っ・・・!」

やがて暗闇の中に酷くゆっくりに感じる雌竜の足音が聞こえると、それに呼応するかのように僕の心臓の鼓動までもが徐々に激しさを増していく。

僕は・・・あの凶悪な爪でズタズタに引き裂かれるのだろうか?

それとも、手足を1本1本食い千切られるのだろうか・・・?

昨夜初めてこの雌竜に出遭った時に生半可な抵抗を見せてしまったが故に、僕は彼女の歪んだ微笑の裏に僕に対する冷たい怒りが滲んでいることに気が付いていた。

ズシッ・・・

そして地面を踏み締める重々しい音が止んだことに疑問を感じて薄っすらと目を開けてみると、雌竜が正に僕の目と鼻の先で恐ろしい牙の並んだ口をまるで獲物に見せ付けるかのように大きく開けていた。


「う、うわあああっ・・・!」

その余りにも生理的な恐怖を煽る巨竜の赤黒い口内の様子に、ガサガサと這うようにして後退さってしまう。

だがすぐに固い岩壁が背中に当たってしまうと、僕はいよいよ逃げ場を失ってカチカチと歯を鳴らしながら震えることしか出来なくなってしまっていた。

どんなに大きな声で泣き叫んだとしても決して助けなど来るはずも無い深い山中の洞窟で、見上げるような巨竜に追い詰められた無力な獲物。

その絶望という表現さえ生温い自身の置かれている立場に、止め処無く溢れ出す熱い涙が僕の視界を曇らせていく。

た、助けて・・・

今にも声に出してしまいそうなその魂の叫びをか細い理性だけで押さえ込みながら、僕はハッハッと短い息を吐き出しながら雌竜の動向をただただ視界の端に捉え続けていた。

そしてそんな僕の見ている前で、雌竜が大きく息を吸い込んでいく。

タプタプと揺れる胸と腹が吸い込んだ空気でぷっくりと膨らみ、僕は彼女が火を吐くつもりなのだということを本能的に悟ってしまっていた。


ゴオオオッ!

「わああぁっ!!」

次の瞬間、凄まじい轟音とともに強烈な熱気が咄嗟に目を閉じた僕の全身を炙っていた。

だが激しい炎を浴びせられたにしては想像していた程の熱さや苦痛を感じなかったことに疑問を感じて目を開けると、寝床の傍にあった枯れ木の山がパチパチと音を立てながらまるで焚き火のように燃え上がっているのが目に入る。

そして相変わらず壁際に追い詰められたまま動けずにいた僕をジロリと睨み付けると、雌竜が無言のまま再び洞窟の外へと出て行ってしまっていた。


一体・・・これはどういうことなのだろう・・・?

さっきは絶対に殺されると思ったのに、どういうわけか彼女はまだすぐに僕を食うつもりではないらしい。

それにこの焚き火は・・・もしかして彼女がわざわざ僕の為に用意してくれたのだろうか・・・?

その全身から発する近寄り難い険に満ちた雰囲気のお陰で彼女にそれを問い質す勇気など僕には無かったものの、僕は取り敢えず大きく燃え上がる焚き火の傍に寄って何時の間にか冷え切っていたらしい体を温めていた。

とは言え、再び雌竜が戻ってきたら今度も命がある保証など何処にも無いこともまた事実。

それでも・・・僕は何故かもうここから逃げ出そうという気力を完全に打ち砕かれてしまっているらしかった。

村を焼かれ家族も知り合いも皆殺しにされた僕にはもう、この世界に居場所など何処にも存在しないのだろう。

どうして・・・こんなことに・・・

余りにも寂しい雌竜の住み処で何時殺されるとも知れない恐怖に怯えながらも、僕は温かい炎に身を翳すと先程までの恐怖とは別の涙に暮れたのだった。


それから、どれくらいの時間が経った頃だろうか・・・

天井から差し込んでくる日の光が少し強くなった感じから察するに、恐らくは今が丁度真昼時なのだろう。

幸い森で遊んだ経験が豊富だったお陰でそういう自然に対する感覚は比較的鋭かったものの、僕は同時に酷い空腹を感じていることにも気が付いてしまっていた。

考えてみれば、僕は昨日の昼からほとんど丸1日何も口にしていないのだ。

これまでは途切れることの無い修羅場の連続に空腹など感じている余裕が無かったのだろうが、グウグウと引っ切り無しに唸りを上げる腹がただでさえ弱り切っていた僕の心を更に痛め付けていく。

そして少しでも体力の消耗を抑えようと焚き火の傍にそっと体を横たえると、僕は何処からとも無くまた雌竜のゆっくりとした足音が聞こえて来たことに緊張の度合いを高めたのだった。


依然としてあの雌竜の真意は僕には分からないものの・・・

彼女との邂逅の度に殺されることに怯えなければならないこんな状況では、どんなに気丈な人間でもまともな精神状態が長くは続かないことなど火を見るより明らかだろう。

そんな生殺しのような生き地獄を味わわされるくらいなら、いっそのこと一思いに止めを刺してくれた方がどんなに気が楽だっただろうか・・・

だがそんな諦観とも自虐ともつかない荒み切った気分で住み処へと帰って来た雌竜を迎えると、僕はその手に小さな野兎が捕らえられていることに気が付いていた。

そして焚き火の傍にしゃがみ込んでいた僕を目にした彼女が、手にしていた野兎を無造作にこちらへ放り投げてくる。

ドサッ

「わっ・・・」

そんな余りにも突然の出来事に、僕は何とかそれを両手で受け取ることには成功したもののそのままバランスを失ってドスンとその場に尻餅を着いてしまっていた。


これは・・・僕にこの野兎を食えということなのだろうか・・・?

この状況から考えればそれ以外にはどうにも解釈のしようが無いのだが、相変わらず言葉少ななせいで何を考えているのか分からない彼女に思わず疑問の篭った視線を投げ掛けてしまう。

「さっさとそいつを食いな小僧・・・お前を食う時に、痩せこけちまってたら食いでが無くなるからねぇ・・・」

「ふ、ふざけないで!そんなことなら・・・こんなのいらない!」

だが精一杯の反抗のつもりで持っていた野兎を放り投げようとした瞬間、僕は雌竜の顔に浮かんでいた冷たい殺気に気が付いて全身を凍り付かせていた。

「グルルル・・・」

「あ・・・ぅ・・・」

更には耳にしただけで心臓が止まりそうな程に恐ろしい唸り声が聞こえてくると、ゴクリと息を呑みながら自らの身を護るように野兎を両腕で抱えてしまう。

「フン・・・産まれたことを後悔する程の恐ろしい死に方をしたくなけりゃ、あたしの手を煩わせるんじゃないよ」

そしてそんな駄目押しの脅し文句を叩き付けられると、僕はそのまま自身の寝床の上で蹲った雌竜にじっと監視されながら震える手で野兎を焚き火の炎にくべたのだった。


グウウゥ・・・

雌竜の目的やその経緯はどうであれ、食べられる物を手に入れられた故なのかそれまでずっと沈黙だけは保ってきた空腹の腹がここぞとばかりに大きな唸りを上げる。

それが恐らくは背後の雌竜にも聞こえてしまっただろうことに激しい悔しさを感じながらも、僕はしばらくして美味しそうに焼き上がった食事にゆっくりと噛り付いていた。

モグ・・・ムシャ・・・ムシャムシャ・・・

「う・・・うぅ・・・」

ある日突然家族も故郷も理不尽に奪われただけでも耐え難いというのに・・・

近い将来食い殺される為だけに自らを肥え太らせられるというまるで食用の家畜のような余りにも屈辱的な境遇を強いられて、僕は夢中で美味しい肉を頬張りながらも両目からはボロボロと悔し涙を流していた。

もうどうせ助からないだろうと頭では分かっているのに、生物としての本能故にあの雌竜の恐ろしさにどうしても逆らえないでいる自分が堪らなく恨めしく感じてしまう。

これを食べたら、今度は一体何をされるのだろうか・・・

人間としての尊厳のようなものを少しずつ削り取られていくかのような雌竜の惨い仕打ちに、僕は溢れ出す涙を塩味にして残酷なまでに美味しい食事をただただ貪り続けたのだった。


ゴクッ・・・

自分でも思った以上にお腹が空いていたのか・・・やがて小さな野兎をほとんど食べ尽くしてしまうと、僕は束の間の休息が終わりを迎えてしまったことに半ば絶望しながら涙に暮れた顔を背後の雌竜へと向けていた。

「た・・・食べたよ・・・」

そんな僕の言葉を聞いて、雌竜がその紺色の竜眼を微かに細めたらしい様子が目に入ってくる。

きっと彼女は・・・従順に自分の言うことを聞く僕の姿に満足してほくそ笑んでいるのだろう。

くそ・・・何時か・・・僕の手でこいつを殺してやる・・・

それが決して叶わぬ夢であることは自分でも重々承知していたものの、そうでも考えなければ僕は滅茶苦茶に暴れ狂う自身の感情を表に出さずに耐え続けることなど出来なかったのだった。


ズッ・・・

やがて内心の激情とは裏腹に怯えた目で雌竜を見つめていると、彼女がゆっくりと横たえていた巨体を持ち上げる。

そして相変わらず不気味な微笑を浮かべたままこちらに近付いてくると、僕はまたしても恐ろしい彼女の巨掌で体を掴み上げられていた。

ガシッ!

「ひっ・・・」

つい今し方僕の為の食料を取って来たのだからすぐに殺されるということは無いのかも知れないが、その気になれば人間など事も無げに握り潰せるのだろう巨竜の手の中で僕は必死に悲鳴を堪えていた。

だがそんなおとなしい獲物の姿をしばらくしげしげと眺め回すと、突然彼女が僕を掴み上げたまま洞窟の外へと歩き始める。


彼女は僕を・・・何処かへ連れて行くつもりなのだろうか・・・?

