5.
その日の帰り道、一応、また車道を確認した。やっぱり黒い物はもうなかった。
母はどんな風に言ってくるだろうか。想像したくなくても、なんだか嫌な気持ちが胸にたまってきて、章一は不快になった。
アパートの扉を開ける時、丹田に力を入れ、感情を切った。
「ただいま」
いつものように母は何かを煮ていた。 と返事し、祖母の部屋へ行くと、
「ショーイチ、いいものを見つけたんだってね。お母さんがね、うれしそうにしていたよ」
と祖母が言った。
ふと、章一は不思議に思った。章介と間違えなかったし、なんだかピントが合っているような気がする。その祖母と目が合うと、
「ショーイチ、いつもありがとね」
といつものように目をうるませて祖母が言った。
「さ、つかまって」
感情を伴わないように、章一は静かにゆっくりと祖母を車椅子に座らせた。
「お帰り! 今日は少し早めだったね」
母は心なしかウキウキとしていた。
章一が自分の部屋に入り部屋着に着替えていると、
「ショーイチ! ごはんにするよ! ばあちゃんをテーブルに連れてきてな」
毎日のお決まりの言葉で母が呼んだ。
「はーい」
食卓には、煮物のほかに餃子が並んでいた。
「今朝はね、幸せの貯金ができたからね。はずんだんだよ」
「そう」
と章一は答えた。
「貯金ができた時にはちゃんとお祝いしないといけない。餃子は皮に包まれているからね。幸せを包んで守ってくれるんだ。それに焼く食べ物はエネルギーも強いから特別の日にぴったりなんだよ」
「そう」
と章一は答えた。
「ばあちゃんも、くずしてあげれば食べられるよ。ばあちゃん、餃子が食べられて幸せだな」
と母が言った。
「餃子なんてごちそうだね。ありがと、ありがと」
と祖母が言った。
食事をする間も、母が話をしたくてうずうずしているのがわかった。なので章一は先に言っておいた。
「朝の回収の話は飯が終わってから聞くから。まず先に食べたい」
「そうだろうとも」
と母は言い、食べる音だけがひびく食事が始まった。
母はいつもになくかいがいしく働き、
「ばあちゃん、おいしかっただろ? 幸せだな」
と言い
「今日はあたしが部屋に連れて行ってやるよ。幸せだな」
と祖母をベッドへと連れて行った。
やれやれ、母のとんでもない独自話につきあわなくちゃな、と思いながらも、章一も黒い物のことは気になっていたので、なにか、不思議な期待感があった。
「今日はデザートもあるよ」
と母が冷凍庫からハーゲンダッツのクリスピーサンドを出してきた。それは章一の好物なのだ。一応、母も章一のことに気を使っているのだ。そう思いながら、章一はアイスクリームの箱を開けた。
「ね、あんたが見つけた黒い物は、黒いビニール袋だったよ」
と母が言った。
「ふうん、そうじゃないかとは思ったんだけど…」
「商店街の駄菓子屋さんあるだろ。『ほしくずや』。あそこの袋だったんだよ」
「へえ」
「どんな風に見えたんだい?」
「なんだか、車の下になると、むっくりと身体が起き上がるように見えたんだ」
「なるほどね…」
馬鹿らしいと思いつつも、章一は母が納得できる方向に会話を進めることにしていた。それにはあまり虚飾は入れてはいけない。なぜだか? 母は章一が思いもしないことを見抜くことがあるのだ。
「あれは生霊じゃあないことがわかったよ。人が亡くなった時に発する怨念とかの、死霊のほうだった。それはあれをはがした時にわかったんだよ。まあ、あたりまえといえば、あたりまえだけどね。道に張り付いているような場合は交通事故の時が多い」
「ふうん」
「たぶん、お菓子の蜜のような、べとべとしたものが袋の中に入っていて、それがもれて道に張り付いていたんだろうと思うよ」
「ふうん」
「前に住んでいたアパートの隣にあっただろ、裏野ハイツ…。あそこの101号室にいた人、あの人が交通事故に遭ったらしいな」
「なんなんだよ! それとどういう関係があるんだよ!」
そのハイツは二年前まで住んでいたアパートの隣だった。駅からは近かったのだが、駅自体が章一の通う都心からかなり離れていた。その時も母が近所の人と何かいざこざを起こして引っ越しすることになったのだ。
「ぴんと来たんだよ」
「まさか、行ってみたの?」
「そりゃあ行ったさ。ぴんときたからね。確かめないとご利益がうすまる」
章一はうんざりしていた。ここで三段跳びくらいに話が飛躍していく、それが母の独自の世界だ。
「昨日の夜、交差点に行ったのは三時くらいだったかな、ふとひらめいたんだよ。あんたが回収に行くとは言っていたけど、それは適当にあたしのことをなだめる言葉だったに違いない、とね。そのままぼやぼやしていたら、回収品が無くなってしまうかもしれない。そう思ったらいてもたってもいられなくなったのさ」
章一はさらにうんざりしていた。
「もう人通りはほとんどなかった。でも、駅前にはそこそこ車が行き来していた。それで!あんたが言っていた物はすぐにわかった。車道と言っていたからね。道に張り付いている黒い袋だとね。『ほしくずや』の袋の上の方には白い花が柄になっている。たぶん、そこのところが目に見えたんじゃないのかい?」
「さあ」
あまりの馬鹿らしさに、章一はとぼけた。
「よくあれに気が付いたね! 何か、ほかに知らせがあったんじゃないのかい?」
はて? それはあの音のことだろうと、章一は察しがついた。確かに、日常とかけ離れていた音だから章一は気が付いたのだ。だが、そこをあまり関連付けて考えると危ない。自分自身も母の世界に引き込まれてしまう。章一は慎重に言葉を選んだ。
「べつに、なんとなく気になっただけだよ」
「ほんとか? なにか音が聞こえたとか? 大きく何かが動いたとか? 何か知らせがあったんじゃないのか?」
「ないよ! それより、なんで裏野ハイツに関係あるんだよ!」
こういう時には、自分が質問者になってしまう方が逃げやすい。どのみち、母は自分の今日の成果を話したくてうずうずしているのだ。
「ショーちゃんが言っていたのが、あの黒い袋のことだとはすぐにわかったんだけどね、車が止まっている時に袋をはがそうと思ったら、これが、けっこうべっとりしていて、簡単に行かなくて車道の信号が青に変わってしまったんだよ」
「ふうん」