6.
「すぐ後ろに止まっていたタクシーの運転手が、いらいらして、どなったんだよ。『ばばあ! あぶないぞ!』とね。それでその人と目が合ってね、それでふうっと心の中に浮かんできたことがあったんだよ。だけどそれが何だかわからなくてね、あたしがぼんやりしていたから、もう一度運転手がどなった。『どけよ! ばばあ! ひいちゃうぞ!』と」
章一はだんだんいらいらしてきていた。
「で?」
「思い出したのさ。裏野ハイツの101号室の男のことを」
章一の母が言うには、その101号室の男は、いつもにこやかに話しかけてきて、感じ良く、母は好感を抱いていたのだそうだ。「でも、何かがおかしかったんだよ」と母は言った。
会話の中で「同居人の手がかかって」とふとその男が口にしたので、母は自分も介護をしている身であるから、何か役に立てるかと思い、親切心からその同居人のことを聞こうとしたのだが、そうすると話を逸らすのだという。
ここからが母の独自の世界だ。
「その逸らし方が、暗かった」と母は言った。「その場合、生霊ではなく、死霊が付いている可能性がある」と母は踏んだ。だから、もしかしたら、その同居人というのは、もうこの世の人ではないかもしれないと。あるいは、死に瀕している人なのかもしれないと。
「そういう場合はね、付き物落としの物を食べれば、少しは良い方向に向かう」と母は言うのだ。
「で、その時、何か持って行ったわけ?」
と章一は聞いた。
「もちろん」
と母はにんまりと笑った。
母は自分で霊と食物との関係という研究をしていると言い張っている。自分の経験から、食物を食べた後と物事の成り行きの関係までを突き止めている、と母は言い張る。母は何やらノートに書き込んでいることがあり、そのノートには、ある食物とそれをふるまった後の出来事との関係を事細かに記録しているのだそうだ。
「ブリ大根を持っていったんだよ。ブリは脂がのっているし、出世魚だからね、ものごとを良い方に転換してくにはぴったりの魚なんだ。大根は身体の中にたまった暗いものを浄化するしね」
と母は笑った。
すると101号室の男は、ドアを開けずにどなった。
「ばばあ! あぶないぞ!」
と。
「人の生活に首を突っ込むな! 怖い目にあうぞ!」
と。
それは101号室の男の声に違いなかったが、その後、外で会う時にはまた何事もなかったかのようににっこりと笑いかけ、話しかけてくる。
「あの男はサイコだったね。一瞬にして人が変わる。でもね、人に直接接ししている時にはいい人になってしまうのさ。ドア一枚あれば、人は変われるんだよ」
と母は言った。
章一はいらいらしながらも、母の話を辛抱強く聞いた。
「で、今日、裏野ハイツに行って、どうだったの?」
「101号室には行かなかったよ。隣の隣の人のところに聞きに行っただけだよ」
と母がにやにやした。
「まあ、あそこの奥さんもびくびくしていてね、悪い人じゃあないんだけれど、あたしのことを嫌っていたからね。はっきりと聞くことはできなかったけれど、収穫はあったのさ。101号室の郵便受けにはテープが貼ってあって、郵便物を受付ないようになっていたし、ガスの説明書がドアに引っかかっていた。どうも、あの部屋は無人の感じがしたんだよ」
「感じがしただけだろ?」
「そう。でもね、それから図書館に行って、地方新聞の小さい記事を探したんだ。そうしたら、あったよ。事故の記事がね」
「それは本当にその人の記事なの?」
「さあな。名前も載っていなかったから、わからないけれどね。感じたんだよ。あの男が事故に遭って、その死霊が道に張り付いていたんだとね。物事が起こる時には何かしらつながりがあるし、意味がある。ショーちゃんの目は鍛えられているからね、そういうことを見つける資質があるんだよ。子どもの頃はもっとひらめきがあったよねえ。あんたが探してきた物を解決したことで、たくさんの人に感謝されたし、回収したものでたくさんの幸せが貯金できている」
章一はふーっと息を吐いた。
「全然違う場所に住んでいる人の死霊が、なんでこの駅の交差点にあったんだよ!」
「そりゃ決まってるだろ。101号室の男が教えに来たんだよ。もしかしたら、気の小さい人だったのかもしれないね。タクシーの運転手がどなったってことは…、言葉は悪いけど、あたしの危険を回避するためにしたことだろ。101号室の男は、あの日意味もなくあたしにどなって、理不尽にあたしを邪険にしたことを悔やんでいたのかもしれないね。ブリ大根を気持ちよくもらって食べてくれていたら、なんでもいい方向に進んでいたはずなのに…。まったく、気の毒な人だよ」
「で? 気が済んだの?」
「ああ、すっきりしたよ。夜回収した袋は、ちょっと破れたけれど、できるだけきれいにはがして、家に持って買って来てから、ちゃんと洗ってスクラップしたよ…。見るかい?」
母の意味不明の膨大なスクラップ帳は押入れの中に整理されている。それは母の言う「人さま様」のもので、回収できないものは、写真を撮ってあり、回収日などが記録されている。
「見なくていい」
と章一はぶすっと言った。
「そうやって不幸をひとつずつ拾って、ちゃんと霊を落として供養してやるとね、自分が幸せになれる。生きて行く上で、お金と幸せの貯金が一番大切なことだからね」
章一は母のとんでも話に付き合うことで、疲れ果てていた。翌日のことを考えると、今日はゲームをしない方がよさそうだった。
「おれ、シャワーを浴びる」
と言うと、母の顔がパッと輝き、
「そうそう。今日一日のいろいろな汚れを落としておかないとね」
とにやりと笑った。
このなんでもわかっている風のやりとりにはいつも疲れる。その日常の疲れに引きずり込まれないようにするには、心のシャッターをさらに強くする必要がある。
それにはよく眠ることだ。
一日の疲れその他をシャワーで洗い流し、自分の布団に横になると、隣の部屋から祖母の念仏のようなつぶやきが聞こえた。
「ありがたや、ありがたや。今日も一日終わりました。ありがと、ありがと、ショーイチ、ありがと」
なんなんだ?
今日は章介と章一の区別がついているのか?
「ばあちゃんもゆっくり休めよ」
章一は隣からそう声をかけた。その声が母に届いたのか?
「ばあちゃん、うちには強い守り神様がいなさる。幸せだな」
母がそう言いながらキッチンを片付けている水音が耳に届いた。
「守り神様? オレのことか?」
まったく馬鹿らしい。章一は苦笑しながら、明日の勤めのためにゆっくり眠ることにした。
こわくなくてすみません。
つまらない話におつきあい下さり、ありがとうございました。
「紅い物」に続きます。