特に苦痛を感じる程強くは握られていないお陰でまだ多少の冷静さは保てていたものの、僕は次々と降り掛かる修羅場の連続に心の方は早くもすっかりと磨り減ってしまっていたのだろう。

そして半ば虚ろな表情を浮かべたまま雌竜の成すがままに身を任せていると、僕はやがて目の前に広がった明るみの中で見る外の景色にただただ絶望の色を深めていた。

そこにあったのは、何処までも何処までも延々と地平の彼方まで続いている深い針葉樹の森。

空だけは恨めしい程にすっきりと晴れ渡っていたものの、見渡す限りの険しい樹海の様子にここが本当に人里離れた辺境の地なのであることを否応無しに理解させられてしまう。

"ここから逃げようとしても無駄だよ・・・"

そんな雌竜の声無き囁きが聞こえた気がして、僕は諦観の滲んだ大きな息を吐き出していた。

だがどうやら雌竜が僕に見せたかったのはそれとは別の物だったらしく、静かに洞窟を出た彼女が少しばかり広く開いた木々の間を西の方角へと進んで行く。


「あっ・・・」

やがて洞窟を出てから数分程歩くと、僕はそこに綺麗な川が流れているのを見つけていた。

川幅は10メートル近くもあるが流れは比較的緩やかで水深も浅く、どちらかというと渓流といった趣に近いようだ。

山頂近くで湧き出している清水が流れているのか、くっきりと底が見える透明な水が食事を終えて喉の渇いていた僕に対して悪魔的なまでの魅力を振り撒いている。

彼女はきっと、僕にこの"水場"を見せたかったのだろう。

そしてそれは同時に・・・僕をまだしばらくは生かしておいてやるという彼女の明確な意思表示に他ならなかった。

生憎と面と向かって彼女にその真意を訊ねられるだけの勇気が今の僕には無かったのだが、わざわざ聞かなくても大体彼女の思惑は想像が付く。

今でさえ夜は凍えそうな程の寒さなのだから、もう間も無く本格的な冬が訪れればこの辺りにはきっと沢山の雪が降り積もるのに違いない。

そうなれば森に棲む獣達は今よりも格段に捕らえ難くなるだろうから、恐らく彼女は獲物が手に入らなかった時に僕を非常食にでもするつもりなのだろう。


何時か食う時の為にと半ば強制的に野兎を食べさせられた時から薄々勘付いてはいたものの、僕はいよいよもって完全に彼女の家畜にされているのだという事実に打ちのめされてしまっていた。

ドサッ

「あうっ・・・」

やがて水を飲めとでも言わんばかりに雌竜から乱暴に川の畔へ放り投げられると、全体的に丸みを帯びているとは言え固い石に覆われた地面に背中を打ち付けた痛みに呻いてしまう。

だが彼女の手を煩わせればそれだけで何時殺されてしまってもおかしくないだけに、僕は痛みを堪えて起き上がると川岸にしゃがみ込んで冷たい水を両手で掬っていた。

んっ・・・ごく・・・ごく・・・

透き通った山の清水の残酷なまでの美味しさに、またしても辱められた人間としての尊厳が血の涙を流していく。

そしてたっぷりと喉を潤すと、僕は再び無造作に掴み上げられて住み処の洞窟へと運ばれたのだった。


ドスッ

「うぐ・・・」

もう既に雌竜からぞんざいに扱われることには多少慣れ始めていたものの、予想通り住み処の寝床の上に背中から投げ落とされて全身に走った鈍い痛みに思わず歯を食い縛ってしまう。

そしてそんな僕のすぐ傍に自身もでっぷりと太った巨体を沈めると、彼女が大きな手で僕の体を自分の腹に押さえ付けながら静かに目を閉じていた。

まだ時間は昼を少し回った頃だから、きっとこれから昼寝でもするつもりなのだろう。

狩りで外へ出掛けている時は仮に僕が洞窟から逃げ出してもすぐに捕らえることが出来ると考えているのだろうが、流石に眠っている間は僕が逃げ出さないように掴まえておきたいということか・・・

まあ、取り敢えず今のところはこれ以上恐ろしい目に遭わされないというのであれば僕にとって悪い話ではない。

そしてプニプニと妙に触り心地の良い雌竜のお腹に体を押し付けると、僕は何だかぐったりと疲れ切った心身を休めるように深くて長い息を吐き出したのだった。


それからまた数時間が経った頃・・・

僕はのそりと動いた雌竜の気配にハッと目を覚ますと、まるで自分が寝ている間に僕が妙な考えを起こしていなかったか疑うかのようにじっとこちらを睨み付けていた彼女と思わず間近から見詰め合っていた。

「うっ・・・」

だが緊張の糸がピンと張り詰めた空間にしばしの静寂と沈黙が流れると、やがて僕を寝床の上に残したまま体を起こした雌竜が何も言わずにドスッドスッという荒々しい足音を響かせて洞窟を出て行ってしまう。

「・・・はあああぁ・・・」

本当に・・・あの雌竜は一体何を考えているのだろうか・・・

深い安堵の滲んだ長い息を吐き出しながら、僕はまだ温かい寝床に再び横たわるとそんな疑問に頭を悩ませていた。


今のところは時折僕を脅すことはあっても実際に痛め付けたりしてくるような気配は無いのだが、あいつは大勢の人間達の命を奪うことに何の抵抗も感じないどころか、寧ろ嬉々としてその爪牙を振るうような凶暴な雌竜なのだ。

そんな危険極まりない怪物が、文字通りただの石潰しでしかない僕を何時までも意味も無く生かしておくなどということが果たして有り得るのだろうか・・・?

或いはもしかしたら敢えて手を出さないことで僕がそんな疑心暗鬼に陥って自ら疲弊していく様を愉しんでいるだけなのかも知れないのだが、何れにしても僕に出来るのは可能な限りあの雌竜を刺激しないようにすることだけ。

少しでも彼女の意に沿わない素振りを見せてしまったら、それが恐らくは僕の最期になるのに違いない。

だがそうは言っても、恐らくは本日2度目の狩りに出掛けたのだろう今のように常時僕を監視しているわけではないあの雌竜が実際問題として僕に一体どの程度までの自由を許すつもりなのかは予め確認しておく必要がある。

僕にわざわざ川のある場所を確認させたことから考えても、恐らく多少の外出くらいには目を瞑ってくれるはず・・・


僕はそんな思いにもう1度深い溜息を吐き出すと、そっと体を起こして洞窟の入口へと歩いて行った。

そして夕焼けの朱に染まった空の下に広がる物悲しい雰囲気に満ちた森を恐る恐る眺め回してみたものの、思った通り何処かからあの雌竜が僕を監視しているような気配は微塵も感じられない。

やはりこの様子なら、少しくらいは洞窟を離れても問題は無さそうだ。

僕はその事実にほんの少しだけ暗く沈んでいた気を取り直すと、今は取り敢えず焚き火にくべる為の枯れ木を集めておくことにした。

朝からずっと燃え続けていたせいか洞内の焚き火はもう火勢もかなり弱っていて、このまま放っておけば後数時間もしない内に消えてしまいそうだったからだ。

そうなればもしかしたらまたあの雌竜が森から枯れ木を持って来て火を点けるつもりだったのかも知れないが、そんな小さな負担が幾度も積み重なれば何時しかそれが僕に対する殺意へと変わってしまう可能性は否定出来ない。

流石にこの状況では食べ物に関してだけはあいつから与えられる物に依存せざるを得ないだろうが、少なくとも僕に痩せ細って欲しくない彼女の思惑を考えれば"飯抜き"の憂き目に遭う心配はしなくても良いだろう。

僕はそう思って緊張に高鳴る胸を押さえながらそっと森の中へ飛び込むと、薪に使えそうな乾いた木の枝を両手一杯に抱えて洞窟へと戻ったのだった。


パチ・・・パチパチ・・・ピチッ・・・

乾いた生木が爆ぜる音を聞きながら薪をくべ続けてようやく弱っていた炎を再び大きくすることに成功した頃・・・

僕は洞窟の外から響いてきた雌竜の足音に気付いて少しばかり心臓の鼓動を早めていた。

まだ焚き火の傍にはくべられずに残っている木の枝が十数本程も残っていて、この状況を見れば僕が彼女の留守中に勝手に住み処を抜け出したことは一目瞭然だ。

だが今更慌てて証拠隠滅を図ったところで、元々僕に対して片時も警戒心を切らす様子が無い彼女ならそんな僕の不審な様子などあっさりと見抜くのに違いない。

それならばいっそ、"無断で外出はしたがまたここへ戻って来た"という事実を彼女にもはっきりと認識させた方がまだ状況はマシというものだろう。

そしていよいよ昼間と同じように今度は猪の子供を捕まえて来たらしい雌竜が姿を現すと、僕はその鋭い視線が焚き火の傍に置いてある枯れ木の束へと移動した瞬間を目にしてゴクリと息を呑んでいた。


ズシッ・・・

「っ・・・!」

やがてそれが何を意味するのかを読み取ったらしい雌竜が、無言のまま僕の方へ更に重々しい1歩を踏み出してくる。

そして手に持っていた小さな獲物の脚を左右の手で掴むと、彼女がそれをいきなり僕の前で左右に引き裂いていた。

バリバリッ!ブチッ!

「ひっ・・・!」

更には凄まじい膂力で力任せにもぎ取られた猪の脚をドサッと僕の目の前の地面に放ると、体の方に残っていたもう1本の脚も同じようにして彼女が無造作に引き千切る。

そうして僕の方へ比較的肉付きの良い猪の足を2本寄越すと、無惨な傷口から真っ赤な血を滴らせていた獲物の残骸を雌竜がパクリと一口で口内に咥え込んでいた。


バグッ・・・グシッ・・・メシャッ・・・

「は・・・ぁ・・・」

そして憐れな餌を粉々に噛み砕く豪快な咀嚼音を周囲に響かせると、彼女が僕の無断外出の件には触れないまま自身の寝床へと舞い戻る。

やはり・・・少しばかり奇妙なことではあるのだが、彼女は僕が多少出掛けることくらいは黙認してくれるらしい。

だとすれば、慎重に機会さえ窺えば彼女の目を盗んで何とかここから逃げ出すことも出来ることだろう。

ただ問題があるとすれば、仮に雌竜に気付かれずにここから逃げ出せたとしても今の僕にはもう何処にも行く当てが無いということだった。


メキ・・・ミシ・・・ギシィッ・・・

「うわあああっ・・・!」

まるで鋼のように硬い真紅の鱗に覆われた雌竜の太くて長い尾が、着ていた服を残らず切り刻まれ毟り取られてしまった余りにも無防備な裸の体へ直に食い込んでいく。

下半身へ幾重にも巻き付けられた竜尾がじっくりと万力のように引き絞られる度に、僕は想像を絶する程の苦痛に甲高い苦悶の悲鳴を迸らせていた。

メリ・・・ゴキッボギィッ・・・

「かはっ・・・」

やがて両足の骨が無残に砕け散り、気が遠くなるような激痛が全身に跳ね回っていく。

必死に凶悪な真紅のとぐろを引き剥がそうと両腕に力を入れてみるものの、雌竜はそんな獲物の空しい悪足掻きを冷たい微笑を浮かべて眺めながらなおも折れ砕けた僕の足を締め上げていった。


グギッ・・・ベギ・・・

「ああぁっ!」

膝から下に続いて今度は腿の骨が弾け飛び、地獄の苦しみが更に加速して行く。

だがどんなに激しく泣き叫ぼうとも、この凶悪な雌竜が僕に情けを掛けてくれる可能性は絶無だった。

シュル・・・シュルル・・・

「はぁっ・・・あ・・・」

やがて自らの歯を噛み砕かんばかりに食い縛った僕の苦悶の叫びを更に絞り出そうと、雌竜が尻尾のとぐろから飛び出していた僕の上半身にまで太い尾の先を巻き付けていく。

「や・・・止め・・・て・・・」

そして両手をとぐろの外に飛び出させたまま肩口の辺りまで屈強な竜尾にグルグル巻きにされてしまうと、間髪入れずに今度は恐ろしい圧迫感が上半身へと襲い掛かってきた。


ギリッ・・・ミシィ・・・

「うあっ・・・が・・・ぁ・・・」

苦痛に喘ぎながらも呼吸だけには不自由しなかった先程までとは違い、両腕ごと肺を直接締め上げられる無慈悲な息苦しさが徐々にその苛烈さを増していく。

ギッ・・・ゴキッ・・・

「ぐあああっ!」

まずは細い両腕の骨が圧し折られ、それに続いて胸骨までもがギシギシと頼りない軋みを上げて歪んでいく。

た、助けて・・・助け・・・

メキャッ・・・!

「あっ・・・」

そして一頻り力強く尾を引き絞られると、僕は何かが潰れたような嫌な音と感触が未曾有の苦痛と共に全神経を侵していく絶望的な感触に擦れた声を漏らしたのだった。


シュルル・・・

「う・・・ぁ・・・はぁ・・・」

やがて全身を容赦無く締め上げていた雌竜の尾が少しばかり緩められると、僕は何処かの内臓でも潰れたのか口の端からトロリとドス黒い血を吐き出しながら今にも消え入りそうな程にか細い呼吸を紡ぐことしか出来なかった。

「おやおや・・・まだ息があるとは驚いたねぇ・・・」

そう言いながら、雌竜が虫の息に喘ぐ僕の顔を鋭く尖った指先の爪でゆっくりと掬い上げる。

「さっさとくたばってた方がまだ幸せだったっていうのに、お前もつくづく不運な小僧さね・・・クフフフ・・・」

そしてもう焦点の定まっていない虚ろな目で中空を見つめていた僕の様子に微かな含み笑いを漏らすと、雌竜がゆっくりと僕に巻き付けた尻尾のとぐろを大きく頭上へと持ち上げていった。

そして上下逆さまにされた僕の眼前で、彼女が大きな顎をゆっくりと開いていく。


「あ・・・あぁ・・・」

こいつは・・・まだ辛うじて息がある僕を生きたまま丸呑みにするつもりなのだ。

僕はその恐ろしい事実に気付いて思わず本能的に体を捩ったものの、粉々に締め砕かれた全身の骨が耐え難い激痛を生み出した以外に何1つ成果などあるはずも無く・・・

やがて大きく開けられた赤黒い巨口の中へ成す術も無く滑り落とされていく感覚を味わいながら、限界を迎えた恐怖と悔しさが両目から大粒の涙となって溢れ出していく。

ズッ・・・ズリュ・・・ング・・・

「い・・・やだ・・・う、うわあああぁっ・・・!」

そしてついに緩んだ尻尾のとぐろから雌竜の口内へ何の抵抗も無く流し込まれると、僕はバクンという音と共に最早永遠に開かれることの無い巨大な顎が閉じた気配に意識を失ったのだった。


「うわあああああっ!」

次の瞬間、僕は盛大な悲鳴を上げながら飛び起きるとそれに気付いた雌竜の大きな手で逃げられないようにグギュッと彼女の柔らかな腹へきつく押さえ付けられていた。

「あぅ・・・」

そしてようやく今まで見ていた光景がただの夢だったことに気が付いて周囲を見回すと、静かな夜の眠りを妨げられて些か不機嫌そうな表情を浮かべた雌竜がジロリと僕をその紺色の竜眼で睨み付けている。

「何だい突然に・・・騒々しいねぇ・・・」

「う・・・うぅ・・・」

だが僕はとても夢だとは思えない程にリアルだった先程の修羅場を思い出すと、何とか気分を落ち着けようと深く息を吸い込んではそれを断続的に吐き出していた。

それを見て彼女も僕がただ恐ろしい夢に魘されただけだということに思い至ったのか、特に何も言わずに再び目を閉じて眠りに就いてくれたらしい。

とは言え・・・夢で見たあの思い返すだけでも身震いするような惨劇の光景が決してただの幻の中での出来事ではないことを知っているだけに、僕は再び眠りに就くまでに随分と長い時間を要してしまったのだった。


次の日の朝・・・

僕は寝ている間中ずっと顔を押し付けていたらしいフカフカと心地良い雌竜の腹が微かに動いた気配で目を覚ますと、昨夜のこともあって恐る恐る彼女の顔へと視線を振り向けていた。

そしてやはり思考の読めない紺色の竜眼と一瞬だけ見つめ合うと、朝の狩りに出掛けるのだろう彼女が僕をそっと押し退けて荒い足音を響かせながら洞窟から出て行ってしまう。

「ふぅ・・・」

昨夜はあの雌竜に散々に痛め付けられて生きたまま暗い腹の底へ呑まれるなどという恐ろしい夢を見たせいで夜中に飛び起きてしまい、夢の中の彼女に勝るとも劣らない冷たい殺気の滲んだ視線を突き刺されたものだった。

あの時は正直に言って殺されることを半ば覚悟したのだが、彼女にも僕の事情を理解するだけの理性があったのか、それとも単純にあの時は眠気の方が勝っていただけなのか、何れにしろ僕はまだこうして生かされているらしい。

だがあの夢で見た恐ろしげな光景は、もしかしたら今日にでも実際に僕の身に起こるかも知れない出来事なのだ。


やがて独りになった洞窟の中であれこれ考えながらもやっとのことで気持ちの整理を付けることに成功すると、僕は取り敢えず今日も焚き火にくべる為の枯れ木集めから始めることにした。

昨日両手一杯に拾ってきたはずの木の枝はたった1日でもう底を突いてしまったから、恐らくこれからは焚き火を維持する為の薪拾いが僕の日課になるのだろう。

それに、出来ることなら外出中に食料となる野兎辺りでも捕まえられれば御の字というものだ。

昨日食べた猪の味は確かに美味しかったのだが、彼女に僕を飢えさせるつもりが無くても毎回狩りの度に小動物を捕まえられるとは限らないわけだから食料も自分で確保出来るに越したことは無い。

お父さんが猟師だったお陰で獣の肉を食べることには全くと言って良い程に抵抗が無いのが救いだったものの、毎日命の危険を感じながら苛酷なサバイバル生活を強要されるという境遇に僕はギュッと拳を握り締めていた。


バラバラバラッ・・・

「よし・・・枯れ枝はこのくらいあれば、しばらくの間は持つかな・・・」

僕は冷たい風の吹き抜ける深い森の中をあちこち歩き回りながら都合4度も洞窟へ木の枝を持ち帰ると、目の前に出来上がったこんもりとした薪の山に満足して疲れた体を焚き火の傍へと沈み込ませていた。

生憎と食べ物に関しては野兎どころか木の実の1つも見つからなかったものの、あの雌竜にしたってこの洞窟の近くで狩りに勤しんでいるとは限らないだけにもしかしたらこの辺り一体は元々食料が乏しい土地なのかも知れない。

そしてそんなことを考えている内に雌竜が洞窟へ帰って来たらしい気配を感じ取ると、僕は何時ものように緊張の面持ちを浮かべながら洞窟の主の帰りを出迎えていた。

そしてその背中に大きな雄鹿の亡骸が背負われているのを目にすると、彼女が今日も無事に獲物を捕らえられたことに思わず安堵してしまう。


だが昨日のようにまた脚でも引き千切ってくれるのかと待っていると、彼女がおもむろにその鹿を僕の前にそのまま放り投げていた。

ドサッ・・・

「それが今日の飯だよ・・・夜の分は無いから、そいつを2度に分けて食いな」

「え・・・?」

夜の分は無いだって・・・?

それじゃあ、彼女は今日の夕方は狩りには出掛けないということなのだろうか?

まあ僕としては1人で食べるには十分過ぎる程の食料が手に入ったのだから、特にそのことに対して不満があるわけではなかったのだが・・・

そして早くも寝床の上で昼寝の体勢に入った雌竜の急かすような視線を感じながら何とかもぎ取ることが出来た鹿の脚を焚き火で焼くと、僕はそれを急いで食べ上げて彼女の許へと駆け寄ったのだった。


長い呼吸の度に大きく収縮する、餅のように柔らかな雌竜の腹。

鋼鉄の如き硬度を誇る竜鱗とは余りに対照的なその極上の触り心地に身を預けながら、僕は眠りに就いた雌竜の横で彼女の真意に思いを馳せていた。

寝ている間に僕が逃げないようにと相変わらず彼女の巨腕が僕の体をがっちり包み込んではいるものの、刃のように研ぎ澄まされたその鋭爪は僕の体に触れぬよう自身の腹に押し付けられている。

それもこれも"保存食"としての僕を必要以上に傷付けない為の措置でしかないと言えばそれまでなのだが、ここへ連れて来られた当初はすぐに殺されるものと思っていたことを考えればこの彼女の行動は些か不可解に思えてしまう。

それに昨夜悪夢に魘されて目を覚ました時も、彼女は不機嫌そうに僕を睨み付けはしたものの結局それに対しては特に何の制裁もせずに再び眠りに就いたのだ。

今後のことを考えれば脅し文句の1つや2つくらい浴びせ掛けられてもおかしくはない状況だっただけに、ますます彼女の中に何らかの心変わりが生じているのではという疑念が湧き上がってきてしまう。

尤も、仮にそれが事実だったところで彼女は絶対に僕にそれを明かすようなことはしないのだろうけど・・・


やがて天井の隙間から差し込んでいた陽光が少しばかり陰りを帯び始めた頃、昼寝から目を覚ました雌竜は僕の姿を一瞥するとまたしても何処かへと出掛けていった。

必要な時意外は寝る時も起きた時も特に声を発することがほとんど無いせいで、彼女が僕に対して一体どんな感情を抱いているのか分からないのが少しばかり不安だったのは確かだろう。

それでも今のところ夢の中を除けば特に彼女に命を脅かされた覚えも無いだけに、ほんの少しだけ僕の中で彼女に対する恐れと警戒心が緩み始めているような気がする。

だが両親や村の人達を無残に皆殺しにしたあの凶行を思い出すと、僕は次々と溢れ出す静かな怒りに胸の底へこびり付いていた復讐の決意を新たにしたのだった。


パチパチ・・・パチ・・・

それから数時間が経ち、もう天井から差し込んでいた微かな陽光も夕焼けを通り越して闇に飲まれてしまった頃・・・

僕は昼間残しておいた鹿の肉を焚き火で焼きながら、まだ戻って来る気配の無い雌竜の帰りを静かに待っていた。

夜の分の食料は獲って来ないということだったから僕はてっきり今日はもう狩りに出掛けないという意味に捉えていたのだが、こうして出掛けて行った以上は彼女にも何かしらの用事があったのだろう。

だがお腹が一杯になった後も待てど暮らせど雌竜が帰って来る様子は無く、僕は仕方無く彼女の寝床ではなく暖かい焚き火の傍にゴロリと転がっていた。

時折枯れ木の弾けるパチパチという破裂音が聞こえる以外には、しんとした静寂が洞内を押し包んでいる。


あの雌竜は、一体何処へ行ったのだろうか・・・?

何時もは彼女が戻って来る度に今度こそ殺されてしまうのではないかという不安に駆られるというのに、いざ帰りが遅いとそれはそれで落ち着かないのは結局のところ僕はあの雌竜以上に孤独が恐ろしかったのだろう。

最早誰の声も聞こえず生きて動くものも見当たらなくなってしまったあの壊滅した村の中を歩いていた時のように、まるでこの世界に独りぼっちで取り残されてしまったかのような寂寥感が胸を締め付けてくる。

正確な時刻はここでは分からないものの、恐らくはもう深夜と呼んでも差し支えの無い時分だろう。


だがもう雌竜を待つのにも疲れて唐突に押し寄せてきた睡魔の大群に飲み込まれそうになった頃・・・

僕は突然ドオオォンという重々しい音と地響きが洞窟の外から伝わって来たことに気付いて目を開けていた。

そして徐々に近付いてくる断続的な足音に耳を澄ませていると、やがて大きく膨れた腹を左右に揺らした巨大な雌竜が僕の前にその姿を見せる。

だがぼんやりとした焚き火の炎に照らされた彼女の体には・・・

その所々に恐らくは人間のものと思しき無数の血がこびり付いていた。

更には両手足の爪先にも夥しい程の深紅の染みが浮かび上がっていて、彼女が今の今まで何をしていたのかが僕にもこれ以上ない程にはっきりと理解出来てしまう。

「クフフフ・・・小僧・・・待たせちまったかい?」

「あ・・・ぅ・・・」

心底満足げな笑みを浮かべた彼女は、また何処かの人里を襲って大勢の人間達を思うがままに蹂躙してきたのだろう。

そして狂気に満ちた殺戮の宴を十二分に愉しみながら、彼女にとって大好物の"食事"に舌鼓を打ったのに違いない。

今からほんの2日前に、僕の故郷の村をそうしたように・・・


「また・・・何処かを襲ってきたの・・・?」

「ああそうさ・・・何か文句でもあるのかい・・・?」

そう言いながら、雌竜がまだ血に濡れていた自身の手をペロリと舐め上げる。

「恐怖に泣き叫んで逃げ惑う人間の味は、あたしにとっては格別だからねぇ・・・クフフフフ・・・」

だが僕の顔に浮かんでいた恐怖と怒りが綯い交ぜになった複雑な表情を目にした途端、彼女はフンと小さく鼻息を吐いて自身の寝床へとその巨体を横たえていた。

そして早くこちらへ来いと言わんばかりの鋭い視線を突き刺されると、今はまだ上々らしい彼女の機嫌を損ねない内に慌ててそのもっちりとした温かい腹へと体を押し付ける。

しかし分厚い皮膜と脂肪を隔てたその腹の中に今日は大勢の人間の亡骸が詰め込まれているのだという事実に、僕は彼女に抱き抱えられた体をブルブルと震わせずにはいられなかったのだった。


何時かこいつを殺してやりたい・・・

そんな勇ましい殺意は幾らでも胸の内へ湧いてくるというのに、人間など単なる食料としか看做していないような余りにも強大な怪物を前に僕はただ怯えて縮こまっているばかり。

もちろん彼女の不興を買えばそれだけで命が無いという危うい立場なのだからそれはある程度仕方が無いとしても、戦うことも逃げることも出来ないのでは彼女にとって僕の存在など結局のところただの家畜でしかないのだろう。

そんな余りにも情けない自身の姿を見つめ直す度に、例えようもない悔しさだけが際限無く降り積もっていく。

そしてふんわりと辺りに漂うつんと鼻を突く微かな血の臭いを嗅ぎながら目を閉じると、僕は取り敢えず今日も無事に1日を終えられたことにだけは感謝の念を覚えたのだった。


日に日に忍び寄ってくるような気がする不穏な死の足音に内心怯えながらも、僕と凶暴な雌竜との奇妙な共生生活はそれからも特に変わることなく続いていた。

彼女は週に1度か2度くらいの頻度で何処かの人里を襲いに遠出することがあるのだが、そんな時は毎回必ず朝夕2回の食事には十分過ぎる程の獲物を置いていってくれるお陰で僕は今のところ空腹に悩まされた記憶が無い。

それに僕が時折悪夢に魘されて夜中に飛び起きてしまうのにももう慣れたのか、彼女は僕を捕まえた手に力は込めつつもそのまま目を開けることもなく朝まで眠り続けるようになっていた。


やがて初めてこの洞窟に連れて来られてから3週間が過ぎた頃・・・

何時も通り雌竜が朝の狩りに出掛けている間に森で焚き火の為の薪を拾い集めていた僕は、ふと首筋に冷たい感触が走ったことに気付いてどんよりと曇った空を見上げていた。

「あ・・・雪だ・・・」

故郷の村より遥かな北方に位置するこの針葉樹の森を目にした時から半ば予想はしていたものの、やはりこの辺りは本格的な冬が訪れれば深い雪が降り積もる寒さの厳しい寒冷地なのだろう。

そしてそれは同時に、あの雌竜も野生の獣を捕らえるのがこれまでよりも格段に難しくなるということでもある。

もし彼女が、狩りで獲物を獲って来ることが出来なくなってしまったとしたら・・・

毎日獣の肉主体のたんぱく質豊富な食事をしながら森の中をあちこち走り回っていたお陰で、僕は彼女の思惑通りたっぷりと"食いで"のある丈夫で筋肉質な体になってしまった自身の姿を目にして小さな溜息を吐いてしまっていた。


もうすぐ・・・僕は彼女に食い殺されるのだろうか・・・

この3週間余りの間は毎日あの雌竜と1つ屋根の下に暮らしていながらお互いに言葉を交わすことはほとんど無く、僕は何時も無言のまま浴びせられる彼女からの要求を孕んだ重圧に必死に応え続けてきた。

そうしなければ自分の命が無いというある種の強迫観念がずっと僕の中にあったことは確かなのだが、結局はそれさえもが決して実を結ばぬ空しい一時の延命措置にしかならないということなのだろう。

だがそんな暗い先行きが目に見えていたとしても・・・

今の僕にはもう、あの暗い洞窟へと帰る以外の選択肢など何1つとして残されてはいなかったのだった。


それからしばらくして・・・

僕は雪が降り始めたせいか以前よりも明らかに寒さの増した洞窟の中で、煌々と燃え盛る暖かい焚き火に身を翳しながら雌竜の帰りを待っていた。

ズシッ・・・ズシッ・・・

そしていよいよ外から彼女の足音が聞こえてくると、何時も以上に不安な面持ちを浮かべながらやがて姿を現した巨竜へと視線を振り向けてしまう。

だがその彼女の手に僕の為の食事だろう小柄な狐が捕らえられていた様子を目にすると、僕は彼女に気付かれないように深い安堵の息を漏らしていた。

助かった・・・

しかし今日はたまたま収穫があったものの、明日も明後日もそんな幸運が続く保証など何処にもありはしないのだ。

彼女だけなら仮に数日くらい獲物が見つからなくても多少の飢えを凌ぐことは出来るかも知れないが、僕の方は食事を摂れない日が3日も続けば酷く衰弱してしまうのに違いない。

ただでさえ冬場の獲物は貴重なのだから、僕の食事の為に余計な労力を割くくらいならいっそこの僕を食ってしまった方が遥かに楽で効率的なことは彼女にも分かっているはず・・・

だがもしかしたらそんな不穏な思惑を抱いているかも知れない雌竜と目を合わせるのが恐ろしくて、僕はこちらに放り投げられた狐を受け取ると感情を読み取られないように彼女に背を向けてその肉を焼き始めたのだった。


その日の夜・・・

僕は何時ものように一足先に眠りに就いた雌竜の温かな腹に身を寄せながら、今も休むことなくしんしんと降り続けているらしい外の雪の様子に意識を振り向けていた。

辺り一面が雪で覆われてしまえば、もう焚き火の為の薪を探すことさえ難しくなってしまうのに違いない。

雌竜の体を除いてこの洞内で唯一の熱源である焚き火がもし消えてしまったとしたら、それだけでも他に寒さを凌ぐ術の無い僕には致命的というものだ。

だとすれば結局のところ僕に残された運命は凍死か、或いは餓死か、そうでなければ腹を空かせたこの雌竜に食い殺されるかの何れか結末しかないのだろう。

そんな考えれば考える程に絶望的な暗雲に沈んでいく自身の未来を憂いながら、僕は先程から大きな寝息を立てている雌竜を起こさないようにグッと歯を食い縛ったまま静かに涙を溢したのだった。


「そ、そんな・・・」

その翌朝・・・僕は何時もと同じく狩りに出掛けた雌竜を見送ると、洞窟の外に広がっていた一面の雪景色を目の当たりにして落胆の滲んだ声を漏らしていた。

今はもう雪が止んでいたものの、昨日1日降り続けたせいかたった一晩で優に数十センチも積もってしまったらしい。

森の中程の方は木々の梢に遮られたお陰で多少積雪は少ないように見えるのだが、何れにしてもこれでは枯れ木を集める作業が随分と難航するだろうことは容易に想像が付く。

だが火を絶やせば雌竜が帰って来るより先に自分の身が凍えてしまうかも知れないだけに、僕は既に冷たくなり掛けていた両手に暖かい息を吐き掛けると深い雪の中へと足を踏み入れていった。


パキ・・・ペキッ・・・

「ああ・・・これも駄目だ・・・」

試しに手の届く範囲に伸びている木々の枝を何本か折り取ってはみたものの、そのどれもが昨日の雪の影響でしんなりと湿ってしまっている。

これでは焚き火にくべたところですぐには火が付かないだろうし、下手をすれば水分が弾けて薪床が崩れてしまう可能性さえあるだろう。

運良く乾いているらしい木の枝も一応何本かは手に入ったものの、こんなに少量では今日1日焚き火の炎が持つかどうかも甚だ怪しいものだった。

仕方無い・・・そろそろ手も悴んできたことだし、取り敢えず一旦洞窟へ戻ろうか・・・

僕はそう思って何とか見つけた枝の束を片手で抱え上げると、足を取られる雪の中を1歩1歩洞窟へと進んだのだった。


パチパチ・・・パンッ・・・ピチッ・・・

やはり乾いているとは言っても比較的水分を多く含んだ枝を入れたせいか、薪の弾ける音が普段よりも激しく感じてしまう。

それに、心なしか立ち昇る炎にも勢いが乏しいようだ。

早く、彼女が帰って来てくれないだろうか・・・

これまであの雌竜の帰還は僕にとって生死の審判を下される瞬間の訪れであり恐怖の対象でしかなかったというのに、今の僕はどういうわけか純粋に彼女の帰りを心の底から待ち望んでいた。

現実的に目の前に迫って来た凍て付く寒さに対する恐れが、3週間以上も共に暮らしてもなお読み取ることの出来なかった彼女の僕に対する真意への恐れをついに上回ってしまったのだろう。


やがて手元に残っていた枯れ枝を全て焚き火に放り込んでしばらく経った頃・・・

僕は何時もより聞こえてくるのが1時間程遅かった雌竜の足音に気付いてふと顔を上げていた。

そして今回もその手に小さな鹿の子供が捕らえられていた様子に、今度は彼女に隠すこともなく長い安堵の息を吐き出してしまう。

だがドサリとこちらに放り投げられたその獲物を随分と弱々しくなってしまった焚き火の炎で焼き始めると、僕は彼女が再び洞窟の外へと出掛けて行った気配に背後を振り向いていた。

彼女は、一体どうしたのだろうか・・・?

これまでは朝の狩りから帰って来たら1度の例外も無く昼寝と相場が決まっていただけに、そんな予想外の彼女の行動に何だか思わず動揺してしまう。

とは言え彼女の行き先を確かめる術など無いだけに、僕は取り敢えず空腹を満たすべく何とか美味しく焼き上がった食事に噛り付いたのだった。


それから、更に数十分程が経った頃だろうか・・・?

ズシ・・・ズシッ・・・

もう今にも消えてしまいそうな程に弱った焚き火の傍でお腹一杯になった体を休めていると、僕は再び聞こえて来た彼女の足音で静かに目を開けていた。

そしてのそのそと洞内に入って来た彼女の腕に僕には両手でも到底持ち切れない程に沢山の枯れ枝が抱えられていたのを目にした瞬間、その俄かには信じ難い光景に思わず声を失って石のように固まってしまう。

ガラガラガラガラッ・・・

「わっ・・・」

やがて僕の目の前にあっという間に堆く積み上がった薪の山が出現すると、そのまま何も言わずに寝床へと蹲った彼女が早くここへ来いとばかりに鋭い竜眼で僕を睨み付けてくる。

僕はそれを見て火を維持する為に数本だけ薪を焚き火の中へ放り込むと、彼女を待たせないように慌ててその暖かい懐へと冷え切った体を擦り寄せたのだった。


「グオオオオオッ・・・・・・グオオオオオオッ・・・」

雪に覆われた森の中で希少な獲物を追い続けた疲労からか、或いは僕の代わりに焚き火の為の薪拾いまでしてきたからだろうか・・・

普段よりも随分と深い眠りに就いているらしい雌竜の鼻先から、まるで大気を揺らすかの如き大きな鼾が轟いてくる。

優に数日分はあるだろう大量の薪を拾って来たということはこの雌竜もまだしばらくは僕を殺すつもりが無いのかも知れないが、結果的に彼女の手を余計に煩わせてしまったという思いが何故だか静かに僕の胸を締め付ける。

明確な理由も目的も分からないまま逆らうことの出来ない強大な存在にただただ生かされているという状況に、僕は何時しか死に対する不安や恐怖よりも自身に対する無力感や情けなさを強く感じるようになってしまっていた。

それでも僕がまだ何とか正気を保てているのは、この恐ろしい巨竜と共に眠りに就くこの一時が余りにも救いの無い絶望的な境遇の中にあって残酷なまでの心地良さを内包していたからかも知れない。

火竜らしくその体の内側に炎を灯しているかのような無上の温かさを誇る彼女のお腹に体を触れているだけで、僕はそれが心の底から憎むべき仇敵であることを忘れ掛けてしまう程の安心感に包まれたのだった。


やがて連日のように降り続いていた雪が止み、殺風景な森の中にも微かな温もりを孕んだ春風が吹き始めた頃・・・

僕は毎日欠かさずに届けられる食事とここへ来て以来1度も消えることの無かった暖かい焚き火のお陰で、それから実に数ヶ月に亘って続いた寒冷地の厳しい冬を何とか乗り切ることが出来たのだった。

あの後も雌竜は僕に対して何か声を掛けたり命を脅かすような言動を見せたりすることはほとんど無く、僕は結局のところどうして彼女が僕を生かし続けているのかという最大の謎の答えを未だに見つけられずにいる。

だが何処と無く危うい均衡の上に成り立っているだけのように見える今の平穏な関係が崩れてしまいそうで、僕は悲しいことにその理由を直接彼女に訊く勇気もまた持ち合わせてはいなかったのだ。


そんなある日のこと・・・

「ほら・・今日の分の飯だよ」

ドサッ・・・

僕は朝の狩りから帰って来た雌竜が2羽の野兎を捕まえて来たのを見て取ると、彼女が今日も久し振りに何処かの人里を襲撃するつもりらしいことを悟っていた。

「今日は・・・何処へ行くの・・・?」

そして長い共生生活のせいで彼女に対する警戒心が随分と薄まってしまっていたのか、食事の後に普段であればおくびにも出さないはずのそんな質問をつい彼女に投げ掛けてしまう。

「そんなことを訊いて・・・どうするつもりなんだい・・・?」

「別に・・・だたちょっと、気になったから・・・」


だがギロリと鋭い視線を突き刺されながらドスの効いた声でそう凄まれて、僕は俄かに跳ね上がった心臓の鼓動を抑えるように両手を胸に押し当てながらたじろいでしまっていた。

「フン・・・可愛げの無い小僧だね・・・お前はただ、あたしが留守の間に黙って寝床を暖めておけば良いのさ」

やがてそう言いながら寝床に蹲った彼女が、無駄口を叩いてないで早く来いという余りにも明瞭極まりない欲求を滲ませながらその大きな手でバンバンと荒々しく地面を叩く。

そして躊躇いがちに自らの懐へとやって来た僕を何時も以上に力強く自身の腹へ押さえ付けた雌竜が眠りに就くと、僕はその人間には到底抗い難い怪物の荒らぶる所作に内心怯えながら深い溜息を吐いたのだった。


今夜も、きっと大勢の人間達がこの雌竜の手に掛かって命を落とすことになるのだろう・・・

今自分の体を抱えているこの雌竜の手がこれまでに数え切れない程多くの人の命を無慈悲に摘み取って来た血塗られた凶器なのだと考える度に、懸命に僕のことを護ろうとしてくれた両親の最期を思い出してしまう。

そんな僕の胸の内に灯るのは、どんなに時間が経っても決して色褪せることの無い激しい怒りと怨嗟に満ちた紅の炎の如き激しい復讐心。

だがこの雌竜は、わざわざこの僕にそれと分かる形で両親を無惨に虐殺したのだ。

もしそれが、僕の心に決して消えない復讐の決意を植え付ける為だったのだとしたら・・・

彼女は一見して終始従順を装っている僕が、その一方で自身に対する黒々とした負の感情を醸成していることにはもうとっくの昔に気が付いていたのかも知れない。

では何故彼女がまだ僕を生かしているのかと問われればそこに明確な答えを用意することは難しいものの・・・

僕は何時しか彼女の中に起こったのだろう微かな心境の変化が、想像通りのものであることを静かに願ったのだった。


その日の夜・・・

僕は夕食の野兎を焚き火で焼きながら、数時間前に何処かへと出掛けて行った雌竜の帰りを待っていた。

何時も人間の町や村を襲いに行った日は随分と遠出をしているのか帰りが深夜になることが多かったから、きっと今日も僕が眠りに就く頃に満足そうな捕食者の笑みを浮かべて戻って来るのだろう。

そんなに頻繁に大勢の人間達を襲っては嬲り、弄び、そして無残に食い散らかしているというのに、最も彼女の身近に身を置いている僕があれから半年近く経った今もまだ無事でいられるのは何故なのだろうか・・・

故郷を奪われ身の拠り所を失った僕にはもう自発的にここから逃げ出す意思も理由も気力も残ってはいないものの、それは彼女が僕を手に掛けない理由には決してならないはずなのだ。


何度も・・・何度も何度も何度も・・・

それは彼女のいない独りの時間を過ごす度に僕の頭の中を埋め尽くしていく、たった1つの難解な疑問。

尤も、その疑問が僕に解けないのはきっと僕の中で凝り固まっているある種の常識か・・・

あるいはあの雌竜に対する先入観のようなものが、柔軟な思考を妨げてしまっているが故なのかも知れない。

そして何時までも確かな答えなど出るはずも無い自問自答にそろそろ疲れ果ててしまうと、僕は彼女よりも一足早く眠りに就こうと焚き火の傍で横になっていた。

だが顔に照り付ける炎の熱を感じながら目を閉じた数秒後、雌竜の帰還を示すドオオォンという盛大な着地音が洞窟の外から鳴り響いてくる。

「あれ・・・?今日は早いな・・・」

所詮は体感でしかないものの、まだ時刻は夜の9時も回ってはいないはず・・・

それなのに、彼女はもう帰って来たのだろうか?

そしてそんな何処か半信半疑な表情を浮かべたまま横たえていた体を起こして待っていると、例によって全身に無数の返り血を浴びた不気味な姿の雌竜が上機嫌で僕の前へと姿を現していた。

「あ・・・きょ、今日はその・・・早いんだね・・・」

「それが・・・どうかしたのかい・・・?」

やがて昼間に続いてまたしても余計な質問を口にした僕へ、紺色の竜眼がジロリと鋭い視線を突き刺してくる。

その生物の本能に直接訴え掛けるかのような冷たい殺気に当てられて、僕は後に継ぐ言葉も忘れると寝床へ蹲った雌竜を待たせないようにあたふたと彼女の許へ走り寄ったのだった。


数多の人々の血に濡れたその巨竜の腹が、今日も大きく膨らんでいる。

人間という確かな生命を事も無げに呑み込んでは自らの血肉として消化してしまう恐ろしい器官に身を寄せながら、僕はそこから聞こえるゴロゴロという低い唸りにただただ耳を澄ましていた。

こんな目に付いた人間を片っ端から襲っては食い殺すような凶悪な化け物の傍に居るというのに、一向に危害を加えられないばかりかある種の庇護まで受ける唯一無二の存在・・・

僕にもそれが何なのかくらいは想像が付くものの、僕自身は決してそんな存在ではない・・・はずなのだ。

ならばやはり・・・僕は単に彼女の気紛れでまだ手を付けられていないだけの保存食でしかないのだろうか・・・

「うっ・・・」

今更ながらに思い出した自身の置かれている境遇とその先にあるのだろう末路を思わせるくぐもった消化の音に、僕は思わずブルッと恐怖を振り払うように身震いしていた。

だがそんな僕の体を、雌竜が余りにも大きな手でギュッと温かい腹へ押し付けてくる。

ここから、逃げなくては・・・

数日に1度洞内に漂うこの微かな血の臭いも相俟って、僕はどういうわけかそれまで決して選ぶことの出来なかったある1つの大きな決断を今夜初めて胸の内に刻み込んだのだった。


次の日の朝・・・

何処かの町や村で恐ろしい惨劇があったのだろう夜が明けると、雌竜はそんな修羅場の中心に身を置いていたことすらまるで覚えていないかのように何時もと変わり無く朝の狩りへと出掛けて行った。

やがてしんとした洞内に独り取り残されると、昨夜胸の内に固めた覚悟が今も揺ぎ無いことを必死に確認する。

もう今日が何月何日なのかすら僕には分からないものの、もし失敗すれば間違い無く今日が僕の命日になるだろう。

とは言え、そうでなくとも僕の命はずっと何時摘み取られてしまってもおかしくない状況に置かれていたのだ。

そして薪を拾い集めに行く時と同じように何気ない雰囲気を装って外へ駆け出すと、僕は何処からか雌竜が僕のことを監視していないことを祈りながらただひたすらに薄暗い森の中を歩き続けたのだった。


1時間・・・2時間・・・

ただでさえここがどのくらいの広さの森なのか、どちらの方角にいけば人里が近いのかといった情報が皆無なせいもあり、僕はどれだけ歩いても一向に森を抜けられる気配が無いことに半ば焦燥を感じ始めていた。

今朝は雌竜が満腹だったせいか起きたのは普段よりも少し遅めだったから、今はもう正午近い時間のはず。

森を覆い尽くしていた雪はもうすっかりと消え去ったことだし、あの雌竜も冬場より狩りに時間は掛からないだろう。

だとすれば、もしかしたら彼女はもう住み処の洞窟に戻った頃かも知れない。

そして彼女はそこで初めて、僕がまだ帰ってきていないこと・・・あの洞窟から逃げ出したことを知るのに違いない。

だが彼女は、あの深い雪に覆われた苛酷な環境の森でさえ野生の獣を狩り損なったことはただの1度も無かったのだ。

だとすればこんな見晴らしの良い森の中で道に迷い無秩序に逃げ惑う人間の子供を追って捕らえることなど、あの雌竜には造作も無いことのはず。

心地良い昼寝を楽しむはずの時間に余計な手間を掛けさせた僕をあの凶暴な雌竜が許してくれるわけもなく・・・

もし捕まれば、僕はその場で彼女の宣言通り産まれてきたことを後悔する程の恐ろしい最期を迎えさせられるのだ。

もう後戻りは出来ない・・・

それは分かっていたはずなのに、何の光明も見えないばかりか更に事態が悪化しただけの現状に心が蝕まれていく。

昼を回って空は更にその明るさを増していったものの・・・

その一方で不安に駆られた僕の心はどんよりと立ち込めた暗雲にすっかりと飲み込まれていったのだった。


雪融けも終わり森に棲む獣達の間に厳しい冬を乗り切ったという些かの気の緩みでも出ているのか、あたしは大して手間取りもせずに今日の獲物を狩り出すと日が天頂へと昇る前に住み処へと帰って来た。

だが何時もなら焚き火にくべる為の枯れ枝を集めて洞内で待っているはずの少年が、珍しいことに今日はまだ帰って来ていないらしい。

まあ今日に限って言えば単純にあたしの帰りが早かっただけだろうから、待っていればその内戻って来ることだろう。

あの少年をここへ連れて来てから、もう5ヶ月は過ぎただろうか・・・?

顔を見れば彼は毎日毎日あたしに食い殺される恐怖に怯えているのは明々白々だというのに、それでも一向にここから逃げ出そうという素振りさえ見せないのが正直意外ではあったのだが・・・

それを理解していながらも、どういうわけかあたしは今この段階になっても少年がここから逃げ出したなどとは露程も疑っていなかったのだった。


まあ良い・・・

今日は空も晴れているし、春先の陽気も相俟って絶好の昼寝日和というもの。

今からあの少年を探しに森へ出掛けるのも億劫だし、一足先に寝ちまうとしようかねぇ・・・

あたしはそう思って少年の為に捕らえて来た野兎を焚き火の傍へ放り投げると、まだほんのりと温もりの残っている寝床へと重い体を横たえていた。

昨夜はこれまでの小さな町や村と違って随分な大物を襲ったお陰で、心の充足感とは裏腹に体の方には隠し切れない疲労が溜まってしまっているらしい。

そして洞窟の天井に空いた小さな穴から漏れてくるぽかぽかとした陽光に照らされながら、あたしは長い息を吐き出すと静かに眠りへと落ちていった。


それからしばらくして・・・

まだ昼寝を始めてから1時間と経ってはいないような気がするのだが、あたしはそろそろと洞窟の中へ入って来たらしい1人の人間の気配で意識を覚醒させていた。

やれやれ・・・ようやく戻ってきたのかい・・・

だが意識して足音を消しているということは、きっと彼はあたしよりも後に帰ってきてしまったことに気が付いて内心怯えているのだろう。

尤も今のあたしにはそれを咎めるつもりなど毛頭無いだけに、あたしは少年が歩み寄りやすいよう眠った振りは続けながらもずっと温かい寝床に押し付けていた腹を少しだけ彼の方へと露出させていた。

それに気が付いたのか、やがてこちらに近付いてくる人間の足音の間隔がほんの少しだけ速まる。

そして・・・


ドスッ!

「ガッ・・・!アッ・・・」

次の瞬間、あたしは無防備に曝け出していた腹に長く鋭い刃のようなものを深々と突き立てられた。

そして一瞬にして脳内を沸騰させたその衝撃と激痛に目を開けてみると、20歳を少し過ぎた程度の若い兵士のような男が手にしていた長剣であたしの腹を貫いている。

「やったぞ!皆早く来てくれ!」

やがて苦悶の表情を浮かべたあたしと一瞬だけ目が合うと、その男が恐らくは洞窟の外へ待機させていたのだろう更に数人の兵士達を洞内へと呼び寄せていた。

「食らえ!化け物め!」

「王妃と王子の仇だ!」

ドスドスッ!ズブッ!グサッ!

「ア・・・ガ・・・グアアアアアッ!」

思わず咄嗟に喉まで出掛かった制止の言葉が声になる間も無く、更に数本の凶器が柔らかな皮膜に覆われたあたしの腹へと突き入れられる。


だが普通の生き物だったならまず間違い無く即死は免れなかっただろうその攻撃に意識を奮い起こすと、あたしは最初に腹を刺した兵士の体に素早く尻尾を巻き付けて岩壁の方へと力任せに勢い良く放り投げていた。

そしてゴツゴツとした岩肌に肉の塊が強かに打ち付けられた鈍い音が響いたことを確かめると、苦痛を堪えて大きく吸い込んだ息を近くに立っていた4人の兵士達へと思い切り吐き掛ける。

「うわああああっ!!!」

「ぎゃあああ~~~っ!!」

体内に蓄えられた可燃性の気体と交じり合って吐き出されたそれは瞬く間に燃え盛る紅蓮の業火となり、勝利を確信して呆けていた男達を飲み込んでは甲高い断末魔の悲鳴を絞り出しながらその身を消し炭へと変えていた。

「う・・・ぐぅ・・・」

やがて目の前で火達磨になりながら盛大にバタバタと悶え狂っていた人間達が残らず息絶えると、先程岩壁に投げ付けてやった兵士がぐったりと地面に倒れ込んだまま苦悶の呻きを漏らしたのが耳に入る。


「おや・・・まだ息が・・・あったのかい・・・」

あたしは全身に跳ね回る耐え難い激痛に顔を歪めながらも何とか立ち上がると、意識はありつつも全く体を動かせないでいる憐れな人間へゆっくりと近付いていった。

やがてあたしの手が人間に触れられるところまで来ると、そこでようやく怒れる怪物の存在に気が付いたのか半ば放心気味だった彼が不意に恐怖の表情を浮かべながらビクッとその身を強張らせる。

「よくもこのあたしに・・・こんなふざけた真似を・・・しれくれたねぇ・・・」

そしてうつ伏せに倒れていた男の頭を片手で鷲掴みにすると、あたしはそっと焦らすように持ち上げたその顔を間近から覗き込んでいた。

「ひっ・・・ひ・・・ぃ・・・」

「1人だけ運悪く生き残っちまったお陰で・・・お前は楽に死ねるだなんて思わないことだねぇ・・・」

もう既に恐怖の余りガクガクと震えていた男にそんな心を圧し折る駄目押しの脅し文句を浴びせながら、やがて掴んでいた男の頭をゆっくりと握り締めてやる。


ミシ・・・メリッ・・・

硬い竜鱗に覆われた太い指が、それに比べれば遥かに脆くて柔らかい人間の頭にじわりと食い込んでいった。

「あ・・・ひいぃっ・・・!」

「お前もそこの連中を同じように・・・生きたまま火炙りにしてやろうかねぇ・・・?」

やがてバタバタと力無く手足を暴れさせる男が、そんなあたしの言葉に顔を蒼褪めさせる。

「それとも・・・四肢をもがれ食われる様を見せ付けてから、意識のあるまま頭から丸呑みしちまおうか・・・」

「あ・・・ぁ・・・」

その恐ろしい光景を頭の中に描いてしまったのか、両目からボロボロと大粒の涙を流した男が激しい後悔と絶望に歪んだ表情を浮かべながらただゴクリと大きな息を呑む。

それでも何か言わなければあたしが思い付く限り最も凄惨で残酷な死を迎えさせられると思ったのか、彼はこのあたしでさえもが耳を澄ましていなければ聞き取れなかった程のか細い声で最期の声を絞り出していた。


「た・・・助け・・・てっ・・・」

グシャッ!

だがそれが特に何の変哲も無い月並みな命乞いの言葉だと理解した瞬間、あたしは掴んでいた人間の頭を一息で粉々に握り潰していた。

そしてドシャッという湿った音と共に首から上が弾け飛んだ無残な人間の亡骸が地面に転がると、そのまま立っている力も失ってぐったりと寝床の上に崩れ落ちてしまう。

「おやおや・・・こいつはどうやら・・・血を失い過ぎちまったようだねぇ・・・」

自分でもそれが何を意味しているのかは十分に理解していたものの・・・

あたしはじわじわと迫ってくる不吉な死神を背負った睡魔達を懸命に退けながら、少年が洞窟に帰って来るのをただじっと待ち続けたのだった。


駄目だ・・・もう何処をどう歩いているのか、自分でも良く分からない・・・

僕は何処まで行っても同じような景色にしか見えない深い森の中をあちらこちらへ歩きながら、だんだんと胸を締め付けられるような激しい焦燥を感じ始めていた。

それはあの雌竜の許から逃げ出したからというよりも、もっと根源的な・・・

この深い森の中で方角を見失って遭難してしまったという、極めて現実的な問題に直面していたからだろう。

元々薪を拾う為に森へ入っていた時は洞窟の場所を見失わないように余り遠出をしなかったこともあって、これ程までにこの森が深く手に追えない場所だという認識は持っていなかったのだ。

幸い真南から僅かに西に傾き掛けた太陽の位置を見れば洞窟から見て南西側にいるらしいことは何とか理解出来るのだが、3時間近くも歩いているせいもあって距離はもう随分離れてしまったことだろう。


「ああ・・・どうしよう・・・」

今の季節は春・・・

凍えそうな程に寒かった冬とは違って日中の陽気は比較的心地良い温もりに満ちていたものの、夜ともなれば風の無い洞窟の中でさえまだ焚き火の傍から離れられない程度には冷え込む時期だ。

当然ながら、火も焚かずに吹き曝しの屋外で一夜を明かすなどというのは自殺行為というものだろう。

だが洞窟へ戻ろうにも、これといった特徴の見当たらない針葉樹ばかりの森の中ではどちらの方向へ向かえば良いのかさえ見当も付かないのだ。

やがて道に迷った人間が無意識にそうするというように太陽の方向へ向かってしばらく歩いていくと、それまで辺りを吹き抜ける風の音しか聞こえていなかった僕の耳へ微かにだが水が流れる音が届いてくる。

そして疲れ切った足を速めて音のする方へ向かってみると、僕はそこに流れていた小さな川を見つけていた。


そうだ・・・この川を上流へ遡って行けば・・・洞窟のすぐ傍まで戻れるかも知れない。

この5ヶ月間水を飲むのにも服を洗うのにも毎日のように通ったあの場所ならば、周囲の風景もしっかり覚えている。

ここへ辿り着くまで3時間程掛かったとは言っても、最短距離ならば帰りはもっと短い時間で帰れることだろう。

彼女には正直に道に迷ったと言い訳するしかないだろうが、少なくともこんなところで夜を迎えて凍えるくらいならあの洞窟へ戻った方がまだマシというものだ。

まあそれも・・・彼女の怒りを買ってその場で殺されずに済んだのならという話でしかないのだけど・・・

そして数分の葛藤の末に何とか帰る決断を下すと、僕は穏やかな川の流れに沿って森の中を北上し始めたのだった。


それから、1時間余りが経った頃だろうか・・・

僕はようやく見覚えのある場所まで戻ってくることに成功すると、もう夕焼けの気配が滲み出し始めている空を目にして恐る恐る洞窟へと足を踏み入れていった。

だが入口から中へ入った途端に奇妙な異臭が鼻を突いたことに気が付いて、思わず足を止めてしまう。

何だろう、この臭い・・・何処かで嗅いだことがあるような気がするけど・・・

そしてそこまで考えた瞬間、僕は脳裏にあの忌まわしい記憶を呼び起こされていた。

そうだ・・・これは・・・僕の故郷の村が壊滅した時にも嗅いだ、あの人の焼ける臭いだ。

それに、噎せ返るような濃い血の臭いも・・・

一体、この奥で何が起こっているのだろうか・・・?

その余りにも不吉な雰囲気に僕はこれ以上進んでもいいのかしばし迷っていたものの、それでも何とか勇気を振り絞るとそっと足音を殺しながら洞窟の奥へと歩を進めていった。


「あっ・・・」

だがいよいよ雌竜の棲む最奥の広間へと辿り着いた瞬間、僕はそこに広がっていた光景に思わず息を呑んでいた。

そこらの地面に転がった、辛うじて人の形を留めている真っ黒に焼け焦げた幾つもの死体。

更にその奥には頭でも握り潰されたのか首から上の無い血塗れの骸が横たわっていて、恐らくはこの人間達に一斉に腹を剣で突き刺されたのだろう雌竜が苦しげな表情を浮かべながら寝床の上に蹲っていた。

「何だい・・・今頃帰って来たのかい・・・?全く・・・間の悪い小僧だねぇ・・・」

「な、何が・・・あったの・・・?」

「なぁに・・・あたしとしたことが、ちょいと油断しちまったのさ・・・ウッ・・・グフ・・・」

何時も僕を脅し付けていたあの野太い声とは余りにも懸け離れた、力無くか細い雌竜の声。

それを聞いただけで、彼女の命がもう残り少ないのだろうことが理解出来てしまう。


「小僧・・・そいつを・・・拾いな・・・」

「え・・・?」

やがてどうしていいのか分からずに固まっていた僕を苦しげな表情で見つめながら、雌竜が地面に落ちていた血塗れの剣を指で指し示していた。

「剣・・・を・・・?どうして・・・」

「お前はずっと・・・このあたしを殺したかったんだろう・・・?今が、それを叶える最後の機会だからねぇ・・・」

今にも途切れてしまいそうな声でそう言われ、僕の手がまるで操られるように剣を拾い上げてしまう。

ズシッ・・・

「うっ・・・」

だが鍛え上げられた厚い鋼で出来た剣は想像していた以上に重く、僕は両手で何とかそれを持ち上げるとよろよろと雌竜の許へ近付いていった。

それを見て、雌竜が真っ赤な血に染まった深い刺創だらけの痛々しい腹を僕の方へと向けてくる。

「さあ・・・一息にやりな・・・」

そしてそんな彼女の声を聞いた瞬間・・・

胸の内に湧き上がった激情に駆られた僕は持っていた剣を思い切り頭上へと振り上げたのだった。


目の前に、あれ程憎んだ雌竜がいる。

そう思っただけでずっしりと重い剣を握り締めた両手に力が漲り、同時に心臓の鼓動と呼吸が激しい緊張と興奮に荒く昂っていった。

これを振り下ろせば、決して叶わないと思っていた雌竜への復讐が遂げられる・・・

もう僕に残っている望みはそれだけ・・・それだけの・・・はずだったのに・・・

ガララァン・・・

僕は剣を振り上げた体勢のままたっぷり1分程も熾烈な葛藤に苛まれると、ついに持っていた剣を地面に放り投げていた。

重い鋼の転がる甲高い金属音が洞内にこだまし、その光景を目にした雌竜が驚きに眼を瞠る。


「駄目だ・・・僕には・・・そんなこと出来ないよ・・・」

「お前は・・・このあたしが憎くはないのかい・・・?」

だが何処か困惑の色を隠せないでいるその雌竜の言葉に、僕は顔を上げていた。

「憎いよ!ずっと・・・ずっと許せなかった・・・毎日毎日・・・お前を殺したいと思ってた・・・今も・・・」

口では雌竜への怨嗟を叫びながら、その一方で何故か両目から涙が零れてくる。

「だけど・・・ここへ来てから毎日食べ物を獲って来てくれて・・・冬は薪も拾って来てくれて・・・それに・・・」

必死に胸の内で押し殺していた、この雌竜に対する受け入れ難い感情。

憎しみと殺意ばかりを滾らせていた僕の中の黒い炎に、それが仄かな赤色を差し込んだのだ。

「夜は僕が凍えないように温めてくれて・・・他に優しくされた記憶なんてほとんど無いけど・・・」


その先に続く言葉を読み取ったのか、表情は変わらなかったものの彼女の手が静かに握られる。

「ここ最近は少しだけ・・・本当に少しだけだけど・・・感謝も・・・してたんだ・・・」

そしてそこまで言い切ると、僕はその鱗と区別が付かない程に深い紅色に染まってしまった彼女のお腹に縋っていた。

「どうして・・・何時からかは分からないけど・・・僕を殺すつもりなんて無かったんでしょ・・・?」

「・・・・・・」

そんな僕の問い掛けに彼女からの返事は無かったものの・・・

声に出す代わりに優しく僕を見つめる紺色の竜眼が、その答えを雄弁に物語っている。


「だから・・・し・・・死なないで・・・」

それは、僕が人生で初めて心の底からの願いを込めた言葉だったのかも知れない。

だが現実は無情なもの・・・

人間の僕が見ても一目で致命傷と分かる余りにも深く大きな傷口から、彼女の命が赤い雫となって止め処無く溢れ出していった。

「お前は・・・つくづくおめでたい小僧だねぇ・・・」

やがてそう言いながら、彼女が僕の頭をその大きな手で優しく撫でてくれる。

「お前をこんな目に遭わせたあたしを憐れんでくれるなら・・・最期まで・・・傍に居ておくれ」

「うん・・・うん・・・一緒にいる・・・」

そんな僕の返事を聞くと、彼女は苦痛を堪えるように長い息を吐き出していた。


「あたしにも・・・もし子供がいたら・・・良い母親くらいにはなれたのかねぇ・・・」

それはとても凶暴な怪物が発したとは思えない、耳を擽るような穏やかで落ち着いた声。

もしかしたら彼女は、最初から人間に仇を成す悪辣な存在ではなかったのかも知れない。

そんな彼女が多くの人々に恐れられる魔獣となったのは・・・

きっと生涯自分の子供を持てなかったことによる反動だったのだろう。

そしてもし彼女が心変わりした瞬間があるのだとしたら、それは恐らく僕が初めてこの洞窟に連れられてきたあの夜、彼女に握り締められて気を失った時なのに違いない。

だが僕の家族と故郷を奪い死ぬ程恐ろしい目にも遭わせてしまった手前、きっと彼女は僕にどう接して良いのか分からなかったのだ。

彼女は自分の口からは何も言おうはしなかったものの、僕はそんな彼女の心境を独りでに読み取ると大きな"第二の母親"が息を引き取るまでの数十分を静かに洞窟の中で過ごしたのだった。


次の日の朝・・・

僕は既に冷たくなってしまった雌竜のお腹に突っ伏していた顔を上げると、まだその傍で微かに小さな炎を燻らせる焚き火へと顔を向けていた。

天井から差し込む朝日と淡い炎の明かりに照らされた洞内で目に見えるのは、無惨な死を迎えた数人の人間達の亡骸とそれとは対照的に穏やかな微笑を浮かべたまま息絶えている雌竜の姿だけ。

そして一晩中泣き腫らしたせいでくっきりと涙の跡が残ってしまった顔を腕で擦ると、僕はその手の中に彼女の大きな爪と牙が1本ずつ握られていたことに気が付いていた。

それを見た瞬間、昨夜彼女が僕に言った"遺言"が脳裏に思い起こされる。


チャラッ・・・カチャチャッ・・・

共に過ごした半年足らずの日々について雌竜とお互いにもう語ることも尽きた頃・・・

最早虫の息と言っても良い程にまで弱ってしまった彼女は、突然自身の牙と爪を1本ずつ折り取るとそれを僕の手にそっと握らせていた。

"これ・・・何・・・?"

"あたしが死んだら・・・その爪と牙を持って・・・この山を北側へ抜けたところにある王国へ行きな・・・"

"王国・・・?この近くに、王国があるの?"

そんな僕の質問に、彼女が辛そうな表情を浮かべながら首を縦に振る。

"山を越えるのは少しばかり大変かも知れないけれどねぇ・・・そこなら、きっとお前を受け入れてくれるはずだよ"

確かに、小さな町や村ならいざ知らず・・・

裕福な人々も多く暮らす王国ともなれば、身寄りの無い子供を受け入れてくれるところもあるのかも知れない。

"うん・・・でも、これは・・・?"

"それは持っていけば分かるさね・・・決して・・・無くすんじゃないよ・・・"

そしてそれだけ言うと、彼女は最期にまるで微笑むような緩んだ表情を浮かべながら事切れたのだった。


「王国か・・・」

とにかく・・・彼女が死んでしまった今となっては、これ以上ここに留まる理由は無いだろう。

そして最後にガラガラと薪床を崩して焚き火を消し止めると、洞窟を出た僕は今日もすっきりと晴れ渡っている空を見上げていた。

今日中に、山を抜けられるだろうか・・・?

これまで余り足を踏み入れたことの無い山側へと続く道を歩きながら、ふとそんな疑問が脳裏に浮かんでしまう。

だが数時間掛けて何とか山頂付近にまで辿り着くと、僕はそこから見えた山の裾野に広がる広大な町並みとその中央に聳え立つ大きな白壁の城の姿に激しい興奮を覚えていた。

それに、山の北側の方は比較的森の樹木も疎らで南側に比べれば随分と先の見通しも効きやすいように見える。

これなら、特に道に迷う心配も無くあの王国まで辿り着けることだろう。

先程まで暗澹とした気分に沈んでいた胸の内に突如として湧き上がったその希望に、僕は山登りで溜まった疲労も意に介さずに再び前に足を踏み出したのだった。


「凄いな・・・この町・・・広過ぎて向こう側が見えないや・・・」

それから更に数時間後・・・

空がほんのりと朱に染まり始めた頃になって、僕はようやく城下町の入口へと辿り着いていた。

だが山頂からは一見して優雅に発展しているように見えた町並みも、所々に破壊の爪跡や家々が燃え落ちた瓦礫の山、それに家族に不幸でもあったのか喪に服しているらしい人々の姿が至るところに目に付いてしまう。

ということは、先日あの雌竜はこの王国を襲撃したのに違いない。

何時もより随分と帰りが早かったのも、ここが住み処から距離が近かったからなのだろう。


そして見渡す限りに広がる大きな町の其処此処に顔を覗かせるそんな雌竜の暴挙の痕跡を眺めながら何時の間にか大きな城までやって来てしまうと、僕はその前に立てられていた木で出来た看板へと目を向けていた。

やがてそこに書かれていた内容を読んだ瞬間、思わずポケットに突っ込んでいた彼女の爪と牙を握り締めてしまう。

"現在国王様は、悪逆なる火竜の手に掛かり命を落とした妃と王子の死を悼み7日間の喪に服している"

"その為、不要不急の用向きで国王様への謁見は極力控えること"

"また南の山に棲まう真紅の火竜を仕留めてその証拠の品を持ち帰った者には、何でも望みのままの褒美を取らせる"

彼女はきっと、このことを知っていて僕に自身の爪と牙を持たせたのだろう。

とその時、看板の前で立ち尽くしていた僕の姿を見つけたらしい城の衛兵の1人が僕に声を掛けてくる。

「どうしたんだ坊主?もう時間も遅いし、早く家に帰った方が良いぞ」

「あ・・・そ、その・・・国王様に、これを・・・」

だが僕がそう答えてポケットに入れていた雌竜の爪と牙を衛兵に見せると、しばしの沈黙の後にその正体を悟ったらしい彼が突然その顔色を変えていた。


「お、おい坊主・・・それはまさか・・・竜の爪と牙か?」

「そうです。あの南の山に棲んでいた・・・赤い雌竜の爪と牙です」

それを聞いた彼は、僕に"ちょっとそこで待っていろ"とだけ言い残して大急ぎで城の中へと飛び込んでいった。

そして10分程の間を置いて戻って来た彼が、僕を城の中へと案内してくれる。

「国王様がお会いになるそうだ。だが今は喪中の故、特に粗相が無いように気を付けるんだぞ」

王様が・・・僕に・・・?

国中にお触れを出して懸賞金まで掛けているような雌竜が死んだ証を持って来たのだからその扱いは別におかしくないのかも知れないが、僕のような異国の子供に一国の王様が直々に会うというのは恐らく異例の事態なのだろう。

その証拠に、僕を案内してくれている衛兵も城内で擦れ違う人々も、皆一様に緊張と驚きの表情をその顔に浮かべている。

だがいよいよ王様がいるという玉座の間に繋がる大きな扉の前に辿り着くと、僕はその重々しい扉がゆっくりと開かれていく光景に胸を高鳴らせたのだった。


その数秒後・・・僕が目にしたのは、だだっ広い部屋の中央に並んでいる大きな玉座の片方に座って小さな来訪者を見つめている、豪奢な出で立ちに黒いマントを羽織った老齢の王様の姿だった。

そして部屋へ入った僕の後ろで扉が閉じてしまうと、その場に僕と王様の2人だけが取り残されてしまう。

だがどうして良いか分からずに緊張した面持ちを浮かべながらその場に立ち竦んでいると、そっと席を立ってこちらに近付いて来た彼が穏やかな口調で話し掛けてきた。

「そう畏まらずとも良いぞ。今この場には、ワシとそなたの2人しかおらぬ。誰もそなたの無礼を咎めはせぬよ」

「は、はい・・・」

「それで・・・南の山に棲む火竜の爪牙を持って来たと聞いたが・・・それは一体どうやって手に入れたのじゃ?」

やがて投げ掛けられたその王様の問い掛けは、当然のことながらこの僕が実際にあの凶暴で恐ろしい雌竜を殺したわけではないだろうという推察の上に成り立っているものだった。

それに、もちろん僕もこの場で彼女を殺したと強弁するつもりは毛頭無い。

僕に出来ることはただ・・・この半年足らずの間に体験した"事実"を全て包み隠さずに話すことだけだったのだ。


「成る程・・・故郷の村を滅ぼされ、それ以来ずっとかの火竜の許で共に暮らしていたと・・・」

「そうです。かの・・・あの雌竜は、昨日洞窟へとやって来た兵士達によって傷を負い、昨夜息を引き取りました」

「そしてその最期を看取ったそなたが火竜の爪牙を譲り受け、遺言に従ってこの城へとやってきたのだな」

その王様の言葉に、僕はただ深く頷くことしか出来なかった。

こんな突拍子も無い話を、一体誰が信じてくれるというのだろうか。

下手をすれば僕は、竜殺しを騙りこの国に取り入ろうとした大嘘吐きの汚名を着せられて処刑されてしまってもおかしくはないだろう。

だが王様は僕の話を聞くと、その顔に慈悲深い笑みを浮かべていた。

「そうか・・・そなたも・・・大変な苦労をしたのだな・・・」

「僕の話を・・・信じてくれるんですか・・・?」

「もちろんじゃ。それにあの火竜が除かれたという事実に比べれば、そこに至る経緯など些細な問題というものよ」

僕はそんな彼の言葉に、取り敢えずは安堵の息を吐き出していた。


「して、少年よ・・・褒美は一体何を望むのじゃ?」

「え・・・褒美・・・?で、でも・・・僕は・・・」

「それを受け取る資格は十分にあるじゃろう。そなたは、あの火竜の死の証をこうして持って来たのじゃからな」

確かに王様が言うのならそうなのかも知れないが、突然望みのままの褒美と取らせると言われても元々そんなものを貰うつもりの無かった僕は大いに困惑してしまっていた。

だが幸いなことに、今の自分に必要な物だけはすぐに頭の中に思い浮かんでくる。

「僕は家族と故郷を失い、何処にも行く当てが無いんです。だから・・・この国に、住まわせて欲しい・・・」

「ふむ・・・成る程の・・・」

そんな僕の言葉に、王様が少しばかり思案するように長い顎鬚を撫で下ろしていた。


「それならば・・・そなた、ワシの養子にならぬか?」

「え?よ、養子・・・に・・・?」

「さよう・・・ワシはあの火竜の襲撃で妻と一人息子を失い、今はもう独りの身・・・」

そう言いながら、王様が僕と目線を合わせるようにその場へとしゃがみ込む。

「この歳では新たに妻を娶ることも子を儲けることも、とても容易なことではないからのぅ・・・」

「でも・・・だからって僕なんかが・・・」

「それにの・・・今この国の民達は皆、妃と王子を失って深い悲嘆に暮れておる」

確かに、城下町を歩いている間に感じたのはそこに住む大勢の人々の深い悲しみがその大部分を占めていた。

あれは自分の家族や知人を雌竜の襲撃で失ったからだけではなく、国の要とも言うべき国王が今の代で潰えてしまうということに対する不安も多分に含んでいたのだろう。

「その民達を今の苦しみから少しでも救う為には・・・希望と、分かりやすい英雄が何よりも必要なのじゃ」

分かりやすい英雄・・・それはつまり、あの雌竜を打ち倒しこの国に平和を齎した者という意味だろう。

もちろんそれは事実とは異なるものの、王様はこの僕に国を救った英雄として振舞って欲しいと言っているのだ。

「そして、ゆくゆくは王子として正式にワシの跡を継いで欲しいのじゃよ」

ぼ、僕が・・・この国の・・・王様に・・・?

余りにも唐突な、しかしこれ以上無い程に胸を擽る王様の申し出。

僕はしばしの葛藤の末に覚悟を決めてゆっくりと頷くと、そのまま王様に連れられて奥の部屋へと通されたのだった。



それから10年後・・・

僕はもうすぐ20歳となる次の誕生日を以って、"父上"から正式に王位を継承されることに決まった。

雌竜の爪と牙を持ってこの国を訪れたあの日以来、僕は国を救った新たな王子として大勢の民衆達に受け入れられ、同時にこの大きな国を円満に治める為の政治と学問を修めることにひたすらこの10年を費やしてきたのだ。

やがて盛大な王位継承式が開かれることになるのだろう誕生日が翌日に迫ったある日・・・

19歳最後の晩餐を終えた僕は自室を抜け出すと、城の裏手に新しく作られた小さな3つの墓へと足を運んでいた。

その内の2つには王子となった後に"父上"の許可を得て訪れた故郷の村から拾って来た両親の骨が埋められていて、僕は毎日欠かさずに最期まで僕を護ってくれた彼らにここで感謝の念を捧げている。

そして残りの1つには、あの雌竜から貰った大きな爪と牙がそのまま彼女の墓標として土の上に突き立てられていた。


これはかつて数多くの人々の命を無慈悲に奪った凶器でありながらも、彼女がせめてもの罪滅ぼしの為にと僕に遺してくれた、血塗られた遺産。

この国の人々は以前の僕と同じように・・・きっと誰もがあの雌竜をこの上なく恐れ、憎んでいたのだろう。

だがしかし・・・僕はその中にあって唯一、彼女にも両親に対するそれと同じだけの深い感謝を抱いていた。

あの恐怖と不安に満ちた5ヶ月余りにも及ぶ彼女との生活が、王子として様々な責任と重圧を背負う今の僕を力強く支えてくれている。

"頑張るんだぞ"

"あなたは私達の誇りよ"

"しっかりやりな、小僧"

そしてそんな3つの声に背中を押されると、僕は墓の前で手を合わせたままポロリと大粒の涙を溢したのだった。


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